凄腕(すごうで)
『凄腕』
但馬は供の若侍を連れて、とある大工の住まいを訪ねていた。
「そちの腕はまこと評判どおりか? 並みの腕ではかなわぬ仕事だでな」
「あっしに何をこさえろとおっしゃいますんで?」
「歯だ」
「歯?……でございますか」
「いかにも」
連れの若侍が自分の歯をむいて、指でさして見せた。
大工は困惑した。職人は侍からの注文を引受けたがらない。持ち込まれる仕事が厄介なことが多いからだ。……それにしても歯とはな……。
大工には殿様としか告げられなかったが、二人の侍の仕える主人は、長い歳月を待ちに待ってやっと出世の階段を登りつめた、齢五十の老人であった。老人ではあるが望んで出来ないことはない〈殿様〉であった。城内の人事は思うがまま、年貢も百姓をしぼればすむことだし、領内から女を供出させて大勢かこってもいた。しかし、その殿様も寄る年波だけはどうにもならなかった。楽しみは次第に食ひとつに絞られていった。が、これとて、歯がぞっくり抜け落ちてしまった今では思うにまかせない。どれほど贅をつくした料理でも、柔らかいものしか食べられないのは百姓の歯抜け爺と変わるところはないのだった。
「殿のたのしみは食べることでな。昔のようにかたいものが何としても食べたいとの仰せでな」
「……。これまでの歯はどうなされていたんで?」
「面打ち職人が幾人も挑んではみるのだが、どうも思ったようなものが出来んでな」
〈……で、そのしくじった者たちはどうなりましたんで?〉
舌の先まで出かかった質問を呑込んで、大工は言葉を選んだ。
「さようですか。面打ち職人の腕をもってしてもかないませんでしたか」
「いや、そこそこのものは出来るのだがな、長持ちせん」
「と申しますと?」
「ヒノキやクスノキでは三月がせいぜい。桐などはひと月ともたぬ。材が堅くなると面打ちも腕をふるえんようでな」
「京の仏師たちがツゲで立派なものをこしらえると聞きますが」
「いや、黄楊はだめだ。殿は黄色い歯が嫌いでな。そちには白樫で作ってもらいたい」
……お侍に名指しでやって来られちゃ、蛇ににらまれた蛙だ。しかし、何とか逃れる手立てがないもんかな……。大工は思案をめぐらせた。
「あのぅ、天竺から唐にまでは渡っていると聞きますが、象牙というものが手に入りましょうか?」
「なに、象牙とな?」
「へぇ、唐の細工師はそれでずいぶん細かいものをこしらえるそうでございます。象牙さえあれば本物に近いものも出来はしまいかと……」
大工はとっさの思いつきを妙案だと思った。
……義歯の材料では象牙に勝るものはないと言ってやれば、侍の頭のなかは白樫に代わって象牙のことでいっぱいになる。ところが象牙なんぞおいそれと手にゃはいらねえ。そこを象牙でなきゃ仕事をしねえような素振りをつづければ、侍は仕方なしに白樫で仕事をする別の職人を探すことになる。そうすりゃ、こんなおかしな仕事から逃れられる……。
侍は両腕を組み、空を仰いだりうつむいたりして考えこんでいる。侍が悩めば悩むほど、大工には事が自分の思いどおりに運んでいるよう思えた。大工は、うまくいった、と思った。
但馬がいきなり拳で勢いよく胸を叩いて言った。
「うむ。まかせいッ。即刻手配し、入手でき次第沙汰を寄こす。首尾よくまいれば存分の褒美を取らせるでな。それを楽しみに励んでくれよ」
二人連れは帰って行った。
……なあに、あゝは言っても出来ねえもんは出来ねえ。ご禁制の象牙がおいそれと手に入ってたまるもんか……。大工はそう思いたい。……だがよ、まったく当てのねえものを侍が請け合うもんだろうか。象牙が用意されちまえば、職人の面子からも後にゃ退けねえ。こっちが出した注文だしな……。
