もう、彼女は死に戻らない
――これは、裏切られ続けた令嬢が、自らの手で未来を掴み取るまでの物語。
冷たい。
全身を駆け巡る感覚は、ただそれだけだった。エレーナ・フェルト伯爵令嬢は、自分が今どのような状況に置かれているのかを理解できなかった。
夜会の喧騒から離れようと、テラスに出たのが間違いだったのだろうか。星を見上げようとした瞬間、背中に鋭い痛みが走った。誰かに押されたのか、それとも突き飛ばされたのか。受け身も取れず、硬い石畳に体を打ち付けた。
息ができない。
(痛い、苦しい……だれか)
か細い声は音にならず、開いた唇からは空気の漏れる音だけが響いた。
豪華なドレスの胸元が、急速に濡れていく感覚があった。夜風が冷たいのではない。自分の体から熱が奪われ、命そのものが流れ出しているのだと、ぼんやりとした頭で理解した。
見開いた瞳に、黒い人影が映る。
顔は見えない。月明かりを背負ったその人物は、エレーナを無感動に見下ろしていた。
(なぜ、わたしが……)
問いかけは届かない。貴族社会のしがらみに疲れながらも、真面目に生きてきたはずだった。誰かを害した覚えも、恨みを買うような行いもした記憶はない。
それなのに、死ぬ。
こんな、わけもわからないまま。
意識が急速に遠のいていく。最後に聞こえたのは、遠く離れたホールから漏れ聞こえる楽しげなワルツの音だけだった。
冷たい闇が、彼女のすべてを飲み込んだ。
はっ、とエレーナは息を飲んで目覚めた。
(夢……? いま、わたしは……)
乱れる呼吸を整えようと胸に手を当てる。だが、痛みはない。それどころか、夜会で着ていたはずの豪奢なドレスではなく、柔らかな寝間着を身につけていた。
「お嬢様、お目覚めですか」
聞き慣れた声がした。顔を上げると、そこには幼い頃からエレーナに仕える侍女のマリーが、心配そうな顔で立っていた。
「マリー……?」
「はい。ずいぶんうなされていらっしゃいましたが、何か怖い夢でも」
マリーが差し出す水差しを受け取り、震える手でグラスに注ぐ。冷たい水が喉を通る感覚が、妙に生々しかった。
(夢……そう、夢に決まっている)
あれほど鮮明な痛みと絶望を、夢で済ませていいものだろうか。
「今、何日?」
「え? 本日は、ルエリス公爵家主催の夜会まで、あと三日……つまり、花の月の二十日でございますが」
エレーナの体から、再び血の気が引いた。
花の月の二十日。
それは、夜会の三日前。自分が殺されたはずの夜の、三日前だった。
(時が、巻き戻っている……? まさか。そんなことがあり得るはずがない)
しかし、背中を刺された瞬間の、肉を裂く鈍い感触。石畳の冷たさ。血が流れていく絶望感。それらすべてが、夢とは思えないほど克明に脳裏に焼き付いている。
もし、あれが現実だったとしたら。
もし、自分があの夜、テラスで殺される運命なのだとしたら。
「……っ」
得体の知れない恐怖が、腹の底から這い上がってきた。
(どうしよう。どうすればいいの)
気弱なエレーナにとって、この事態はあまりにも重すぎた。誰かに相談しなければ。でも、誰に?
警察や騎士団に「三日後に殺される夢を見た」などと訴えても、取り合ってもらえるはずがない。
(そうだ、あの方なら)
エレーナの脳裏に、頼れる婚約者の姿が浮かんだ。
アルジェント・ルエリス公爵子息。
夜会の主催者であり、エレーナの婚約者である彼は、知的で冷静、そして何よりエレーナに対していつも優しかった。
(アルジェント様なら、きっと私の突拍子もない話も、真剣に聞いてくださるはず)
彼はこの国でも有数の力を持つ公爵家の跡取りだ。彼なら、エレーナを守る手立てを講じてくれるかもしれない。
エレーナは震える手でペンを取り、アルジェントへ緊急の面会を求める手紙を書き始めた。侍女のマリーにさえ内容を悟られぬよう、細心の注意を払って。
翌日、人目を忍んで屋敷を抜け出したエレーナは、指定された街外れの教会跡でアルジェントを待っていた。
「すまない、待たせたね、エレーナ」
穏やかな声と共に現れたアルジェントの姿を見て、エレーナは張り詰めていた緊張の糸が切れ、泣き崩れそうになるのを必死でこらえた。
「アルジェント様……!」
「ひどい顔色だ。手紙には緊急の用件とあったが、一体何があったんだい」
アルジェントは優しくエレーナの肩を抱き、その不安げな瞳を覗き込んだ。
エレーナは、おそるおそる昨夜見た「夢」について語り始めた。三日後の夜会で、自分が何者かに刺されて死ぬこと。そして、気がついたら三日前に戻っていたこと。
荒唐無稽な話だ。自分でも、まともな神経で聞ける話ではないと思う。
