第九話
翌日。
春の暖気にほのかな眠気を催しながら、絵馬殿付近を掃き掃除していた静姫に近づく者がいた。
無論静姫はその気配に気付いていたが、別に不審人物というわけではないので放置していた。
「なんでそんな長くてひらひらした服着てるんだよ? 下になんか隠してるのか?」
挨拶もなく、静姫の背後から不躾に声をかけてきた人物は、昨日母親と共に神名宮家を訪れた春海であった。
昨日の今日で母親がまた訪ねてきたとは考えにくいことから、一人でやってきたのだろうと静姫は推察した。それと、来訪目的が恐らく自分に会うためだろうとも。
健気とも言える春海の動機を察しても、静姫は特に感銘を受けなかった。
自宅が遠いか近いかは知らぬがご苦労様なことだ、程度の皮肉めいた感慨しかない。
それも当然で、昨日の対応は単なる気紛れでしかなく、幼い男の子を相手にするめんどくささを、静姫は兄たちのおかげでよく解っているからだ。
「さあ、どうであろうな」
子供の言う事にいちいち腹を立てるようなことはないが、眠気もあって相手をするのが億劫だった静姫は、振り向きもせず曖昧に返答した。
昨日とは全く違う静姫の素っ気無い態度に、春海はうぐっと詰まった。
静姫が興味を示しそうな話題など思いつかない春海は、会話のとっかかりを求めて、知識のない幼子からすれば珍しく映る巫女服に言及したつもりだった。
聞き方の良し悪しはともかく、昨日の優しげな様子なら何かしら答えてくれるだろうと期待したのだが。
ざっ、ざっ、とリズミカルに石畳を掃く静姫の背に、春海はめげずに声をかける。
「ご……ごまかすなよ! 服の下に何か怪しいものでも隠してんだろ!」
もはや言いがかりじみた春海の言だったが、静姫が自分の方を向いてくれるなら怒らせてもいい、と思っていた。
そこには好きな子には意地悪したくなるという幼い男の子特有の情動も働いていた。
「ああ、隠してるぞ」
「っ……!」
またしても振り向くことなく答え、言いがかりをあっさり認めた静姫の言葉に、春海は二の句が告げられなくなる。
ざっ、ざっ、という箒の音だけが境内に虚しく響く。
静姫の冷淡な態度に、徐々にむかつきを募らせた春海は、静姫の思いもよらぬ行動に出た。
腰を屈め、両手を低く構え、静姫の足元を掴むように飛び付いてきたのだ。
「ほう?」
春海の予想外の行動に興がるような声を出した静姫は、背後を振り向くこともなく右足を軸としてくるりと右向きに九十度回転し、一歩前に踏み出すことでひらりと奇襲を回避した。
春海からすれば、一瞬で静姫の体が目の前から消失したように見えただろう。
「えっ!?」と驚いた春海は、踏み込みの勢いを殺し損ねてそのまま前方につんのめった。
両手を石畳に着け、四つん這いの姿勢で転倒を免れた春海は、慌てて立ち上がり、静姫の姿を求めてきょろきょろと周囲を見渡した。
血相を変えて探すほどのことはなく、静姫は春海の右側、三歩も進めば触れるような距離にいた。
春海に背を向けて、ざっざっと石畳を掃いているその後姿は、飛び掛る前と何一つ様子が変わっていない。
驚いた素振りも、動揺の気配すら見せず、今の一幕などまるでなかったかのように落ち着いている。
相変わらず振り向こうとすらしない静姫の侮った態度に、苛立ちを深めた春海は強く奥歯を噛み締めた。
「隠してんなら、中をたしかめてやる!」
意地になった春海は、スカートめくりならぬ袴めくりを絶対に成功させてやろうと意気込み、再び突進するも、静姫はまるで背中に目が付いてるかのようにあっさりとかわした。
流石に二度目となれば春海の立て直しは早く、静姫を再補足して腰を屈めた姿勢のまま飛び掛る。ひらり、と静姫が避ける。
「やっ!」「だあっ!」「くそっ!」と、境内に春海の声が響き、その度に静姫がひらりひらりと軽業師のように身を躍らせて回避する。
緋袴を赤い布に見立てたマタドールの猛牛のように、愚直に突進を繰り返す春海を静姫は無言であしらい続けた。
三十回以上も避けられ続け、疲労の極みに達した春海は尻餅を着くようにへたりこみ、はぁはぁと荒い息をついた。
一方、静姫は疲労を見せるどころか、息一つ切らしていない。無駄な動きの一切ない、洗練された回避を行っているということもあるが、何より基礎体力が違いすぎる。
静姫は四十二.一九五キロのフルマラソンすら顔色一つ変えずに走破できる体力を備えている。例え一日中同じことを繰り返しても、静姫が呼吸を乱すことはありえなかった。
徹底して振り向こうとしない静姫の背を見上げながら、春海の心中は悔しさでいっぱいだった。同い年の女の子に触れもせず、一顧だにすらされない屈辱。
同時に、自分を見ようともしないのは、それだけ嫌われているからかもしれない、という絶望感に似た悲しみが湧き上がり、うぐっ、と春海は涙ぐんだ。
(きっと、昨日ひどいこと言ったせいで嫌われたんだ……)
どうしようもない悔恨が春海の胸を焼く。こんなことになるなら、優しげだった昨日のうちにもっと仲良くなっておくんだった、と、後悔の涙が溢れ出た。
静姫にとって春海が泣こうが喚こうがどうでも良いことであったが、姫乃に目撃されるのはまずい、と考えていた。
ちなみに姫乃は神饌用の野菜や細々とした諸用品の買出しに出ていて留守にしているが、所要時間を計算すればそろそろ帰ってきてもおかしくはない。
静姫は内心で嘆息すると、春海へと振り向いた。
「春海よ。泣いたところで何も解決はせぬぞ」
「え……?」
静姫が自分を見、声をかけてくれたことが一瞬信じられなくて、春海はきょとんとした顔で停止した。
「私に気に入られたくば、行動で示すが良い」
「…………」
静姫は『好意を得たいなら方法は選べ』という意図で言ったのだが、春海はその言葉を『諦めるな』と曲解した。
好かれてはいないが、思っていたほど嫌われてるわけでもなさそうだと、静姫の言葉に希望を見出した春海は涙を拭って立ち上がった。そして、
「きょ、今日のところはこれでかんべんしてやる! いつかぜったい、お前の正体をあばいてやるかんな!」
と、強がって負け惜しみを言い、通用門の方へと駆け去って行った。
遠ざかる春海の背中を見やりながら、静姫は呆れたように目を細めた。
「やれやれ、泣いたカラスは笑うのも早い。それに……」
(ただの偶然、言葉の綾に過ぎぬだろうが、《正体を暴いてやる》とは言い得て妙ではないか)
呟きは独白へと変わり、静姫はくつくつと含み笑った。