大工は、城からの知らせがついに来ず、話が立ち消えになることを願った。
但馬に微妙で大胆な決断をさせたのは、一にも二にも主君に対する忠義であったろうが、まったく目算がなかったわけではない。当時は鎖国になる前で南蛮貿易は行われていたのである。但馬も需要のない象牙のことは名を知るのみで、実物を見たことはなかった。が、殿の力をもってすれば不可能ではないと踏んだのである。
……象牙なんぞ手にゃ入るめえ。いや、まだ何とも言えねえか……。
ひと月もせずに若侍が但馬の書状を持ってやってきた。大工の期待も不安もそこで終わった。象牙が手に入ったという知らせだった。
大工は若侍を見送りに出て、その足でサラシを一反買いに行った。
……まさかと思ったがなあ、手に入っちまったのかよ。無理を言えば引っ込む注文だと思ったが、甘かった。象牙とやらはノミではたして削れるものかな。さむれえの注文だ、しくじったら何をされるかわからねえ……。大工は深いため息をついた。
但馬の供をした若侍が案内したのは、みすぼらしい身なりの置き場に迷う大広間だ。青畳がびっしりと敷き詰められている。大工は肩の道具箱を廊下に下ろし、おずおずと大きな部屋に入った。床の間に三尺をゆうにこえる見事な象牙が置かれていた。大工は初めて目にする象牙に近寄って、じっと見つめた。指先でさすり、爪を立てて感触を確かめた。 ……ふむ……
大工は廊下にもどり、上に置いたサラシを退けて道具箱を改めた。どのノミがどんな仕事をしてきたかを思いだしていた。思い出しながら自分の腕を恨めしく思った。
……後々に残るものを作りゃこその大工だと言うのによ、爺さまの口にすっぽり収まって棺桶ごと埋められちまうもんをこさえにゃならねえたぁな。そんなもんのために修行したつもりもねえが、しくじるわけにも行かねえ……。
大工はノミを持つ者の勘で、象牙もどうにか削れること、なじみ具合もカシやツゲよりずっとよいことはわかった。
……会心のものは出来なくとも、まんざらの失敗ということにもなるまい。ここは一か八かだ……。 大工は道具を整えて部屋に戻り、正座して殿様の謁見を待った。
小姓が部屋に入って控えた後から、口のすぼんだ老人が現れ、ひれ伏した大工に息の洩れる声をかけた。
「苦しゅうないぞ、面をあげよ」
大工はしばらく顔をあげなかった。象牙をあずけられて、いよいよ後に退けない。自分の命と引き換えになるかもしれない仕事が、完成を多くの人が喜んでくれる神社仏閣でなく、一老人の入れ歯であることが大工には面白くない。大工は師匠の面影を頭に描き、訓えを反芻していた。──匠のあるのは世のため人のため、一人のために働くものではない──師匠は宮大工の誇りをそう教えた。しかし、一旦仕事に取りかかれば、それも忘れなくてはならないのが大工の立場だった。
殿様が床の間を見て言った。
「ほう、これか。さすがに餅は餅屋よの、うまいものを思いつく。それにしても見事な色つやじゃ。いいものを作れよ」
「はっ」
老人はゆっくり立上がって、次の間へ通じる襖をあけた。
大工はようやく顔を挙げた。開いた襖の先には若い御殿女中が三人、横に並んで口をもぐもぐさせている。女たちは口の周りを浮き粉でまっ白に汚していた。大工は初めて見るこの奇妙な光景は何だろうと思った。
「但馬さま、あのお女中たちはいったい……?」
「飴だ。そちは歯を作ろうというのに、そんなことも知らぬのか」
「はぁ?」
「あれで型を取るのよ。面打ちは皆そうしたが、そちはあゝはせぬのか?」
大工は侍に軽蔑に似た感情をおぼえた。
……おれの腕もみくびられたもんだな。侍たちは職人ってぇもんを知らねえ。それにしても面打ちも面打ちよ、あんな飴細工を当てにするたぁ……
