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優しくされる方法

作者: 葵むらさき
掲載日:2026/04/19

 朝だ。たぶん、六時十二分かそこらだろう。この季節において毎朝、私が自然に目を醒ますおよその時刻はそれぐらいだ。

 右手を右側頭部の少し上辺りに持って行き、少しその辺をまさぐる。四角い長方形の板状の物体が手に触れ、それを顔の前──というか上に持ってくる。六時十一分と表示されている。予想通りだと思うより前に、私の指先は一つのアイコンをつついていた。

『マイムード 瑠梨香さん おはようございます』

 アプリケーションが起動し、私に朝の挨拶を送信してきたかと思うと早々に、恭しく一個の青い円盤を映し出してくる。

『下の青い円を、瞬きせずに十秒間見つめてください』

 いつもの、朝一番の儀式。ベッドの上で仰向けに寝転がったまま、今の季節なら毎朝六時十二分頃に、目醒めて最初に私が行うのはこれだ。

 ピコン、という音が鳴るとやっと円から目を離し瞬きすることができる。そうして起き上がり、私の一日が始まるのだ。シリアルとコーヒーで朝食を済ませ、顔を洗いスマコン、スマートコンタクトを目につける。鏡に映る私の顔、その背後に私の頭を守るように包み込む淡いグレーの色が浮かんでいる。

 これがマイムードだ。

 今日の私の背後に浮かぶ色、淡いグレーは、言葉にすれば「まあ問題なしと言ってよいかと思われる状態」だ。二文字に縮めるなら「普通」。

 健康状態にも危急の悪化は見られず、睡眠時間も充分取れていて脳のダメージも修復されている。気分的にも今のところ、義務を果たすに支障を来す程の抑うつ状態とはいえない。いかんせん積極性や将来的な野望を強く抱いて人生を目一杯楽しんでいるという程ではないが、まあ普通に生きていると言えましょう。そんな所だ。

 メイクをしオフィスカジュアルに身支度し、季節を問わず定刻通り七時二十五分に自宅を出る。

 駅に着くのも季節を問わず七時四十二、三分。乗る電車は、ダイヤ改正がない限り定刻七時四十六分に到着する。乗る車輛は最後尾だ。個人的な『気のせい』かも知れないが、この車輛が一番、他の人との距離が大きく取れるように思う。心持ち、隣に立つ人との間のスペースが大きいような。

 リズミカルな揺れ。車窓から差し込み人々の顔の上を撫でては去ってゆく、昇ってからそう間もない太陽の光。右隣に立つ会社員の男のワイシャツから香る柔軟剤の芳香。片や左隣では八つ折にした新聞紙面上の活字に目を落す会社員の、手に持つ新聞の紙とインクの匂い。足の裏から振動が、せり上がってくる。

 車内の人々の頭上には、青、緑、紫、ピンクなどさまざまな色が濃淡さまざまに浮かんでいる。マイムードの色だ。

 このパーソナル情動認知補助システムも、すっかり世間に定着した。

 朝起きた時に十秒間凝視した、アプリの中の青い円。あれは、私の網膜パターンの確認と、これまでに見たマイムードのデータをセットアップするインポーターだ。

 その後瞳に装着したのはスマートコンタクト。私の脳内の血流量やパルス、さらに涙液中の成分変化を逐一送信し、基本的な私のマイムード色を決定づけ、その後の状態変化に応じて更新する。

 これが普及した背景には、人と人との距離があまりにも近づき過ぎたことがやはり第一に挙げられる。

 当時は、物理的にもだが、精神的な距離の方がより“求められて”いた。

 私に容易に話しかけないで。

 これ以上私に近づかないで。

 無論逆もある。

 誰か私に手を差し伸べて。

 私に優しい言葉をかけて。

 マイムードは頭上にその人の持つムード、気分の色を呈示するだけのものではない。SNSやメールなど、その人がインターネットを通じて発信するメッセージにも現れる。その人が送って来た文字の背景が赤く染まっていた、という場合には、まず自分が今までにした事について深く思い返し反省し、さらに返信として打つ言葉の選択には慎重過ぎる程に注意した方がいい。さもなくば相手の逆鱗に触れ、メールも電話もメッセージもあなた本体も、金輪際何も受け付けてもらえなくなる。

 逆にSNSでその人の呟いた文字の背景がいつになく全体的に薄黄色がかって見えたならすぐにでも、可能ならばメッセージといわず直接会いに行ってあげるといい。きっとその人は救われて、慰められて、安心してあなたを信頼するようになるだろう。もしかすると一生の伴侶となるかも知れない──

