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朱雀と弟  作者:
第四部  借り物を返す旅路のはじまりにさしのべらる手二度と離たず
134/175

32-10 抱きしめたい

「ごめん柏木ー」

「いいよ、つづけててー」

どっかいった鞠など、そのうち誰かが拾うのだが

律儀な柏木、いちいち探しに走った。

「えっと、たしかここらへんに…」

邸の周りを探すが、見当たらない。

「縁の下に入っちゃったかな」

そうすると見つけにくいなあ、とあちこちのぞいていると。

ん?

すぐそばに、ちょこんとしゃがんで

縁の下をのぞいてる人があった。

「何かお探しですか」

何気なく声をかける。

すっとふり向いた少女に、柏木は一瞬、息を止めた。

「ねこ、ですの」

すこし困ったように笑う顔が、声が

苦しいほどに美しい。

「皆がいじめるから、怖がって逃げてしまって」

少女は、縁の下でおびえる猫においでおいでと手招きした。

猫が警戒しつつ、恐る恐る、指先にふれる。

それを撫でて、やさしく抱き上げると

彼女は器用に首の縄をほどいた。

「ひどいですよね、猫に紐をつけるなんて。羽をもがれた鳥と同じ。

自由でなければ、猫でいる意味なんてないのに」

苦しかった首をごろごろ撫でてやると

地面において、そっと逃がした。

さあっと春の風が吹く。

夕暮の桜がはらはら、彼女の頬に、肩に、舞い落ちる。

「あなたの探しものは?」

少女がすっと、何心なく見つめるから

柏木はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「いいんです」

にっこり笑って、そっとその場を去った。


「柏木あったー?」

「うん」

柏木は笑顔で鞠をふると、皆の輪に戻った。

日が暮れて、夕霧とひとつ車に同乗して帰る。

夕霧は計画がうまくいって至極満足そうだった。

ふたりとりとめのない話をして、一緒に笑いあう。

笑いながら

垣間見どころじゃなかった…

柏木は、まだ胸がどきどきしていた。

なぜ宮さまがあんな所におられたのか、ちょっとわからないが

俺たちは今日、出会ってしまった。

それがどういう運命を暗示するものか、彼にもうっすら予想はついた。

夕霧はじめ、光さん、蛍さんが協力して

自分たちふたりの接触を避けさせようとしていることは

早くから気がついていた。

それが皆の望みなら、俺は従おう。

そういうふうにも思っていた。

だが、彼女は本当に美しかったな…

十は年が離れているように見えた。

まだ十五、六歳か

子どもっぽいというより純粋で

まっすぐ澄んだ、美しい瞳をしていた。

俺にも恥じらうことはなくて

俺のものになるはずの猫を、惜しげもなく逃がしてしまう。

美しかったと思った

そのやさしさ、思いやりが、若い柏木の胸をうつ。

まだ少女じゃないか。

むげな欲望は慎むべきだと思った。

宮さまはもう光さんのものなんだし

そう、絶世の貴公子の妻になられたんだ。

胸がぎゅっと、痛く、苦しくなる。


「じゃあまたな!」

夕霧は上機嫌で柏木に手をふった。

「うん」

柏木も笑いながら、胸の鼓動をおさえつつ

そっとそっと文を書いた。

 よそに見て折らぬなげきは繁れども名残恋しき花の夕影*

あなたが人のものということは、わかっているつもりなのですが。

文だけでも、とり交わしませんか。

「しつこい人が、まだこんな文を」

小侍従が笑いながら歌を見せた。

「まあ…」

三宮がすこし、目をとめる。

あのときの、探しものの方かしら。

睫毛が長くて美しい方だったと思った。

でも小侍従早合点で

「私がしっかり言っておきますね。しつこいって」

勝手に返歌してしまった。

 いまさらに色にな出でそ山桜およばぬ枝に心かけきと*

今さら言い寄ったって、もう甲斐のないことですよ。

「そうだよなあ」

そのそっけなさに苦笑しつつ

柏木は彼女の微笑みを思い出していた。

やさしく、やわらかく、清らかな微笑。

傷つけたいとは思わない

ただ抱きしめられたらいいのに。

それを望むことも罪だろう

人妻を好きになるなんて、相手にも負担をかけすぎる。

柏木のやさしい理性が「抱きしめたい!」衝動と格闘した。

俺にできるだろうか

彼女を傷つけず、ただ抱きしめるなんてこと。

ため息をつきながら、許されぬ恋にじっと胸をこがす。

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