「どうした?」
「どうもあっしとは段取りがちがうようで。改めて一つお願いがございます」
「何か?」
「お殿様のお口のなかを、いえ、一度でけっこうでございます。あっしの指でなぞらせていただきとう存じます」
「そ、その汚い指を殿の口へだと? 無礼者めッ」
「しかし、そういたしませんことには殿様の歯をこしらえるわけに参りませんので……」
但馬はむっと険しい顔つきになって大工に言い放った。
「ここに控えておれッ。殿にお伺いを立てる」
侍は自分が窮地に立ったことを知った。……狂気の沙汰ではないか。殿のお口に指を突っ込む無礼は言うまでもないが、腹が立つのは人をバカにしたような大工のやり方だ。ひとわたり指を這わせるだけで、歯ぐきの複雑な形状をあの無骨な指が記憶するとでもいうのか。そんなことで義歯が作れるというのか。物を作るとはそんないい加減なものなのか。仕上がりが約束されないやり方などどうして認められよう。腕がどれほどのものかを確かめもせずに高価な象牙を与えてしまった。もはや後には戻れぬ。世評を鵜呑みにするとはなんと愚かで恐ろしいことか……。
但馬は早計だった自分を悔やんだ。……今までにも五人ばかり面打ちを取次いできたが、尻が自分にまわって来ることなど一度とてなかった。出来ばえはともかく〈かたち〉にはなった。だが、この大工は飴の型も使わずに〈かたち〉にまでこぎ着けられるかどうか。幸いなことと言えば、今回の象牙の義歯に殿ご自身が乗り気であるというただその一点。殿には何としても大工の指をくわえてもらう。そこにわずかな望みをかけ、その更に先に大工が面打ちに劣らぬ歯を完成させるという望みをかけなければならぬ。針の穴に荒縄を通すようだ。万が一、大工の腕が評判ほどでなかったら……。但馬はめまいのなかで妻子を思った。許せ、覚悟してくれ。思慮のない夫であった、軽率な父であった……。
必死に飴を噛んでいる腰元の頬っぺたをつゝいてからかっている殿様に、但馬が耳打ちをした。殿様は表情を一変させて鋭い眼を大工に向けた。大工は畳みに頭を擦りつけた。ややあって大工の耳もとに老人の声がした。但馬の覚悟を決めた説得に応じたのであろう。
「職人の手法というのも色々じゃな。余もこの上ない歯がほしい。許す」
老人はストンと大工の前にだらしないあぐらをかくと、先ほどとは打って変わった邪気のない顔で、ぽっかりと歯のない口をあけた。
「おそれながら……」
大工はゆっくり丹念に殿様の口のなかを指でなぞった。
「よろしゅうございます」
大工の口元がかすかにほころんだ。
但馬は大工の自信の表情を見逃した。うっかりではなく読み取る余裕がすでになかったのだ。但馬の声はなだめるようでも懇願するようでもあった。
「な、悪いことは言わぬ。型を取っておけよ。飴の型なら何日でももとうが……」
……型を取れ、か。しくじれねえのはお侍も同じこと。俺の腕が信用できねえじゃ俺以上に苦しいのかも知れねえな。但馬さま、なんでこんな仕事に命を賭けなさるかね……
「いえ、但馬さま。ご心配はご無用に。ご迷惑はおかけしません」
「そうか。なら、早速に取りかかってもらう。しかと頼むぞ」
但馬は泣き出しそうな顔で言った。
大工は城が用意した馳走を断り、若侍に案内を乞うと湯殿へ向かった。斎戒沐浴である。しばらくして戻って来た大工の眼は澄み切って力強かった。すでに別人だった。その変化は但馬の心を揺るがすほどだったが、城内にはそれに気づく者はなかった。但馬は思った。……神仏の加護がある者はこのような眼になるのか。この男と死ぬことになるなら、それは仕方ないのかも知れない……。