 会社の同期、伊川悠一の笑顔がふっと脳裡を横切ったと同時に、電車は停止しドアが静かに開いた。人波に揉まれながら私はホームに流れ出た。


          ◇◆◇


 オフィスに着くと荷物を一番下の引き出しに放り込み、オフィス内用スリッパに履き替え、PCの電源を入れる。画面が立ち上がるとロックして、朝一紅茶を入れに立つ。

 デスクに戻りまずは社内メールチェック。社内メールの受信箱に並ぶ文字。つまり件名。サブジェクト。それらの文字の背後をそれぞれに彩る、さまざまな色。送信者がメールアドレスをマイムードに登録していれば、その日その時の送信者のムード、スマコンから伝えられ更新されたその人の『今の気分』が反映される。

 多くは、うすいブルーだ。中には、濃いブルーのものもある。

 ブルー、青という色が示すのは、基本的に仕事や学業、あるいは家庭における家事、子どもへの躾や教育、行政手続きや金銭関係の手続きなど、『果たすべき義務』を遂行しているという自覚の現れだとされる。

 法に定められている事、規則に定められている事、契約として取り交わされた事、あるいは親からの言いつけなど、『やらなければならない事』をやっている時の心情だ。

 青といっても、皆同じ色ではない

 緑がかった青、紫がかった青、藍色に近い青、白色に近い青など、いろんな青がある。

 それは要するに、雑念、ノイズが混ざった結果示される色というわけだ。人それぞれに、仕事や学業をこなしていても考える事、思う事は違っているのだ。

 紫がかった青というのは、赤──つまり攻撃性、積極性、ないし怒りに近いノイズが混ざっていることになる。その人は何かに対して怒りながら、あるいは大変熱い感情を抱きながら業務を遂行しているのだろう。社会的正義感や義憤というものかも知れない。または単純に、大いなるポジティブ思考の中で、非常にテンション高く働いている可能性もある。

 逆に緑がかった青というのは、黄──つまり憂鬱だとか、失望、もしかすると絶望を抱きつつ仕事をしているのかも知れない。それでも青が勝っている間は業務に差し障りのない程度なのかも知れないが、青味が少なくなり緑から黄緑、さらには黄色とまでなっていったなら、恐らく産業医がその人の席に近づいて行くことになるのだろう。

 ちなみに我が社の社長のマイムードは抹茶色。支社長は黒っぽい群青色だ。いずれも澄んだ透明な色ではない。

 色の濃淡については、色が濃いほど脳血管の血流量が少ない状態だという話だ。血流量が少ないと、まあいろいろと問題にはなるが、いちばん重要視されるのは『コミュニケーションに障害が起きやすい』ことと『脳疾患のリスクが高まっている』こと、この二つだ。

 マイムードには脳神経や脳血管の外傷を防ぐというような機能はついていない。怪我により突発的に血流量が減少するという状態は感知できるが、それは結果を伝えるだけだ。

 さて、そういった薄いブルー──あくまで事務的、業務上での必要最小限の連絡としてこのメールを送っていますという心情のもとに記述されたことを示す色が並ぶ中、ぽつりぽつりと、無色のものが交じっている。つまり、白色の背景に黒い文字が書かれているだけのもの。以前なら通常とされていたものだ。

 これは、種別やどんな心情で書かれたかなど関係なく、一律、垣蓑課長からのメールだ。垣蓑課長本人の背後も、同じく無色、特に何色にも染まっていない。

 垣蓑課長は、マイムードの非使用者ということだ。

 メールの内容は、まあ、社内システムにて私用のメールを送るというような破廉恥なことを現場監督責任者の垣蓑課長がさすがにするわけはなく、すべておし並べて業務上の報連相ではある。

 だがこの垣蓑課長という人、彼はなぜか、業務メール内における『顔文字』『記号』の記述に対し、かなり大規模な範囲にまで許容の姿勢をとっている。つまり、ゆるい。

 そう判断できるのはなにも彼に送られるメール内に書かれた顔文字が彼の海のごとく広き心で許されているというわけではなく、要するに彼自身が好んでそういうものを使うからだ。

 毎回。

 必ず。

 社員に対するフレンドリー精神の表現なのかどうかわからないが。

 俺って話わかるタイプでしょ、という自己顕示なのかどうかわからないが。


「おはようございます」

 向かいのデスクから声がかかる。

 伊川だ。笑顔の向こうは──ギリシャの海を思わせるような、透明感溢れるエメラルドブルー。

「おはようございます」笑顔を返す。

 伊川のエメラルドブルーに、すっと一筆掃いたようなピンク色が混ざり、美しいパープルに染め変えられる。

 それを目にする私の心臓は、いつものことだがとくとく、と弾むように打ち始める。デスク上に置いた鏡をそっと覗くと私のマイムードも──伊川のものほど透明ではないところがお恥ずかしい限りだが、同じようにパープルを示している。

 これはもちろん怒りではなく、好意を示すピンクがブルーに混じっているものだ。雑念ではあるが、職場において対人コミュニケーションが円滑に行われている時には、いつでも誰でもこの色を示す。逆に、濃赤や黒といった色を示している人物はいわゆる危険人物とされ、まずは産業カウンセラーが面談し、場合によっては他部署、または支社への移動となる。そういった色を呈示する社員の多くは何らかのハラスメント行為を働こうとする事が多いのだ。

