12-4 しらずがほに?
「意地悪なんてしてないよ。ただ何もしてあげないだけ」
光は笑って酒をのんだ。
「ひどいな、なんという無作為」
蛍が苦笑する。
「嫁さんのお父さんなんだろ?すこしは気使ってやれよ。入内には
いろいろ便宜がいるんだからさ」
「まだ小さいのに次々はべらすのも可哀想だろ?据え膳ばっかじゃ
飽きちゃうし。おなかいっぱいだし。それに」
すっと前を見た光の目は、笑っていなかった。
「俺はともかく、自分の娘が苦しんでるのに助けないってどういうこと
だよ。ありえない」
「仕方ないよ、当時は右側全盛だったんだから。太后さんも怖かったし」
「関係ねえよ。裏で手をまわすとか、やり方はあんだろ」
光とりつく島もない。
「俺、臆病な奴嫌いだから」
言い捨てて杯を干した。
さすが内大臣、貫禄が出ている。
「おおこわ。やっぱお前に嫌われると世に浮かべねえのな。よかった
仲良くて」
「お前と仲いい覚えないんだけど?」
「ええ…仲いいじゃん。文も出してたし」
「でも会いにこなかった」
「それは、ちと忙しくて…」
「権中さんはきてたよ」
「だって、行こうとしたら明石に移ったっていうしさ。そっちで女できた
とか聞いたら、行きづらいだろ」
「まあ、たしかに」
光も苦笑して、そこは許したようだった。
「生まれたの女の子らしいじゃん」
「ああ。会いたくてたまんないのにさ、母親が来てくれなくて」
娘の話になると、光もほろりとした。
「早く手もとにおいて養育したいのに、女が尻ごみばっかしてんだよ。
もうお前は関係ないんだって、自分が憂き目を見るとか見ないとか、
そんなの二の次なんだって。子が生まれたら、その子のことが一番
大切だろ?早めに教育しないといい子に育たないのにー」
いらいらして膝をたたく。
「なんでそんなに焦んだよ。まだ赤ちゃんだろ?」
「赤ちゃんの重要性をお前は知らんのか?幼児教育は常識だぞ。
胎教したいくらいだったんだから。まあそれは、母親の琴の音きか
せて何とか間に合わしたけど」
「ほんとガキの好きな男だな」
「女の子が好きなの。男なんていいんだよ、ほっといても育つんだから」
そこは注意をいれて、教育大臣だいぶ酔ってきたらしかった。
男の子にも愛は必要だよ…
そばできいていた朱雀が、夕霧を思って切なく苦笑する。
「春宮さまにあげたいの?春宮さまいくつだっけ、すー兄」
「今年で三つだね」
「じゃ、未来のお后候補ってわけか」
「候補じゃない。后だよ」
光は自分で言ってうんうんうなずいた。
相当思い入れがあるらしい。
親バカだな。
蛍がくすくす笑う。
「まあともかく、今のお前の栄華があるのも、すー兄が去って冷泉さん
の御世になったおかげなんだから。すー兄に感謝しろよ」
「いいよ、感謝だなんて」
朱雀は恐縮した。
実際遅すぎたくらいなんだ
思い立ってから実行するまでが。
「すー兄も光のせいで短い御世だったね。五、六年じゃない?」
「いや、十年近いだろ」
「えっ、そんなにいたっけ?影うす…」
「最初のほうとか、父上に頼りきりだったからね」
「その後は太后に操られるし?」
「まあ、俺が悪いんだよ。だらしないから」
朱雀は笑って、ふたりが飲むのを見ていた。
「俺が自分の意思でしたことって、唯一譲位することくらいだしね」
にっこり笑って言う、それがあまりに真実なので
ふたりは思わず黙った。
「せつねえ…」
光がうめく。
「いや、すー兄はがんばったよ。人間引き際が肝心だもん」
蛍のほうこそがんばって励ますので
そんなに気にしてないのに。
朱雀は苦笑した。
「そういえばすー兄、斎宮さんに手紙だしてるの?」
「だしてるってほどじゃないけど、二、三通ね」
「なに、位降りてもまだまだ現役ってわけ?」
「いや、そうじゃないけど…都に帰ってこられたってきいたから。
お母上が亡くなられて、お気の毒だね」
その話題がでて、光はふと御息所の遺言を思い出した。
かけて、さやうの、世づいたるすぢに、おぼしよるな。*
思いっきり禁止形かよ。
要するに、手出すなってことらしい。
この人とはいろいろ奇怪な因縁があるから、手は出さないわけなのだが
娘さんは、ちらと見るくらいしたいなとは思っていた。
紫と年近いし。俺の妻にしてもおかしくない年齢なんだよ?
