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第六話

 《静姫あんよ受身事件》以来、平和で穏やかな日々は続き、静姫が転生してから1年を過ぎていた。

 相変わらず日々食っちゃ寝の生活を続けていた静姫だったが、最近は心境に変化が顕れ始めていた。

 端的に言うならば、


(――赤ん坊は飽きた)


 というものである。

 具体的に何が、と言えば、ひたすら退屈な暮らしに鬱屈し始めたことに原因がある。

 前世の経験から無聊をかこつような生活に慣れていたとはいえ、流石に1年間、ろくに動きもせず単純な生命活動だけして過ごすという事はなかった。

 赤ん坊を始めた当初は、食事から排泄まで身の回りを全て親兄弟がやってくれる楽さと、異世界での生活全てが新鮮に感じられたため、これはこれで理想的だなと暢気に考えていた静姫だった。

 しかし、なまじ極めて高い精神性と知性があったために、受身で学べる知識常識や言語をたった1年でほぼ学習し終えてしまい、最近では著しく退屈感ばかりを募らせていた。


(そろそろ頃合かもしれぬな)


 静姫の考える頃合、というのは、赤ん坊の擬態を一部解除して、多少は知性があることを家族にアピールし、行動の自由を得ようという算段だ。

 行動の自由、と言っても、考えていたのは、


(このままならぬ体でのこのこ外を出歩くわけにはゆかぬ……。で、あれば、《ぱそこん》とやらを使わせてもらうか、専用に使えるテレビを用意してもらうか、父の書斎にある本を読ませてもらうか……。いずれにせよ、この世界の知識を得るための手段を獲得しなくては)


 といった皮算用であった。

 あとは言い出すタイミングを図るだけであったが、機会は案外早くやってきた。

 一年で最も多忙になる神社の年末年始行事を終え、日常に落ち着きを取り戻し始めた、とある冬の日の夕食時。

 キムチ鍋を囲み語り合う、家族6人の団欒の際に事は起きた。


「そろそろ静姫も何か喋り出す頃かなあ」


 温厚さが滲み出ているようなおっとりとした口調で、一家の大黒柱である静夜が言った。

 四歳になる三男の《勇太(ゆうた)》の小皿に、豆腐や白菜を取り分けてやった姫乃が、品良く微笑しながら会話に応じる。


「ふふ、確かにそろそろかもしれませんね」

「そういえば、一静たちは一歳三ヶ月くらいから単語らしきものを喋り出したよね」

「ええ。静姫はまだ一歳一ヶ月ですけれど、早い子ならもう一言二言は話せるらしいですわ」

「静姫がそろそろ喋れるようになるの?」


 両親の会話に、次男の《(つかさ)》が興味深々とばかりに混ざる。


「うん。きっとね」

「へぇ~、僕、静姫に早くお兄ちゃん、って呼んで欲しい!」


 嬉しそうにきらきらと目を輝かせて、純真な希望を口にする息子が微笑ましく、静夜と姫乃が顔を綻ばせた。

 キムチ鍋のスパイシーな匂いに食欲を刺激されつつも、離乳食しか食べさせてもらえないことに不満を感じていた静姫は、家族の会話を聞き、内心でほくそ笑んだ。


(ほほう、そろそろ赤子は喋り出す頃とな。これは良い機会かもしれぬ)