「皆、今日の調子はどうかね」

 朝礼が始まり、課長が皆の顔を見回す。

「皆の今日の調子」は、微妙な個人差はあるがまあ大体茶色だ。

 立ったまま再び鏡を覗くと、私のマイムードの桃色も薄く茶色がかっている。

 課長の声を聞く時皆のマイムードがほぼ揃って茶色味を帯びる。この事実を知った時の感動と安心感は、今でも忘れない。そうか、私だけじゃないんだ。やはり垣蓑課長と接する時には、誰しも茶色味を帯びた心情になるんだ。

 会話など接触している相手のマイムード色が自分のマイムードにもノイズとして入る現象がある。これはミラーニューロンの働きが関係しているとされる。話し手の心情に同調することで、聞き手のマイムードに話し手のマイムード色が反映している状態だ。会話に限らず、読書したり映画などを観たりした時にもこの現象は起こる。

 だが垣蓑課長の場合、本人はマイムードを使用していないのだから、当然彼の色が他者のマイムードに反映することはあり得ない。にも関わらず、垣蓑課長と対峙、接触、会話、それだけに限らず今のごとく朝礼において彼の声を聞くだけで、私たち皆、マイムードが茶色になるのだ。

 もちろん課内の社員全員で、垣蓑課長が何か言ったら全員茶色が示す心情になりましょうと、打合せをしたわけではない。別部署の社員でも、また彼の部下や目下の立場に限らず、垣蓑課長の上司である部長、次長、さらにはたまに訪問して来る役員や代表取締役までもが、垣蓑課長と同じ空間に立った途端、頭上に茶色を示し始めるのだ。

 そしてその茶色が示すのは、一般に緊張、警戒、自己保身の心情だという。

 垣蓑課長の姿を目にし、その声を耳にする時、皆はそれぞれに緊張し、何かを警戒し、何かから自分の身を守りたいと強く望んでいるのだ。とはいえ課内でアンケートを取ったわけではないので、中にはただ緊張だけしている者もいるのかも知れない。

 しかし。大概はそのはずだ。

 けれど、では何を警戒し何から自分を守ろうとしているのか。

 他でもない、垣蓑課長その人だ。

 一般に垣蓑課長は皆を緊張させ、皆から警戒され、そして皆に、自分を傷つける者として敵視されているということだ。

 陰ではこの茶色のことを「モラルハラスメントカラー」略して「モラカラ」と呼ばれている。

 パワハラやセクハラの類いを防ぐ物理的システムとして機能するはずのマイムードが、垣蓑課長のモラハラに対しては茶色を示すしかできないという現実は、ビターチョコレートのように苦味をもたらす。

