29-5 美女と野獣
「残念ですね。私の方が先に声をおかけしたように思いましたが」
冷泉帝は微笑んだ。
玉鬘は沈んでいた
顔を隠しながら、その美しさに、心が揺れる。
「三十三、四とか。年の離れた人ですね」
「はい…もう」
つらくて苦しくて、仕方なかった。
年が離れてるといっても、光や蛍のような美しい人たちならいいけど
あんな髭ぼうぼうの男では。
どうして愛を感じられよう。
昔、自分を奪おうとした大夫の監を思い出した。
私は監から逃げきれていなかったんだ
だって結局、こんな粗暴な男に盗まれて。
未来も奪われたのだから。
「春宮の伯父にあたる人なので、悪くない位置だとは思います。世が
変れば、加階も思うままでしょう」
冷泉帝は眼を伏せた。
頬に落ちる睫毛の影まで美しい。
「今を選ぶか未来を選ぶか、といったところですね。あなたの未来は
明るいと思いますよ」
ふっと眼をあげて玉鬘を見た
やさしく、美しく笑う。
玉鬘ははっとした
この方は降りた後のことを言っている
このまま私に耐えろとおっしゃるの?
でもそれなら、今日お会いくださった意味がわからない。
玉鬘は帝を見つめた
深い瞳と、眼があう。
「そんなにつらいなら寝てしまいましょうか、このまま」
目が離せなかった
深い紅から、目が離せない。
「乱暴な方も、寝ているものを無理に起こそうとはなさらないでしょう」
「でもそんなこと、できますでしょうか…」
玉鬘は迷った
帝には、父も光も女を嫁がせている
自分がその方たちにうとまれるのではないか
髭黒が何と言うかも怖いし
でもそれは理性だった
紅い瞳に見つめられ、金縛りにあったみたい
美しかった
鬼神のごとき美しさが、冷泉にはある。
「何だってできますよ、あなたがそう望むなら。私は帝なのでね」
冷泉帝は微笑むと
「ふた時もあれば十分だと思いますよ。嫌なことをすべて、忘れて
しまうのに」
大体の所要時間を述べた。
誘いというより親切だった
彼女の予定大丈夫かな?という確認。
玉鬘は忘れてしまいたかった
自分が髭黒に嫁したなどということ
これから先、彼の妻として生きていかなければならないという事実
そのすべてが、つらすぎる。
今を選びたかった
うんざりな未来より、限りなく美しい今を選びたい。
「でも私は、あんな男に汚された身ですから」
「そんなこと」
冷泉帝はくすりと笑った。
「私はまったく気にしていませんよ。誰に抱かれようと、あなたはあ
なただ。体なんて気になるのは最初だけですから。そのうちひとつ
の塊になって、同じ所へ落ちてゆけます」
「まあ」
あっさり言うので目を見張った
過激な言葉も、彼の口から聞くと麗しい。
「乱暴な方は、私が始末しておきましょう」
「始末って、まさか」
「消すにもいろいろ方法はありますから」
そう言って笑うのが無邪気なほどだった
これが、帝
こんなに恐ろしく、やさしく、美しいなんて…
玉鬘は畏れた
冷泉は静かに笑んで玉鬘を待っていた
光みたいに思いあまって手を伸ばすということが、この人にはない
つねにきっちり座って、政事するみたいに清く
愛のことばをかわす
それがすごかった
そのギャップ
清く正しく神々しいこの方から発せられる言葉のきわどさが
女を例外なく、とりこにさせる。
さあ、どうします?
玉鬘は抱きつこうかと思った
光が獣ならこの方は狩人だ
きっちり罠をはって、落ちてくる獲物しかとらない。
光を三倍濃縮したような色香が辺り一面に漂った
年齢を重ねて身につけた理性、憂い、迷い
そういうもので薄めた光を三倍濃縮したような強さ
そのストレートな匂いに、もう酔わされている。
「あの、私…」
ただ、落ちたいと思った
その罠にはまりたい
あなたの胸で殺して
この方に抱いていただけるなら
自分のどこをどう変えたってかまわない。
玉鬘の腰が、浮いた
膝をよせ、男に近づこうとした
そのとき―
騒がしい音がして、車がすぐそばまで来る気配がした。
髭黒だ
夫が思い余って、帝までもせっつこうというらしい。
「おやおや、せっかちな方ですね」
冷泉帝は苦笑して、肩をすくめた。
「せっかくお会いできたのに、もうお別れかな」
「あの…」
玉鬘は冷泉を見た
奪って
ただ私を、奪ってほしい。
それだけを瞳にこめて見る。
冷泉帝は黙っていた
すこし悲しそうに笑んで
その情熱と同じくらいの理性で女の将来を見守った
美女と野獣、その結末は
たしか幸せだったかな
彼はつねに選ばせる
女自身に選ばせて、その足で追ってくる者しか、抱きはしない。
「今日はありがとう。会えて嬉しかったです」
冷泉帝はやさしく笑んで席を立った。
立ち去りぎわ、玉鬘を抱きしめて、そっと頬を寄せる。
玉鬘ははっとした
耳に、声がふれた。
「お幸せを。祈っております」
……
帝が去っても玉鬘はまだ動けないでいた
腰が、抜けた
冷泉の熱に、声に、腰を抜かして
完全に余韻に浸っている。
追いたかったのかどうか、よくわからなかった
髭黒が来た時、一瞬迷いが生じた
帝が言った未来のこと
それを考えて、迷って
その一瞬の迷いを、読まれていたように感じる。
まあ、この程度で抜けるような女はだめということかもしれなかった
追いたくても追えなくて
玉鬘はそのまま、髭黒に連行された。