 静夜は妻の隣でもくもくと離乳食を口にしている静姫に視線を注いだ。


「そうだねえ。僕も静姫に『お父さん』って呼んでもらえたら、天にも昇る心地になれそうだよ」

「父よ、私もキムチ鍋とやらを食べてみたいぞ」


 ピシリ。その瞬間、食卓が凍りついた。

 地上の超越者として神々に伍する存在とまで言われたスィルツァラトゥスが転生し、最初に語った台詞が食い意地の張った内容で、それが《キムチ鍋》。

 前世を知る者からすれば、本当に本人かと疑いを持つであろうほどにギャップのある発言だった。


「……は。はは、は……今、静姫が僕のことを『父よ』って呼んだように聞こえたけど……気のせい……だったかな」


 乾いた笑顔を浮かべながら静夜は言った。


「わ、私もそう聞こえましたわ……」

「「僕にも……」」


 姫乃と一静、司が引き攣った顔で同意する。

 幼いゆえかもしくは食い気か、三男の勇太だけは空気を読まず一人はぐはぐとご飯を食べていた。

 家族が皆、同様の体験をしたということで、静姫の発言は決して幻聴ではなかったと確信した静夜は、恐る恐る愛娘に話しかけた。


「し、静姫……。もし喋れるのなら……もう一度僕のことを《お父さん》って呼んでくれないかな?」


 勇太以外の家族四人の視線が静姫へと集中する。

 すると、静夜の言葉が自分に向けられたものだと理解しているかのように、いつもの茫洋とした表情ではなく、確固たる意志の宿った眼差しを父親に向けた。

 そして。


「《お父さん》は言い辛いゆえ、《父よ》と呼ぶことを許して欲しい」


 舌足らずさなど全くない口調ではっきりと、日本語を口にした。

 両親と兄たちの表情が驚愕に歪む。

 静姫は気が付いていなかった。単語らしき言葉を一言二言ならいざ知らず、生後一年余りの赤子が問いかけに応じて流暢な台詞を喋る、という異常さに。

 しかも、本来であれば声帯の発達していない赤子がはっきりとした言葉を喋ることは困難なのだが、静姫は半ば無意識に魔力で声帯と舌を強化し、大人となんら変わらぬ発声を可能としていた。


「お……おおお……何と言うことだ……!」

「静姫……」

「「静姫が……喋ったぁぁぁ!!」」


 食卓は驚きと困惑に包まれ、食事どころではない様相を呈し始めていた。

 勇太だけは相変わらず、騒ぎに頓着せずひたすら小皿のおかずを口へと運んでいたが。

 俄かに喧しくなった食卓に、元凶である静姫は顔を顰めた。


「騒々しい。私が喋るくらい、大したことではなかろう?」

「静姫っ!」

「ふわっ!?」


 驚きがあるせいか、姫乃はいささか乱暴に静姫を抱き上げた。

 いつも穏やかな母親の性急な振る舞いに吃驚する静姫を膝の上に乗せ、姫乃は至近で娘と目を合わせながら、真顔で訊ねる。


「あなたは、静姫よね?」

「もちろん、そうだが……。母よ、私が他の誰かに見えているのか?」


 ぱちくり、と目を瞬かせ、静姫は訝しげに訊ね返した。

 しかし姫乃は何も答えようとせず、何かを読み取ろうとするかのように、じっ……と静姫の瞳を覗き込む。

 どこかぴりぴりとした空気が流れ、勇太が食事を進めるカチャカチャという食器鳴りの音だけがリビングに響く。

 十秒余りもそうしていただろうか、姫乃は目を瞑って「ほぅっ……」と大きく息を吐いた。


「ごめんなさい。静姫が突然、話し始めたからびっくりしたのよ。お母さんの知らない誰かが、静姫に乗り移ったような気がして……」

「母は心配性だな。案ずるな、私は正真正銘、そなたが胎を痛めて生んだ娘、静姫本人に他ならぬ。どうしてもと疑うなら、共に過ごしたこの一年間の記憶を話すことで身の証を立てようが?」


 そうやって流暢に喋れば喋るほど、両親の疑念を大きくしていることに気付かない静姫は、大人顔負けの理屈と弁論でもって更なる墓穴を掘る。


「ちょ、ちょっと待って。し、静姫、君はまさか……生まれてからの記憶が全部あるのかい?」


 静姫の台詞に聞き捨てならない内容が含まれていることに気付いた静夜が、これまでで一番衝撃を受けたという様子で訊ねた。

 静姫はきょとん、と不思議そうな表情を父親に向ける。


「たかがここ一年程度の記憶、覚えていない方がおかしいと思うが……」

「いやいや。静姫が今、普通に喋っていることも大概おかしなことなんだよ。まして、生まれた直後からの記憶を、他人に説明できるほど明確に持ち合わせているというのは、本来ありえないことなんだ」

「む、なんと。そうだったのか……」


 静夜の丁寧な説明を聞き、ようやく自分が「やりすぎた」ことを悟った静姫は内心で舌打ちした。


「でも、静姫の言ったことが全て真実だとしたら、どの時点から《自意識》が生まれていたのか気になるところだよ」


 両腕を組みながら、「うーん……」と考え込む様子を見せる静夜。

 生まれてからの記憶を全て持ち合わせ、生後間もない頃より確固たる知性や人格を発揮するという、突然変異的な天才がごく稀に誕生することは静夜も知っている。

 静姫もまたそうなのだろうと自分の知識の中に当て嵌めた静夜はひとまず落ち着き、学者肌の好奇心からそう訊ねたのだった。


「強いて言うなら、母の胎内にいた頃からだが……。『天照大神、豊玉毘賣命(とよたまびめのみこと)神よ、我が子に生の祝福を与え賜いしこと、心より感謝いたします』と、私が生まれた際に母が祝福してくれた言葉もきちんと覚えておるぞ」

「なっ……」


 本人ですら言い回しの細部を忘れていた台詞を、静姫が平坦な口調で一言一句誤らず口にするのを聞き、夫ほどには娘の天才性を素直に受け入れられない姫乃が瞠目して絶句する。