 茶色に染まった朝礼が済み、皆それぞれのデスクにて業務を開始する。

 私はまず少し温度の下がった紅茶を一口すすり、おもむろに顧客からのメールを開く。

 本文に書かれてあるのは我が社の製品を使用した上での感想・意見・苦情・質問などだ。


「拝啓」で始まるメールだった。「拝啓」の後は実に丁寧な文調にて我が社の製品が糞であることを述べている。

 私は文字を追い、辞書を開き、四文字熟語の意味を調べ、その顧客の真意を読み解く。

 私のPCの向こう側に、黒い髪と、その向こうから後光のようにエメラルドブルーの光が揺らめいている。

 ちらり、とそれを見つめ、私の頬はふっ、とゆるむ。

 初めてこの色を--彼のマイムード色を見た時の感動も、私は忘れない。

 今までの人生において、そんな美しい色を目にしたことはなかった。

 海でだって、そこまでのエメラルドブルーを見たことはない。

 透き通って、輝いていて、吸い込まれそうな色--愛しい色だ。

 どうしてこんな色を醸し出せるのだろう、と不思議で仕方ない。

 本人にも、どうしてそんな色になるのか解らないらしい。

 本人--伊川悠一はそのエメラルドブルーを頭上に揺らめかせながら忙しくタイピングしていた。

 彼の元にはこれから顧客になる見込みのある人たちのリストが届く。

 彼はそれを見て攻略プランを立て、メールを送り、必要に応じて電話でアタックし、また逆に電話を受け、大体昼過ぎからは外回りに出る。

 なのでこの色を拝めるのは朝のうちだけなのだが、私にとって朝一紅茶をすすりながらのそのマイムード色鑑賞は至福のときだった。

 はあ、とため息を洩らす。

「あれ斉藤さん、何ため息ついてんの」PCの上から伊川が首を伸ばし顔をのぞけて悪戯っぽく笑いかける。

 エメラルドブルーがほんのわずか、桃色に染まり、それらの色は混ざり合って透明なパープルを呈する。

「いやあ、今日も伊川くん、いい色醸し出してるなあと思って。憧憬のため息だよ」私は頬杖をつきながら微笑みを返す。

「ははは」伊川は照れくさそうに笑う。「あざっす。いやあ、そんなこと言われたら今日も張り切って五件は獲得してこないとね」

「うん、頑張って」私はガッツポーズを取って激励を送る。

 伊川はもう一度、にっこりと笑う。彼の後頭部の向こうには、揺れるパープル。

 ああ。至福のひとときだ。


 透明度の強弱については、前述の通り脳内の血流量を示すものだが、きらきらと輝いたり光沢を放つという現象については現在まだよくわかっていないらしい。だが我々一般素人にとっては、輝きが強いほど『ピュアな心を持っている』『理想的な性格』『聖人に近い』などという説が定着している。科学的根拠はなく、専門家から見るとそれこそ『自分の気分、つまりムードに任せた適当なこじつけ』だということになるのだろう。


          ◇◆◇


 その日の午後、昼休憩が終わって少し経ってからのことだった。

 内線のベルが、垣蓑課長のデスクの方から響いてきた。しかし数コール鳴っても電話を取る気配はなく、コール音が続く。私も含め課内のほぼ全員が振り向くと、課長席は空席となっていた。

 慌てたように主任が出る。「はい、営業サポート課竹広です」少し間を置き「ああ、はい……はい……ああ……そう、ですか」あまり明瞭ではない声で応対しつつ、竹広主任は課内の社員たちをぐるりと見回す。

 皆さり気なく視線を他所へ向けたり、自分のPC作業に戻ったりし、私もそれに倣おうとした瞬間、運悪く主任と目が合い、直後に主任から『強い手招き』を受けたのだった。よもや見て見ぬ振りはできず私は席を立ち、口許を歪ませぬよう気をつけながら主任の傍へ早足で歩み寄った。

 主任のマイムードは電話に出るまではブルー単色だったが、応対し始めるにつれゆるやかに黄色のノイズを示し出し、あまり美しくはない濁った緑色に変色していた。しかし私と目が合い手招きした後は、それがみるみるブルーに戻っていき、さらには赤のノイズを呈し始めた。

 どう対応すべきかという困惑と、突如振りかかってきた試練からの圧力に耐えるところから、なすべき方策を見つけ全力で飛びつき、何がなんでもその方策を実行し自己の精神の平穏を取り戻したいという強い欲求と攻撃的思念が現れたというところだろう。

 そして代わりに、今度は私のマイムードが嫌な緑色を示し始めていることが予測された。鏡を見る気にもなれない。

「はい。わかりました、ではすぐにそちらへ向かいます」主任はそう告げて受話器を置くなり「和頭さんっていうお客さんが苦情を言いに来てるらしい。一階の第二応接室に通してもらってるから、お話伺いに行ってみて」と私に指示を出した。

「苦情ですか」私は復唱したが、恐らく私の背後の緑はますます黄色味が強くなったことだろう。確かに私の専門は、苦情に対する社を代表しての回答だが、それは主にメール、SNS、時折電話での対応だ。直接来訪した顧客との面談をするのは、正直これが初めてだった。「私でいいんでしょうか」思わず訊き返す。

「──そうね」主任のブルーに混じる赤色ノイズは、負けるものかといわんばかりにぐんと濃くなった。「まずは君で話を聞いて、上席対応を求められたら私、か──戻ってくれば垣蓑課長が出て行くよ」

「わかりました」答える私の声を跳ねのけるように、

「まあ君ももうベテランの域だから、大丈夫だよね?」と主任は笑った。

 その言葉を言えば、私のプライドが呼び起され、私のマイムードも弱腰な緑から清廉な青へ、さらに強気な赤紫へと変わっていくとでも思ったのだろうか。

 人の心は、そんな単純なものじゃない。

 とにもかくにも私は顧客データの入ったタブレットを小脇に抱えて廊下を走り、お客様の待つ一階の応接室へと向かった。


 室内のソファに座っていたのは、高齢層の男性だった。和頭拓幸さん、まさに今朝、私が最初に開いたメールにて我が社製品を丁寧な語句群で糞みそに批判なさっていたお客様だ。和頭氏は質の良いシャツとスラックスに身を包み、歩行補助ステッキを横に立てかけ、背筋を伸ばして着座していた。

「和頭さま、大変お待たせいたしました。カスタマーサービス部の斎藤瑠梨香と申します」私は深くお辞儀をし、名刺を差し出しつつ自己紹介をした。

 和頭氏は名刺を受け取って私の名前と所属を確認し、それから顔を上げて私の顔を見た。この男性がスマコンを着けているかどうかはぱっと見ただけではわからないが、彼の背後には何の色も浮かんでいないため、マイムード非使用者であることは確かだ。つまりスマコンも着用していないと判断される。そういえばこのお客様のメールにも、色はついていなかったっけ……朧な記憶を辿る。

「ああ、あなたがメールの返事をくれた方?」和頭氏はそう訊ねてきた。

「はい、さようでございます」私は頷いた。「この度は貴重なご意見をいただきまして、ありがとうございます」改めてお辞儀をし、私は和頭氏の向かい側の席に腰かけた。「本日は、我が社の販売手順についてということですが、どのようなお話でございますでしょうか」

