36-3 彼女のぶんまで
「わざと、ですか」
秋の夜長
祈る背に
秋好中宮は声をかけた。
「継承順位を乱さないために」
冷泉が、そっと振り向く。
「お孫さんが春宮になられて、光る君もさぞご満足なさって
おられることでしょう。そろそろどなたにも遠慮なさらず、好き
に生きられたらどうですか」
「遠慮だなんて」
冷泉は軽く笑うと
「私はいつも好きに生きてますよ」
やさしく微笑んだ。
その目は冴えて、揺らぐことがなかった
死ぬまで守り通すべきものを持った者の瞳。
「ただ、あなたに子を抱かせてあげられなかったことは
本当に申し訳なく思っております」
そう言って謝罪するので
「いえ、いいんですの」
秋好中宮は笑って首をふった。
綺麗な方
この方はいつも美しい
美しく、やさしい嘘をつかれる。
「もっとお子様を、お持ちになって下さいね」
もしかしたら、光る君じゃなく
私に気を使って下さったのかしら。
ふとそんな考えが頭をよぎった
私に子ができないから
他の方との間に子をもうけては可哀想だとお思いになって
それで、ご配慮くださったのかしら。
そうだったらいいのに。
そうだったらなお、悲しいのにと思う。
「若い方なら、元気な子をお産みになれるでしょう。貴方様の
血をひかれれば、さぞ美しく、ご聡明でらっしゃるでしょう」
その子達が見てみたいと思った
でも無理だろう
私では無理なんだ
それは、わかっている。
「出家させて下さい」
言ってから泣きそうになるので困った
精一杯微笑む。
女御更衣があまたいたのに、中宮にまでしていただいて
辱められたことは一度もなかった
いつも配慮されて
優遇され
深く愛された
本当に感謝している。
位を去ってからの冷泉は、使いすぎた身体を休めるかのように
穏やかだった。
秋好中宮とふたり、普通の夫婦のように暮らして
しあわせだった
このしあわせがいつ壊れてしまうのかと恐れるくらい
彼女はしあわせだった。
涙が、ひとつ、ふたつ、頬を伝い落ちる。
「そんなにあなたを悲しませましたか」
冷泉は中宮の前に座ると、やわらかい袖で涙を拭った。
めずらしく微笑まず、心配そうに見つめる。
「いえ…」
中宮は泣き顔のまま笑って、首をふった。
「母のために、祈らなければなりませんから…」
母にだってしあわせな時はあった
でもそれは永遠ではなかった
光る君にまとわりつき、愛姫を次々と呪い殺す恐ろしい霊が
母であるという噂は
ずっと前から彼女の耳に届いていた
憐れな母のために祈れるのは、私だけなのではないか。
自分ひとりがこのまましあわせでいるのは忍びない気がして
後で大きなしっぺ返しがくるようで
つらく、恐ろしい。
「光る君の末の若君を、ご覧になられましたか」
冷泉は中宮の涙が収まってから、やさしく尋ねた。
「いえ…とても清らな方だそうですね」
秋好中宮も子ども好きなので、薫のことは気にしているらしく
愛しそうに噂した。
「私はその方のことが気にかかっているのです。幼くして
お母様が出家なされたところが、自分と重なる気がして」
母が出家を匂わせたとき、幼い冷泉にはその意味がまだよく
わかっていなかった。
「式部がやうにや。いかでか、さはなり給はん」*
そういって無邪気に笑う自分を
母上はいつまでも悲しそうに抱きしめておられたっけ。
「出家なさってしまっては、母子といえども、元のようには
会えませんでしょうね。幼い方には、おつらいことですね」
中宮はやさしく相槌を打った。
「私は、少しでもその方のお力になれればと思っているのです。
もちろん、光る君がご後見なさるのですから、余計なこととは
思うのですが」
冷泉には薫のことが他人事とは思えなかった。
母が出家していることも、父が違うことも
疑問に感じても誰にも訊けないつらさというのは
耐えがたいものがある
それをひとりで抱え込ませるのはあまりにも気の毒なように
冷泉は思った。
「そんな可愛い子を、片端でもお世話させていただけるなら。
どんなにか楽しく、張り合いがあることでしょうね」
そんな場面を想像して、中宮は甘いため息をついた。
やはり、私ひとりでは張り合いがないんだな
彼女の本音が垣間見えた気がして、冷泉が苦笑する。
「そんなふうに暮らせたら、いいですね」
冷泉はやさしく笑った。
彼女が笑って、しあわせそうに暮らしているさまを
天上のお母上にお見せできるなら。
出家して祈るより、親孝行になるかもしれない。
「そうですね」
泣いて始めた会話なのに、いつの間にか秋好中宮も笑っていた。
もしかして、私を喜ばせるために
生きる希望を与えるために、お話くださったのかしら。
中宮がそう気づいたときにはもう
冷泉はいつものように
彼女のぶんまで
仏の前で手を合せていた。