 そんな妻の惑乱ぶりを静夜は少し痛ましげに見つめ、気持ちを落ち着かせるように肩に手を回し、自分の方へと抱き寄せた。


「姫乃、そう深刻に考えることはないよ。確かに僕も驚いたけれど、静姫のような子が他にいないわけじゃない。無論、滅多にはいないだろうけどね。静姫はつまり……天才、なんだろう。僕たちはただ、親として娘の授かった才能に喜べばいい」

「あなた……。ええ、そう、ですよね……。静姫は少し、他の子より知能の発達が早かっただけですものね……」


 夫の説得によってようやく色眼鏡を捨て、愛する我が子への想いを取り戻した姫乃は、腕の中の静姫の頭を愛おしそうに撫でた。

 心地良さげに目を細める静姫の表情を見て、多少賢かろうがやはりこの子はまだ幼子なのだと、納得を深くする姫乃の目端には涙が浮かんでいた。

 それは一連の静姫の発言で深く心を揺さぶられたからであったが、母親の涙に目敏く気が付いた静姫の心は、なぜかきりきりと痛みを訴えていたのだった。


(この情動は何だと言うのだ……罪悪感……? 悲哀……? 判然とせぬが……痛い、な)


「その通りだよ。むしろ、娘とこんなに早くから言葉を交わせて、親として僕は幸せだと思ってる」

「ええ、ええ……」


 単なる慰めだけではない、嬉しそうに本音で語る静夜の懐深さに感動した姫乃の瞳から、遂にぽろりと一筋の涙が零れた。

 それは姫乃の顔の真下にあった静姫の目元へと落ち、まるで静姫が流した涙であるかのようにツゥッ……と頬をなぞって頤から滴り落ちた。


「お母さん、どこか痛いの?」


 半年前の一件以降、年齢不相応なほどに深い思慮と配慮を見せるようになっていた一静が、姫乃へと気遣わしげに声をかけた。

 心優しい長男の心配を嬉しく思いながら、姫乃はふるふると首を横に振った。


「ううん、大丈夫。これは素晴らしい子供たちを持ててお母さんも幸せ、っていう嬉し涙よ」

「そっかあ。僕もね、お母さんの子供で良かった」

「ありがとう、一静。あなたは本当、優しいわね……」


 姫乃がにっこりと微笑みかけると、一静はくすぐったそうな、それでいて誇らしげに破顔した。

 喜ばせたいという気持ちもあったが、姫乃が自慢の母親で嬉しいという認識は一静にとって嘘偽りのないものであった。

 小学一年生となっていた一静は、授業参観や運動会といった行事の度に、優しく気品溢れる物腰と若々しい美貌を持つ母を同級生に羨ましがられており、客観的に姫乃の美点を認識する機会に恵まれていた、ということもある。


「ねね、静姫。喋れるなら、僕のことを《お兄ちゃん》って呼んでよ!」


 どこかこまっしゃくれた印象のある司が、若干テーブルに身を乗り出しながら静姫に頼んだ。

 赤ん坊が流暢に喋っている事態については深く考えてなく、ただ幼子らしい純粋な興味と期待だけがそこにはあった。


「少しは一静(にい)を見習って、落ち着きを身に付けた方がよいぞ、司(にい)


 姫乃と体面座位の格好でいた静姫は、振り向きもせずにやれやれといった口調で言った。

 きちんと要望通り言ってくれなかったことか、それとも一静より後に名前を呼ばれたことが不満なのか、司は不服そうに唇を尖らせた。


「静姫、ちゃんと《司お兄ちゃん》って呼んでよ!」

「はいはい、お兄ちゃんお兄ちゃん」

「ちゃんと名前を付けて!」

「司、あんまり無理を言うなよ。静姫が困っているじゃないか」

「一静《お兄ちゃん》は優しいな」

「あーっ!?」


 相変わらず振り向きもせず、突っかかる司をあしらいつつ、からかって楽しむ静姫と、妹の味方をする一静。

 兄妹が繰り広げるドタバタコメディを、静夜と姫乃は幸福そうに微笑んで見守っていた。

 どちらが年上かわからない兄妹のやりとりだったが、一番大人だったのは我関せずと食事を続けていた勇太だったかもしれない。


「おかあさん、おかわり」


 蛇足だったので省いた部分ですが、結局静姫はキムチ鍋を食べさせてはもらえませんでした。離乳食に辛いものは厳禁だそうです。

 乳幼児の食育において、韓国では普通に辛い物を離乳食で与えるそうですし、アメリカは種類が日本よりずっと豊富らしく。

 妊娠時の母親の摂った食事が羊水を通じて胎児の味覚形成に影響するとの説があるそうですが、そう考えると納得できますね。

 また、パソコンの使用は許可されませんでしたが、父の書斎の本を読む許可と、専用のテレビは買って貰えました。

 本を読み漁ったり一日中テレビを眺めていたりと、暇つぶしの手段を確保した静姫のぐーたら生活はますます加速していきます。

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