 受付からの情報によると、和頭氏は製品販売の方法、手順について疑問があると言ってきたという。詳しくは未確認だ。

 私の脳裡に、伊川の顔が浮かぶ。

 ここへ来る前にタブレットで顧客情報をざっと確認したところ、この和頭氏の契約担当は、伊川悠一となっていたのだ。

「ええ、実をいいますとね」和頭市は話し始めた。「今回お宅の、一般家庭向け総合洗浄除菌システムですか、あれを購入したのは、私の妻の独断で、私にひと言も相談なく、勝手に契約してしまったんですよ」

「あ」私は驚きを隠せず目を大きく見開いた。「さようで、ございますか」

「ええ。まあびっくりしました」和頭氏は目を細めて笑った。「ある日帰宅したら、家の中に何だか機械のようなものがどーんと据え付けられていてね」

「それは」私はお客様の心情に──マイムードが見えないので自分の想像力をフルに稼働させるしかない──寄り添う姿勢を見せた。「さぞびっくりなさったことでしょう」

「ははは」和頭氏はまるで笑い話でもしているかのように笑った。「まったくですよ。当然私は妻に問い質しました。なぜ何の相談もなくいきなりこんな、ひと月二万円というのは決して安くはないですよ、特に私どもリタイア世代の者に取ってはね。それを何の承諾もなしに契約してしまったんだとね。そうしたら妻が言うには」

 和頭氏はそこで一度大きく息を吸った。そして言った。

「営業のお兄さんのマイムードがあまりにも美しかったので、この人なら嘘はつかない、安心して任せられると思ったんだと」

 私は徐に頷くしかできずにいた。和頭氏はまだ微笑を浮かべている。彼のマイムード色が見えないことは、今この場においてはむしろ幸甚であるのかも知れないと思った。

 実際のところ、今の時代では和頭氏の奥様が仰ったような購入動機は特に珍しくも、増してや異質だ異常だなどと捉えられることもほぼない。むしろ、いかにお客様に対して美しいマイムードカラーを提示することができるかが、セールスの勝敗の決め手となっている。

 そして伊川は、まさにその透き通り輝きを放つ『極上のマイムード』を武器に、営業課で月度売上トップを何度も獲得している。我が社にとって彼はまさしく『若手のホープ』なのだ。

 しかし今回は、顧客の側が『特殊な例』であったといえるだろう。

 契約を取り付けたのは奥さんで、彼女はマイムード使用者だった。なので伊川の背後、彼の作成する資料や契約関係書類、彼の名刺に貼られている顔写真の背景を彩るエメラルドブルーないしパープルを認識することができる。

 だがその配偶者はマイムード非使用者だ。

 通常、夫婦揃って、親子揃って、家族皆でマイムードを使うことが圧倒的に多い。親しき仲にもマイムードあり、とまで言われるのが現状だ。

 そんな時代風潮の中、何故か和頭夫妻は妻の方のみがマイムードに登録し、スマコンを着けている。そうする理由はわからないし、使用するしないは個人の自由裁量なのだから理由を訊ねるわけにもいかない。

「マイムードね、あれは私に言わせると、人の心を踏みにじる悪魔の道具なんですよ」和頭氏は変わらぬ微笑のままそう断言した。「いんちきで小賢しく人の心を惑わせて、本当に人間を駄目にする。呪いのようなものです」

「……ああ、そのようにお考え」

「大きなお金のやり取りを伴うような大事な取り引きに使っていいものじゃないですよ」和頭氏の目がふっと笑いを消す。「だってそれは詐欺でしょう」

「……あ」私は喉の奥で一声発することしかできなかった。

 詐欺を働こうとしている人間かどうかは、その人のマイムードを見れば大体予測できる、というような『知った風なこと』は、とてもではないが口に出せなかった。

「たかだか家庭用洗浄装置のことだけならいいかも知れませんが、これがずるずる金融関係だとか、医療関係だとか、人の財産や生命に関わる重大な契約にまで事が及ぶのは」首を振る。「絶対に止めなければ、この国は滅びてしまうと思うんです」

「……」もはや私は一声も発することができなかった。

「話が長くなってしまって申し訳ない」和頭氏の瞳は再び笑みを浮かべた。「結論として私が言いたいのは、営業の際にマイムードの効能を利用するのはやめて頂きたいと、そういう事です」

「──あ」私は久し振りに息を吸い込んだ。

「まあメールでは、いろいろ細かいところで気がついた点を書き連ねましたが、家の中のことを妻に任せっ放しにしてきたという負い目もありますので、今回クーリングオフはいたしません」

