ある駅の情景
閑散とした深夜の駅、ホーム。吐く息が白い。暦の上では春とはいえ、夜はまだこんなにも寒い。
かじかむ手で春物のパステルピンクのコートを首もとに手繰りながら、私はもうここに座り始めて何本目かわからない電車を見送った。残るは終電のみ。
駅員さんに無理を言って改札を通してもらったのが午前十時頃。それからずっと、お手洗いに立ったのと弁当を買いに立ったの以外、私はここに座っている。
『明日、電車でそっちに帰るから』
昨夜の電話で、確かに彼はそう言った。あの柔らかくて心地の良い、私の好きなあの声で、彼は間違いなく私にそう告げたのだ。それを信じて今日一日、ここに居る。
前回彼に会ったのは、もう半年も前のことだ。 それも彼の仕事のためだから仕方のないことだと解ってはいるが、やはり、辛い。そしてそこに昨日の電話。
楽しみで、夜もなかなか眠れなかった。目の下のクマはちゃんとファンデーションで隠せているかしら、彼に会ったら何て言おう──
そんなことを考えていると、今日最後の電車が私の前を滑らかに通り過ぎていった。
彼は乗ってはいなかった。
不意にポケットの中の携帯の着信音が鳴る。母からのメール。
“今日はもう帰ってきなさい”
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
※※※
「あのはいつまで待ち続けるんだろう」
朝十時、駅。ホームのベンチに座るもう見慣れた女の横顔を見ながら、僕は呟いた。女を見ていると、胸が締め付けられる思いがする。
毎朝十時。同じ時間に現れては、同じベンチに座り、終電まで電車を見送る彼女を、僕はこの駅に配属されてからずっと見てきた。どんな日も、彼女は同じ時刻にそこに居た。
最初は気味が悪くて仕方なかった。毎日毎日、あの女はいったい何をしているのだろう、と。
──記憶喪失
以前先輩の駅員に聞いた話だ。彼女が駅に通うのを始めたのは、丁度二年前らしい。二年前の駅通い初日も、彼女は朝十時にここに現れ、あのベンチに座った。ただ、初日は現れたのだそうだ──彼女の待つ恋人が。
美男美女の爽やかな絵に描いたような姿だったそうで、二人は注目の的だったらしい。
そして、その仲睦まじい二人が事故にあったのは、その帰り道だったそうだ。彼らが歩いていた歩道に、急に車が突っ込んできたのだと聞いた。運転手は飲酒していたと言う話で、彼女は軽傷で済んだが、彼の方は即死だったらしい。
翌日病院で目を覚ました彼女は、病室を抜け出し、この駅まで来て言ったのだそうだ。彼が帰ってくるのでホームで待たせて欲しい、と。
その翌日も、その次の日も、彼女は駅に来ては同じことを繰り返した。
彼女の記憶は一度眠ってしまうと、事件の前日に引き戻されてしまうらしかった。
これからも彼女はあの場所で待ち続けるのだろうか。
※※※
声を掛けたのは、彼女の彼を健気に待つ姿に僕が耐えきれなかったからだと思う。“思う”と歯切れの悪い言い方をするのは、僕自身何故彼女に声を掛けたかはっきりわからないからだ。それくらい、僕は無意識に彼女に声を掛けていた。
「貴女はいつまで待つのですか」
余程驚いたのだろう、彼女はびくりと肩を震わせ、大きな瞳を更に大きく見開いてこちらを振り向いた。
「え」
「貴女は、いつまでここに居るのです」
言ってから、己の少しキツい口調を後悔する。でも。
「彼が、彼が帰ってくるまで。ここにずっと座っているのは、やはりご迷惑でしょうか」
「そうじゃない」
止められなかった。初めて話す人間に対して感情的になるなんて、どうかしていると思いながら、僕は彼女に対するやりきれない気持ちで溢れていた。
「貴女の待つ彼はもうい」
「言わないで」
予想外の言葉に、僕は瞠目した。
「貴女は」
