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朱雀と弟  作者:
第四部  借り物を返す旅路のはじまりにさしのべらる手二度と離たず
140/175

33-6 ただひとりの兄

はかなくて、年月も重なりて、内裏の帝、御位につかせ給ひて、

十八年にならせ給ひぬ。*

この一行に若菜下の五、六年が凝縮されていた。

冷泉帝二十八歳、まだまだ美しい男ざかり

そんなお方がひっそり、消え失せるように譲位なさる。


「よかった。髭黒さん右大臣になったんだね。これで彼女も幸せに

なれるかな」

冷泉はうれしそうに笑った。

「私なんかを選ばなくて正解だったね。玉鬘さんは正しかった」

「そんなこと」

夕霧はまだ不満げだった。

「なぜ急に譲位などしたんです?皆もったいないと言ってますよ。

俺だって、納得してません」

「ごめんね、大納言までしか上げられなくて」

「そういうことじゃない」

夕霧は言葉を切ると、美しい兄を見つめた。

「あなたの治世は素晴らしかった。この十八年間ずっと平和だった

のは、皆あなたの力です。この国のためにも、もっとおられてよかっ

たのではないですか」

冷泉は夕霧を見つめると、まぶしそうに目を細めた。

完璧と言われる自分に意見し、等しく扱ってくれるのは

昔からこの弟だけだった。

だから誰より尊く、大切なんだと思う。

「今上さんは朱雀さんに似て、やさしいがしっかりした方でね。お后様

も父上が大切にかしづいてお育てになった方だから、きっと素晴らしい

女性でしょう。だから、お譲りした方がいいと思って」

すこし遠慮がちに笑った。

異母妹である明石姫君に、彼は一度も会ったことがない。

「春宮さまも、父上と朱雀さんのお孫さんなんだから、きっと美も才も

整った素晴らしい方だろうから。私の時代は終ったんだよ」

「そんなこと」

言いさして、夕霧は少しためらった。

「あなただってまだ若い。子ができるかもしれないじゃないですか」

「できなくたって、いいんだよ」

冷泉はにっこり笑った。

「父上の血は夕霧くんと姫君が継いでくれてるから、私は安心して

るんだ。夕霧くんには可愛いお子さんがたくさん生まれてるしね。

私はうれしい」

そういって、笑う。

「そのために譲位を?」

夕霧はやっと気づいて兄を見た。

親父や俺や妹に、すべてを残すために?

「そんな完璧に去らなくたって…何か残していけばいいじゃない

ですか。子でも作って、次の春宮にすればいいじゃないですか」

夕霧は眉を寄せて言った。

いつも、あまりにも、きれいに去ってしまうから。

たまには何か残してくれないと、あまりにも寂しい。

「私は帝の子じゃないから…」

冷泉は沈む夕陽を見ていた

「今が一番いい時なんだよ。すべてをお返しするのにね」

そういって、微笑む。


「今までありがとう。夕霧くんに会えて、とても楽しかったよ」

冷泉は丁寧に礼を述べた。

「みんなに会えて、とても楽しかった。私はしあわせでした」

本当ならひとりで死んでいくはずだった

秘密に気づいていることも、誰にも言えずに

父上にすべてお話して本当によかったと思った

仲間がいると楽しい

大切な人を守ることができる。

「…」

夕霧は言葉につまると

それを隠すように、ぺこりと頭を下げた。

「礼を言うのは俺たちのほうです。

あなたのおかげでここまでこれた。本当に、ありがとうございました」

父の栄華も俺の出世も、すべて兄のおかげだった

兄の十分すぎる采配のおかげ

「少しでもお役に立てたのなら。うれしいよ」

冷泉は明るく笑った

朱雀にいたような祖父大臣や母大后がこの人にはいなかった

およそ、思いのまま

失敗は許されない。

「今上さんにも伝えておくね、夕霧くんと、姫君のこと」

一門の繁栄が永く続けばいいと思った

すべてのものはやがて、消えてしまうけど

今いる人が笑ってくれればいいのだった

笑った時間は、思い出に残る。

「これからは俺が恩返ししますよ」

夕霧は顔を上げると、わざと笑って見せた。

「たくさんいる子を縁付かせて、勢力を拡大します。

あなたが困ってたら、助けてあげますよ」

「ありがとう」

冷泉は目を細めて笑った

頼もしくなったなあ

政略結婚を駆使するなんて、もう立派な上流貴族

弟が栄華を極めるところをそっと思い描いた

夕霧くんなら大丈夫

私なんて最初から

必要なかったのかもしれない。


「そろそろ行くね」

日も暮れて

冷泉は立ち上がろうとした

十八年間暮らした御座

もう二度と上ることのない玉座。

夕霧は深く息を吸い込んだ

止めたいわけじゃなかった

この人が帝だろうと帝でなかろうと

何も変わらない

俺には関係ない。

「兄上」

「…え?」

冷泉はびっくりして、すこし止まった。

「どうしたの?急に…」

面と向かって兄と呼ばれたのは初めての冷泉だった

すこし照れて、たたずむ。

夕霧は兄の眼を見据えて言った

バカだなあ、親父が死んだって

俺たちは死なない

ずっと続いてくのに

これからが楽しくなるんじゃないか

今まで以上に笑って

同じ時代をともに

生きようよ

兄上。

「誰が何と言おうと、あなたは俺の兄です。周りが認めなくても、歴史

にそう残らなくても、俺はあなたの弟です。そのことをずっと誇りに思っ

てきた。これからだって、死んだって、ずっとそう思ってます。あなたを、

かけがえのない、ただひとりの兄だと」

冷泉はたたずんだまま、動きを止めた

ずどんと胸にくいを射たれて

痛かった

串刺しされた胸が、血を噴きそうに痛かった。

「ありがとう…」

静かに微笑むと、くるりと後ろをむいた。

両目が深くうるんで

夕霧に見せた、最初で最後の涙だった。

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