「は、はい、ありがとうございます」頭を下げながらタブレットに目を落とす。「伺ったご要望につきましては、貴重なご意見として」

「失礼いたします」その時突然ドアが開くと同時に垣蓑課長が入室してきた。「どうも、私カスタマーサポートデスク課長、垣蓑と申します」だみ声が元気よく自己紹介をした。「この度は我が社の営業伊川が大変ご迷惑をおかけしたようで、まことに申し訳ございません」直立したまま深く頭を下げる。

 私はただ目を丸くして課長を見上げるばかりだった。課長は恐らく自席に戻った後主任から事情を聞き、顧客データを確認し、それが販売手順に対する苦情であることと契約担当者が伊川であることだけを把握した上でここに来たのだ。特に上席対応を求められているわけでもなく、それどころかもう面談は終盤を迎え、お客様は一分と経たぬうちお帰りになるご様子だったというのにだ。

「ああ、どうも」現に和頭氏は隣に立てかけておいたステッキに手をかけていたが、突然の上席出現に多少驚きつつもそれから手を離してしまった。

 そしてそこから更に数十分をかけて、和頭氏と垣蓑課長による『アンチマイムード座談会』が繰り広げられたのであった。

 垣蓑課長が和頭氏に話していた内容は次のようなものだった──途中からは、もはや座談会ではなく垣蓑課長の『講演会』と化してしまったのだが。


 私はマイムードを使用していない。アプリもダウンロードしておらず、スマートコンタクトとやらも着けていない。これは今の時代としては、ごく少数派だ。マイムード登録・装着は、あのSDGsのように行政からも企業からも強く推奨されている。

 それは、ヒューマンエラーをヒトへの注意喚起のみに頼るのでは防げないという考え方の一つだ。ヒトの精神ではなく物理的なもの、仕組みや装置の改良またそれを使う際のルール厳正化にシフトした方が事故防止効果が高い。また、人の心情に慮るという行動が取れない個人的性質を持つ者も現実には存在する。

 そういった『人とのやり取り』を、機能として明確に指示してもらえるツール、それがマイムードなのだ。これを是非利用し、要らぬ人間関係トラブルを防ぎ、さらにそれを理由として社会的コミュニケーションを避けたり、労働や外出が難しくなったりする者が減るようにしたい。

 何故なら国に入る税金が増やせないからだ。国民全員に働き、稼いで、買い物をしてレジャーにも出掛けて、金を、経済を回して欲しい。そういうことだ。今や国会では、マイムード使用を義務化するべきかどうかについて議論が闘わされている有様だ。

 私はつけない。義務化すべきと叫ぶ議員も政党も一切支持しない。何も言わなくてもしなくても察して欲しいだなど、単なる甘えだ。自己本位にも程がある。

 人と人とは、目を見て対話をし、言語による直接的なコミュニケーションを取ることにより初めて解り合えるものだ。マイムードなど、人間には必要ない。


          ◇◆◇


 席に戻り業務を再開し、終業時刻も近づいてきた頃だった。向かいの席の伊川はまだ帰社してきていない。営業活動を頑張っているのだろうな……少しばかり胸に痛みを覚えながらそう思った。

 課長席の内線が鳴り始めた。振り向く。課長席は空席だった。

 辺りを見回すが、そこから一番近い位置に着席しているのは私だったので、急ぎ立ち上がって電話を取りに行く。「はい、カスタマーサポート課斎藤です」

 人事労務課の課長からだった。垣蓑課長からできるだけ早く連絡をして欲しいと伝えてくれとの事だ。


 私は小走りに廊下を走った。今日はよく走る日だな……と思いながら。

 課長を探す時は、マイムードが大いに役に立つ。

 何しろ人は皆、大概皆、課長がそばに来ると頭上が茶色になる。

 だから人々の頭の上をざっと眺め渡し、茶色が見えたら大概そこに課長はいる。

 エレベータが到着し、降りる人のために脇へよける。三人の社員が降りて来たが、なんとその三人とも頭上に茶色のマイムードを示していた。

「あ」私は反射的に声をかけた。その社員たちとの面識はない。「あの、垣蓑課長を見ましたか?」

「ああ」三人は同時に私を見て頷いた。「なんか三階で降りて行ったよ」

「三階、ありがとうございます」私は頭を下げ急いでエレベータに乗り込んだ。三階のボタンを押す。

「俺ら今全員茶色だもんなあ」ドアが閉まる寸前、その社員たちはお互いの顔──というか恐らくマイムード──を見合って笑いながらそんなことを言っていた。

 三階のエレベータホールには誰もいなかった。私は左右を見渡し、会議室や研修室の並ぶ廊下を右手に進んでいった。曲がり角に差し掛かった時、十数メートル先にその人はいた。

 垣蓑課長だ。

 その時私は、課長と並び立つ他の人のマイムードを見て垣蓑課長だと判断したのではなかった。垣蓑課長その人の顔、姿を直視した結果、それが垣蓑課長だと判断したのだ。垣蓑課長の頭上からはむろん、マイムード色は出ていない。

 課長と並んでいたのは、伊川だった。そして伊川のマイムードは、いつものエメラルドブルーではなかった──それは、茶色でさえもなかった。

 その時伊川のマイムードは、黒い色を示していた。

 ──え……黒……?