でも、遺言。
ひとの遺言てのは、違えがたく思うし。
とりあえず
「彼女、うちに迎えようと思うんだ」
光が言うので、蛍がいやーな顔をした。
「お前はどうしてすぐ人のもん欲しがるかね。せっかくすー兄が可愛いって
言ってんだよ?好意だよこれ、好意。それを邪魔ばっかして」
「俺がもらうんじゃないよ、帝にさしあげるのさ。お母さん代わりとは言わない
が、母親もあまりそばにいられないんだし、すこしお姉さんのほうがいいだろ」
「そんなこと言って、またもらうんだろ?お前はそうやって育てるふりして喰う
からな。やらしい」
「今回は本当に違うの。親に頼むって言われてんだから。さすがの俺も、人の
遺言違えてまでは手出さないよ。ね兄貴、どう?」
「いいも何も…光が後見して入内なさるなら、とても幸せになれるんじゃない?
冷泉さんもやさしそうだし。俺のことは気にしないで」
朱雀は恥ずかしそうに笑った。
彼女を見ると、海の姫君を思い出すから
葵を思い出すから
つい懐かしくて文したのだった。
隠居じじいの話相手より、今をときめく帝と結婚した方がいいに決まっている。
冷泉さん綺麗だし。素直にそう思う。
「じゃ、遠慮なくよこどり給ふけど、いい?」
「よこどりって…彼女独身なんでしょう?」
「在世中からお声がかかってたのなら、立派なよこどりだよ」
「よこどり給はん*とはひどいな」
「いいんだよ、俺はもう…どうぞ、彼女のためになるようにしてあげて」
朱雀の答えは、光の予想どおりのものだった。
しかし。
酒を飲みながら、すこし複雑な気分に落とされる。
かの御遺言をかこちて、しらずがほに、まゐらせたてまつり給へかし*―
院も今は仏勤めに励んでらっしゃるようですから、それほどお咎めにも
ならないでしょう。
…
光は「えっ?」と思った。
だが顔にはださず
「かしこまりました。では、そういうことにして」
静かに宮の前を去った。
しらずがほに?
それは帝に対してなの?それとも兄貴に?
いや、兄貴などどうでもいいのか。
ずいぶんすらすら言えるんだなと思った
昔は俺に対してさえ、息も絶え絶えだったのに。
それはやはり、許されぬ恋の圧迫だったのだろうか。
冷淡だなとも思った
たしかに兄はやさしいから、こういうことで人を恨んだりしないだろうけど。
位を去った帝など、恐るるに足りぬということか。
朱雀の存在、空気より軽い。
もともとこういう人なのかもしれないとも思った
俺が知らなかっただけで
そうだよな
俺は自分の想いばかりぶつけて、彼女のことなど知ろうともしなかった。
先帝の后腹の娘で、中宮、太后にまでのぼりつめた人なのだ
ただ可憐なだけの女性ではあるまい。
これが罠なら
馬鹿なことを考えた
俺と寝たことも、俺を捨てたことも
すべてが巧妙に仕組まれた罠だったとしたら。
いいのに。
救われるのに。
昔のことが音もなく、さあっと前を駆け抜けていった
色もなく、匂いもない
俺たちは終ったんだってことがよくわかった
今は子の養育だけでつながっている、離婚夫婦に等しい。