しかし、アルジェントは眉ひとつ動かさず、真剣な表情でエレーナの言葉に耳を傾けていた。
「……そうか。それは、恐ろしい体験をしたね」
すべてを話し終えたエレーナに、アルジェントは優しく微笑みかけた。
「信じて、くださるのですか?」
「もちろんさ。君が嘘をつく人間ではないことくらい、私が一番よく知っている」
その言葉に、エレーナはどれほど救われたことだろう。
(よかった。やっぱりアルジェント様は頼りになる)
「夜会のことだね。わかった。私が万全の警備体制を敷こう。君には護衛もつけよう。絶対に、君を死なせたりはしない」
「ありがとうございます、アルジェント様……!」
「さあ、こんな場所に長居は無用だ。屋敷まで送ろう。道すがら、もう少し詳しく聞かせてもらえるかな」
アルジェントはそう言って、エレーナの背中に手を添え、教会跡の裏手へと導いた。そこには、人目につかないようにと彼が手配した馬車が停まっているはずだった。
だが、そこにあったのは、一台の馬車だけではなかった。
馬車の陰に、屈強な男たちが二人、無表情で立っていた。
「アルジェント様……?」
エレーナの足が止まる。嫌な予感がした。アルジェントは護衛だと言った。だが、彼らの雰囲気は、護衛というよりも……。
「ああ、すまないね、エレーナ」
背中に添えられたアルジェントの手が、優しく、しかし力強く彼女を押した。
よろめいたエレーナは、男たちの一人に腕を掴まれる。
「何を……アルジェント様!?」
「驚かせてしまったかな。だが、君の話を聞いて確信したよ」
アルジェントの表情から、先ほどまでの優しさが抜け落ちていた。そこにあるのは、獲物を見つめる狩人のような、冷たい無感動な眼差し。
「君には……知りすぎる可能性が生まれてしまった」
「何を、おっしゃって……?」
(わからない。この人は何を言っているの?)
「君が本当に戻ってきたのかどうかは、私にとってはどうでもいいことなんだ。重要なのは君が、自分が殺されると認識してしまったことだ」
アルジェントはゆっくりとエレーナに近づき、その震える顎に手をかけた。
「君のような勘のいい娘は、生かしておくと厄介でね。本当は、夜会の日まで待つつもりだったんだが……君がわざわざこうして一人で出てきてくれた」
エレーナの瞳が、絶望に見開かれる。
(まさか。では、あの夜、私を殺したのは……)
「察しが早くて助かるよ」
アルジェントは、まるで美しい芸術品でも眺めるかのように、エレーナの恐怖に歪んだ顔を満足げに眺めた。
「さようなら、エレーナ。私の可愛い婚約者」
「いやっ……やめ、て……!」
悲鳴は、屈強な男の分厚い手によって塞がれた。抵抗する力も、助けを呼ぶ声も、気弱な彼女には残されていなかった。
男たちの手が、彼女の細い首にかかる。
(嘘……。あなたが、なぜ……)
薄れゆく意識の中で、エレーナは信じていた婚約者の冷酷な顔を見つめていた。
ごきり、と嫌な音が響く。
二度目の死。それは、信頼していたはずの相手からもたらされた、あまりにも残酷な絶望だった。
*
ごきり、という首の骨が折れるおぞましい感触と、息詰まる窒息の苦しみを最後に、エレーナの意識は暗転した。信頼していた婚約者の、氷のように冷たい瞳に見下ろされながら、二度目の死を迎えたはずだった。
「……お嬢様? エレーナお嬢様!」
揺さぶられる感覚に、エレーナは重い瞼をこじ開けた。
(うるさい……少し、静かにして……)
喉が焼けるように痛い。絞められた時の苦しさが、まだ生々しく残っている。
だが、目に飛び込んできたのは、見慣れた自室の天蓋だった。そして、泣きそうな顔でこちらを覗き込む侍女のマリーの姿。
「マリー……?」
掠れた声が出た。
「よかった、お目覚めになられたのですね! 本当にうなされていらっしゃって……お医者様をお呼びした方がよろしいのではと」
(また……だ)
エレーナは、のろのろと体を起こした。寝間着の柔らかな感触。窓から差し込む朝の光。痛みも苦しみも、嘘のように消え去っていた。
鏡台の前に置かれた暦が、無情な現実を突きつける。
『花の月 二十日』夜会の三日前。すべてがリセットされている。
(戻ってきた。また、あの日に……)
ぞわり、と全身の肌が粟立った。
一度目は、夜会での謎の刺殺。
二度目は、助けを求めた婚約者アルジェントの手の者による、冷酷な絞殺。
(アルジェント様が、私を……)
思い出すだけで、全身が恐怖に凍りつく。あの優しい笑顔も、甘い言葉も、すべてが自分を油断させるための芝居だった。公爵子息である彼が、なぜしがない伯爵令嬢の自分を殺さなければならないのか。
(なぜ彼が私を殺さねばならないの?)