 その色は、普通に日常生活を送る上ではほぼ見ることのない色だ。特殊な、非日常的な色。

 普通ではない、色。

 それは伊川の、あの美しい海のような青色を、どこにも残していなかった。今、伊川の頭上からは、ただ真っ黒な色だけが覗いていたのだ。

 私は、垣蓑課長を呼ぼうとした声を呑み込んでしまった。

 しかし私の気配に伊川の方がすぐに気づいた。彼は私に振り向き、少しだけ微笑み、その瞬間一筋のピンク色が彼のマイムードに差し込んだが、それはすぐに呑み込まれた──今彼のマイムードを覆う、闇のような漆黒の色に。

「か」私はその場面を消し去りたい衝動に衝き動かされ、大声を上げた。「垣蓑課長」頼まれた伝言をし、三人でエレベータに乗る。

「奥さんにうまいこと言ってたらしこんで取った契約なんだろうが、結果この有様なわけだ」垣蓑課長は大声を張り上げ、楽しそうに──あるいは嬉しそうに──笑った。「まあこれも社会勉強ってやつだな。次からは気をつけたまえよ、若いの」

 伊川はいつもの穏やかな微笑を浮かべ「はい」と答えた。しかしそのマイムードは依然漆黒のままだ。

「若さを武器にして売りつけるなんてのも、考えてみりゃ詐欺商法だよね。マイムードかなんか知らんが、あんまり調子に乗るなっていう教訓だよ」

 あんまり調子に乗るな。課長の言葉をそのまま課長に投げ返してやりたい。私は強くそう思い、ひそかに唇を噛んだ。

 部署に戻り、席に座ろうとした時だ。

「喉が乾いたな。伊川。ちょっとお茶淹れて来てくれんか」と垣蓑課長が大声で言った。

 課内の者が驚いたように振り向く。

 伊川も椅子に座ろうとした姿勢のままで止まっている。

「あ、私が」私は無意識の内に手を上げていた。

「いやいいよいいよ」しかし垣蓑課長は笑いながら大きく手を振る。「お茶汲みが女子社員の仕事なんて時代はもう終わったし、俺は伊川にお茶淹れて欲しいんだ。いろいろと、反省の心を込めてな。なあ伊川、頼めるよな」

「はい」伊川は頷くと、給湯室へ向かうため歩き出した。

 課内全員が茶色を背後に抱えていたが、伊川の背後は──黒かった。他の要素を何も許さない色だ。

 垣蓑課長以外のマイムード使用者たちは、ただ何か恐るべきものを見る目で伊川の背を見ていた。他の数人と無言の目配せをし、私は洗面所へ行く振りをして化粧ポーチを片手に席を立ち後を追った。

 胸騒ぎがする。

 給湯室は通路の東端、廊下の行き止まりにある。私は二十メートル手前あたりから走るのをやめ歩いて近づいていった。床のクッションは靴音を消してくれる。

 伊川の背が見える。両手が動いて作業をしている。恐らく湯呑にティーバッグを入れお湯を注ぎ、一定時間待ってティーバッグを取り出して──

 黒のマイムード。それは、強い嫌悪、忌避、憎悪を示すとされる。一般向けの解説においてはそういう説明がされるが、無責任な一般素人の中にはそれを『殺意カラー』と冗談交じりに呼ぶ者もいる。