それからの二日二晩、大工は寝食を忘れて仕事に打ちこんだ。仕事を始めると間もなく、大工の部屋から妖気が漂い出て、だれも近づけなくなった。但馬でさえ遠くから大工の背中を見やるだけで、声ひとつかけられなかった。但馬は城内ではらはらとひとり気を揉んだ。
三日目の昼になった。眼を落ちくぼませ精根つき果てた顔の大工が仕事場から出て来た。但馬はやっと懐かしい友に再会できたような安堵感をおぼえ、ねぎらいの言葉をかけた。大工は但馬に微笑んでみせたが義歯が首尾よく仕上がったのかどうかさえ伝えきれない幽かな微笑だった。
……どんなでもいい、かたちにだけはなっていないとそちの身に……。
大工はやっとひと椀の粥をすすってから広間に向かった。殿様の方が大工を待って迎えた。大工は前と同じように殿様の顔を見ずに言った。
「お慣れになるまでの明日と明後日の二日間は痛みが生じますが、それさえ過ぎればまぎれもない殿様ご自身の歯でございます。それまでは決して歯をお外しになりませぬよう」
殿様は白い歯をたいそう喜んだ。象牙の義歯は歯ぐきがのぞかなければ本物だった。萎んだ口に歯がはいると、殿様は十も若返って見えた。殿様は鏡に映る自分を見て飽きることがなかった。城内の侍や腰元とすれちがうたびに口をぱくぱくやって笑って見せた。
但馬は役目がすんだかと思うと眼の奥が熱くなった。
義歯を入れた翌日、殿様は歯ぐきに痛みをおぼえた。しかし、機嫌は悪くなかった。
……これか、大工が言っておったのは。なに今日明日だけの辛抱だ。がまん、がまん……。
大工のこしらえた上下の歯はその日から、殿様の歯ぐきを抉ってぐいぐいと食いこんでいった。夕刻に痛みがましたのには閉口したが、殿様はすでにぴたりと吸いついて動かない義歯を作った大工の腕を信頼してその晩の痛みをこらえた。
さらに翌日、殿様は痛む口の中にたよりなく揺らぐ異物を感じた。懐紙を拡げると、舌で探った口のなかのものをベッと吐き出した。淡紅色の血といっしょにまっ白い爪のような欠片が幾つも出て来た。歯が歯肉に食い込んだあと不要になった象牙の歯ぐきの残骸だった。
「痛みが去った後は余の歯だと申しておったが、大工め、本物を植え付けおったか。ううむ」
殿様は舌を巻いた。
「さぁて、がまんも今日一日だな」
その日の痛みは歯肉がひき締まるせいで生じるもので、さしたるものではなかった。殿様はおそるおそる新しい白い歯に触れてみた。きれいに一列に埋まった歯は上下のどの一本もビクとも動かない。
三日目の朝。大工の言った通り、二日にわたる痛みは嘘のように引いていた。殿様は鏡を手放せなくなっていた。自分の歯と自分の歯ぐきを指でなぞっては楽しんだ。この日、殿様は小姓に、木製の義歯では食べることのできなかった堅焼きせんべいを運ばせた。象牙の歯は殿様の意志に応えた。口のなかで細かく砕けたせんべいから焦げた醤油の香りが鼻腔へ伝わってきた。失われた時の彼方から甦った懐かしい香りだった。
……すごい男だ。但馬もえらい者を掘り当てたものよ……。
名匠の仕事にすっかり感服して殿様は、腰元をひとり下げ渡すべく偉業の男に使いを走らせることにした。面目のたった嬉しさからその役を但馬が買って出た。
しかし、殿様の歯が本物になったとき、ある異変が同時に起こっていた。異変は殿様本人にも周りのだれにも気づかれずに急速に進行した。それは殿様が本物の歯の手入れを怠ったためであった。エナメル質を欠いたむき出しの象牙はさっそくに虫歯に侵され、歯槽膿漏を生じたぶよぶよの歯ぐきから、一本また一本と抜け落ちていった。
大工は飛騨の匠、名を甚五郎といった。老人の死因も後世うわさされた鯛の天ぷらの食い過ぎではなく、歯周病菌が身体中にまわった全身疾患によるもので、今日で言うバージャー病であったとのことである。(了)