第三話
スィルツァラトゥスが《地球》という世界の《日本》という国で再び生を受けてから約四ヶ月が経過していた。
前世で吸血鬼の女王《スィルツァラトゥス》であった彼女は、《神名宮 静姫》という名前を両親から与えられ、陽だまりで眠る午睡のような日々を送っていた。
「静姫はほんと、大人しいなあ」
赤ん坊の静姫を抱き上げている男性――現世における静姫の父親《神名宮 静夜》がポツリと呟いた。
《神名宮神社》の宮司である静夜は、まだ二十代のハンサムな青年で、一般人の多くが神主に抱くような、年配で貫禄があるイメージとは真逆の外見である。
「ふふっ、どうしても一静たちと較べてしまいますね。大人しいのは、女の子だからかしら?」
静夜と並んで拝殿の縁側に腰を下ろし、境内で遊んでいる息子たちを優しげな眼差しで眺めながら、静姫を生んだ母である《神名宮 姫乃》が相槌を打つ。
長い髪を首の後ろで束ね、白衣に緋色の行灯袴という巫女装束に身を包んだ姫乃は、優しげな印象の素晴らしい美人で、二十代後半の年齢でありながら、見た目は20歳と言っても通用する若々しさを保っている。
「そうだね。でも、僕にはそれだけじゃない気がするんだ。何て言ったらいいかな、滅多に泣かないのは、そうする必要を認めてないからというか……もっと端的に言うと、『口を開くことをめんどくさがってる』んじゃないかなってね」
「まあ」
夫の穿った見方の意見に、姫乃は意表をつかれたようだった。
姫乃は目を丸くして静夜の横顔を見つめた。
「根拠……というには怪しいけれどね。静姫からは溢れんばかりの生気を感じるんだけど、活力や意志が希薄に感じるんだ。生きようとする意志は強いんだけど、具体的に何かしたいっていうやる気や欲望に欠けるって言えばいいかな」
「確かに……この子ったらいつも眠そうにしてますし、何をしても常にされるがままで、人形の世話をしているような錯覚を覚えることもありますわ。ちょっと酷い喩えかもしれませんけれど」
そう言って姫乃は夫へと手を伸ばし、静姫の体を受け取る。
人形などと喩えはしたが、客観的に見れば静姫はただの大人しい赤ん坊に過ぎず、姫乃はわが子の健やかさに疑いを抱いてはいない。
姫乃は顔を綻ばせて腕の中で眠る静姫に声をかける。
「こんなに暖かくて、柔らかくて、可愛い静姫がお人形のはずがないわよね」
くすり、と笑って、慈愛の篭った眼差しで静姫を見つめる姫乃。
ふわふわの産毛にさくらんぼ色をした頬、親の贔屓目を差し引いても将来が楽しみになるほど整った顔立ち。
可愛すぎて衝動的に頬ずりしたくなるが、そんなことをすれば気持ちよく眠っている静姫を起こしてしまう。
静夜の語った懸念事などすっかり頭から消え去って、姫乃の思考を占めているのはただひたすら静姫への愛だった。
そんな微笑ましい母娘の光景を静夜は眩しげに見つめ、幸せだなあ、と心中で独りごちた。
(人間の親とは、かくも子を大事にするものか……)
堂に入った狸寝入りを決め込みながら、静姫は両親の会話に耳を傾けていた。
前世の臨終際、胎の子を道具のように扱ったスィルツァラトゥスに血を分けた者への愛情などなかった。
一応生物の範疇に含まれるとはいえ、真祖の吸血鬼が滅多に孕むことはないが、皆無というわけでもない。
日常的に男から精を啜るような生活をしていれば、それなりの頻度で妊娠していたし、一万二千年も生きていれば気まぐれに子を産んだことも何度かあった。
とはいえ、生命倫理など気にする種族ではないので、産む気がなければ自ら子宮を貫いて破壊し、胎児を処分した上で再生するという中絶方法を採っていた。
だから、静姫にとって《親の愛》というのは、最も理解しがたい感情の一つであった。
静姫は生まれてからの四ヶ月で簡単な会話ができるくらいには日本語を理解していた。
もっとも、肉体的に発声器官が未成熟なので、まともに喋れるかは怪しいところだ。
生後四ヶ月の赤子が言葉らしきものを口にすれば、驚天動地とまでは言わないが、まあ控えめに言って大騒ぎにはなるだろう。
未だ異世界の常識に疎い静姫が沈黙していたのはそういう可能性を考慮した上での自重もあったが、何より静夜が言い当てたように面倒くさかったからだ。
三食昼寝付きどころか身の回りの世話全てを他人(正確には家族)がやってくれるのだ。赤ん坊とは実に素晴らしい身分ではないか。
授乳されるのも血を吸っているようで悪くはないし、ご丁寧にげっぷまで誘導してくれる。
最近は離乳食を与えてもらえるようになったが、これがまた珍しい食感と味でなかなか悪くない。
一万二千年も生きた静姫にやりたいことなど最早何もないし、のんびり気楽に過ごすことこそが唯一の望み。わざわざ大人ぶってこの好待遇をご破算にするなど馬鹿らしい。
僅か四ヶ月の赤子生活で吸血鬼の女王はすっかりグータラ人間と化していた。
まあ元からして奔放自堕落な生活を万年レベルで送ってきたわけで、こうなるのは自明の理とも言えたが。
博覧強記の自分が知らぬ言語や大気に宿る精霊力が異常に希薄なところからして、どうやらここは異世界らしいと静姫は気が付いていた。
なぜ転生できたかはわからないが、前世の記憶や魔力に欠損はない。強いて挙げるなら、種族が人間になってしまったことが唯一の変更点だ。
大気に精霊力がなかろうが、静姫ほど巨大な魂と魔力の器の持ち主となれば、自家生産分の魔力だけで十二分に超越的な力が奮える。
現時点では肉体が未成熟なために身体強化もままならないが、ある程度育てば前世のような超越者として君臨する生き方も難しくないと静姫は考えていた。
とはいえ、そうした生き方はもう前世で飽いた。折角生まれ直したのだから、これまでとは真逆の生き方をするのも一興ではないか……。
そう考えたところで、静姫は狸寝入りをやめ、本能に導かれるまま安らかな眠りへと誘われていった。
神社の考察とか割と適当です。