 だが今それは『冗談』では済まされない。

「伊川くん」呼びかけた。

 はっと息を呑み振り向く伊川。その指先には三センチ四方ほどの小さなビニル袋が持たれており、透明な袋の中には白い粉末の残りが貼りついているように見えた。

 白い粉──その中身のほとんどは、湯呑の中に落とし込まれたのに違いない。伊川の左手はティーバッグの紐を持ち、左右に振ってお茶をかき混ぜているところだった。

「あ、斎藤さ」

「課長、なんか用事でもう出るって」私は湯呑をまっすぐに見たまま、伊川の声を遮って言った。「そのお茶、私が飲んでもいい?」

 伊川は目を大きく見開いた。

 何故そんなことを聞いたのだろう。

「あ、いや、これは」伊川は素早く湯呑を取り上げ、中のお茶を流しに捨てた。「飲まない方が」早口に言うその語尾が掠れて消える。

 私は、伊川には人に優しくする人であって欲しかったのだ。

 あんな黒色を表示するような人間になって欲しくなかった。

 あんな黒色に、負けて欲しくなかった。

 結局課長には自動販売機で買ったペットボトルの緑茶を、給湯室のお湯が出なくなっていたと嘘を言って私から渡したのだった。


          ◇◆◇


 翌日からしばらくは、特に変わったこともなく、通常通りに業務が行われていた。けれどその日、心を揺さぶる情報が昼休憩の後に伝わってきた。

「斎藤さん」私の席に近づいてきて呼びかけたのは同期の広重だった。深刻な面持ちで、声をひそめる。「伊川、K県の作業所に異動になるって聞いた?」

「えっ」私は心の底から驚いたが同時に、やっぱり……という思いも生まれていた。「いや、初耳だけど。そうなの?」眉をしかめる。

「うん。あいつ前から時々……多分垣蓑課長に対してだけ、真っ黒なマイムードになってただろ」

「えっ、そんな前から?」

「うん、最初はごくたまにだったようだけど、段々頻度が増して来ててさ。誰かから人事労務に通報したみたいだよ……あの黒いマイムードはなあ」

「そう、か……」

「まあ……要するに、左遷ってことだよな。気の毒ではあるけど……俺たちにも害が及ばないように、そっと見送ろうや」広重はそう言って自席に戻って行った。

 そっと見送る──つまりは送別会など大事にせず、そうですか知りませんでしたお元気で、といった体で、飽くまでも通常通りに振舞おうという意味だ。

 そう、それが現状最も望ましい『外野の態度』といえるだろう。

 下手に騒がない。会社の決めたことに抗議などしない。黒のマイムードを示してしまった時点で、伊川は除外されるべき人物なのだと受け入れる。それがこの部署、そこに属する社員たちの平和な日常を守る、最適解だ。マイムードを基準とする機能的で効率的な社会的行動というものだ。


          ◇◆◇


 そして別れの日はやって来た。

 伊川は机の引き出しやキャビネットを整理し、社員証とロッカーの鍵を総務部へ返すため手に持ち、室内を見渡した。

 皆は通常通りの業務にいそしんでいる、頭上にブルーのマイムードを示しながら。

 伊川の頭上にも、あのエメルドブルーが輝いていた。

 悲しいほどに透き通った、海の色。

 見上げている私の視線に気づき、伊川は少しだけ微笑んだ。マイムードにピンクが混ざり、パープルとなる。

「斎藤さん、お世話になりました」伊川が言う。

「いえ、こちらこそ」私は椅子に座ったままで、少しだけ頭を下げた。「お疲れ様です」

「はい」伊川の返事は風のような囁きだった。

 パープルのマイムード。

 業務遂行時の心に、少しだけ混ざる好意のノイズ。

 結局一度もかなわなかったが、もし伊川とプライベートで二人の時間を過ごすことがあったなら、そのマイムードはブルー要素を消しピンク色のみになっていただろうか。

 私は密かに、伊川のマイムードがいつか黄色を呈する日が来るのを待っていた。気落ちして、失望して、負の感情に押し流され、そこから脱出したい、助け出して欲しいと願う心情の色。

 その時こそ私が我が身を投げ打って、彼を助け、支えるのだと望んでいた。

 また逆に、もし私のマイムードが黄色になった時、彼が優しい一言をかけてくれることを夢見ていたりもした。伊川ならすぐに、もしかすると私自身が気付くよりも先に「あれ、斎藤さんどうしたの」と声をかけてきてくれただろう。彼はそういう人だ。そういう人だから、私は彼に魅かれていったのだし、そういう女性は他にも多くいるだろう──

 ふと、私は思った。マイムードがきらきらと輝く現象、あれはもしかしたら『人に対する優しさ』を表しているのではいだろうかと。

 例によって『素人の、気分次第の出まかせ』かも知れないが、それでも思う。

 優しくされる方法と、自分を好きになる方法とは、同じライン、同じレベル、同じ位相の上に、並び立つものだ。皆本当は優しいのに、その優しさにふたをして閉じ込めてしまい攻撃性をあえて最初のに持ってくる。優しさという宝は、金庫の最奥に、厳重に鍵をかけてしまわれてある。まるでそうすることが、社会に生きる大人として当然のマナーであるとでもいわんばかりに。

 けれどそれを素直に、単純に、誰憚ることなく示すことができるのが、伊川のように宝石のようなマイムードを示す人なのだと思う。彼は自分を大切にしているからこそ人にも優しくできるのであり、それだからこそ、攻撃の赤を示すということを知らず、一気に黒にまで走ってしまったのではないのだろうか──

「それじゃ、失礼します」伊川は最後に小さく挨拶を述べ、そっと事務所を出て行った。

 彼の姿が見えなくなるまでの数秒間、皆は言葉を謹んでいた。

 ただ一人、垣蓑課長を除いて。

「いや、それは私がやるべきことじゃあないでしょう。いやいや、私が出張る所じゃあないと思いますよ。ええ。常識的に考えてですね。はっはっはっ」

 出て行く伊川の気配は皆の心、それぞれのブルーにほんのりと悲しみの黄色、そして伊川の幸運や健康を祈るピンクの心情を混ぜ、グレージュ系のマイムードを表示させていたのだが、電話越しにだみ声で叫ぶ垣蓑課長の声は、一瞬にしてそれらすべてを変色させた。

 茶色に。

 それは黒よりも、重くしんどい色に見えた。



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