知っているのですね。そう言い終わる前に、彼女は頷き肯定の意を示した。
「私が待つことをやめてしまったら、彼が居たことが嘘になってしまうようで」
「記憶喪失、じゃぁなかったんですね」
「今はね」
彼女は伏し目がちに答えた。彼女のその表情が、僕の中の何かを更にかき乱してゆく。 僕は何か言おうと口を開き掛けて、やめた。駄目だ、これ以上は。僕自身、後悔してしまう気がして。
黙ってその場を立ち去る。
己が解らなかった。自分がいったい何をしたいかさえ解らない自分が、酷く腹立たしくて。でも、何かをしなければならないような気がして。
少し離れた場所から、彼女を振り返る。ほんの少しの筈なのに、彼女とのその距離は、酷く遠く感じられた。
※※※
僕が彼女に初めて声をかけてから一カ月が過ぎた。相変わらず彼女は同じ時間に来ては同じ時間だけ、同じ場所に座っていた。
変わったことと言えば、僕が彼女に差し入れをするようになったことと、その際に話し掛けるようになったことだ。ただし会話はいつも僕からの一方通行で、彼女はただひたすら電車に目を向けたまま無視を決め込んでいた。
ある夜、終電がそろそろ近づいた頃、その日は雨がぱらついていて肌寒かったので、僕は彼女に暖かい缶コーヒーを差し出した。彼女が受け取るのを見て、僕は少し微笑んだ。
終電が僕たちの前を通り過ぎてゆくのを見届けてから、僕は自分の分の缶コーヒーを持って彼女の隣に腰を降ろした。
「今日は寒いですね」
無言で缶コーヒーを飲む彼女を見ながら、僕は微笑む。
「こんな雨の日は、なんだか気持ちが沈んでしまいます」
「……」
「でも嫌いではないんですよね、雨。心のわだかまりも、こう、きれいに洗い流してくれる気がする。ベタな言い方ですけど」
言って僕は苦笑する。
「こうやって、みんなのわだかまりや嫌なものを浄化してくれてるのかなって思ったら、あぁ、雨の日も良いかなって」
コトリ、と彼女が飲み終わった缶を隣のベンチに置いた。
「何で」
突然の彼女の声に、僕は少し目を見張った。一カ月振りに聞く、彼女の声。
「何で、私に構うの」
雨音に混じって聞き取りにくい彼女の掠れたような声を、僕は丁寧に拾う。
「それは」
「同情なんて要らないから」
言って、彼女は僕を睨んだ。
「同情なんて、していませんよ」
僕が苦笑しながら言うと、彼女は少し意外そうな顔をした。
「同情するのは、貴女に失礼だと思うから」
「変な人」
彼女の言葉に、僕は再び苦笑した。
「よく言われます」
「彼も、彼も言ってた。好きだって」
「え」
彼女が少し微笑む。
「雨」
その答えに僕は少し瞠目する。
「ただ、貴方みたいにそんなベタなことは言わなかったけど」
言って、淋しそうに彼女は笑った。
「解ってるの。彼はもう来ないってこと。私はもう前に進まなきゃって、ずっと思ってた。もう記憶喪失の振りなんてやめようって」
彼女の目から堰を切ったように涙が溢れ出して、頬を伝っていく。
僕は何も言わず、ただ彼女の隣に座っていた。仲間の駅員が気を利かせて、声をかけないでいてくれることが有り難かった。
「山川涼平です」
彼女が落ち着いてきたところで、僕は切り出した。彼女がきょとんとした顔で僕を見る。
「僕の名前です」
言って微笑む。
「覚えていてもらえますよね。明日も、明後日も」
彼女は幾分すっきりした顔で微笑んで、ゆっくりと首を一度だけ縦に振った。それに僕は笑顔で応える。
「貴女の名前、教えてもらえませんか」
雨の音が、耳に心地良かった。
久々の投稿です。
一年ほど前に書いたものが携帯のフォルダの中に埋まっていたのを発見したので、このままにしておくのも勿体無く、投稿させていただきました。
もし、ご感想等ございましたら、どうぞお気軽に書き込んでやって下さいませ。
よろしくお願い致します。