理由はわからない。だが、事実として、アルジェントはエレーナを殺すことを躊躇わなかった。
(どうしよう。どうすればいいの)
気弱な彼女の心は、すでに限界だった。頼れるはずの婚約者は、自分を殺そうとしている最大の敵だったのだ。
(逃げなければ。でも、どこへ?)
フェルト伯爵家は、アルジェントの監視下にあるかもしれない。彼が本気で自分を殺そうとしているなら、この屋敷とて安全ではない。
(誰か……誰か、本当に私を守ってくれる人はいないの?)
両親の顔が浮かんだが、すぐに首を振った。
父である伯爵は、領地の運営と中央での派閥争いに忙殺されており、娘の荒唐無稽な夢の話に耳を傾けるとは思えない。むしろ、ルエリス公爵家との婚約は、フェルト家にとって最大の政略的成果だ。それを揺るがすような娘の訴えは、握り潰されるのが関の山だろう。
母は病弱で、今は南の領地で静養中だ。とてもではないが、こんな恐ろしい話をできる状態ではない。
(だめ。家族は頼れない)
エレーナは唇を噛んだ。涙が滲みそうになるのを、必死でこらえる。
(しっかりしなくては。今度こそ、本当に死んでしまう)
もう一人の人物の顔が、エレーナの脳裏をよぎった。
(そうだ! バスティアン様……!)
バスティアン・リンドハイム子爵。
隣接する領地を持つリンドハイム子爵家の嫡男であり、エレーナの幼馴染の兄のような存在だった。幼い頃はよく一緒に遊んだ。アルジェントのような華やかさはないが、実直で正義感の強い人だ。
彼は今、王都の騎士団に所属している。
(バスティアン様なら……騎士団にいる彼なら、アルジェント様の力にも対抗できるかもしれない)
アルジェントが公爵子息とはいえ、騎士団に所属する貴族を公然と害することは難しいはずだ。
(それに、バスティアン様は、私利私欲で人を裏切るような人じゃない)
幼い頃の記憶が蘇る。転んだエレーナを背負ってくれた、ぶっきらぼうだが優しい背中。
(彼しかいない。彼ならきっと、私を守ってくれる)
希望の光が見えた気がして、エレーナはベッドから飛び起きた。
「マリー、少し体調が優れないから、今日は一日部屋で休んでいます。誰が来ても、取り次がないで」
「かしこまりました。お食事はお部屋にお持ちしますね」
「ええ、お願い」
マリーの優しさに胸が痛んだが、今は彼女を巻き込むわけにはいかない。
(ごめんなさい、マリー。でも、これは私一人の問題なの)
エレーナはマリーが部屋を出ていくのを見届けると、すぐにクローゼットに向かった。
貴族令嬢のドレスではない。地味な街娘が着るような、目立たないワンピースとフード付きのケープを選んだ。髪もいつものように結い上げるのではなく、無造作にまとめてフードの中に隠す。
宝石類はすべて外し、小銭だけをポシェットに忍ばせた。
(アルジェント様に相談した時と同じ轍は踏まない)
前回は、彼を信頼しきって、人目につかない教会跡で会うという相手の提案を鵜呑みにした。その結果が、あの惨めな最期だ。
今度は違う。こちらから動く。
エレーナは侍女用の小さな通用口から、息を殺して屋敷を抜け出した。幸い、まだ午前中の早い時間で、使用人たちの往来も少なかった。
屋敷の塀を抜けた瞬間、全身に緊張が走る。
(見られていない? 誰かつけてきていない?)
貴族令嬢が一人で街を歩くことなど、通常ではあり得ない。だが、今はそんな常識に構っている場合ではなかった。
大通りを避け、裏路地を選んで進む。すれ違う人々の視線が、いちいち背中に突き刺さるようだった。
(怖い。でも、行かなくては)
王都の騎士団詰め所は、王城の近くにある。伯爵邸からはかなりの距離があったが、エレーナは足を止めることなく歩き続けた。
どれくらい歩いただろうか。ようやく、厳めしい騎士団の紋章が刻まれた門が見えてきた。
門番の兵士が、不審そうな目でエレーナを制止する。
「待て、小娘。ここは貴様のような者が来るところではない」
「お、お願いします! バスティアン・フォン・リンドハイム子爵に、緊急の御用件が……!」
エレーナは必死に訴えた。だが、兵士は鼻で笑う。
「リンドハイム子爵様だと? 貴族様がお前のようなみすぼらしい娘に何の用だ。失せろ」
「本当なんです! 命に関わることなの! お願い、取り次いでください!」
エレーナが門に取りすがろうとすると、兵士は無情にも槍の柄で彼女を突き飛ばそうとした。
その時だった。
「何をしている。騒がしいぞ」
低く、よく通る声が響いた。
エレーナが顔を上げると、そこには、まさしく彼女が求めていた人物が立っていた。
「バスティアン様……!」
「エレーナ嬢? どうして君がこんなところに、そんな格好で」
バスティアンは、訓練着姿のまま、驚きに目を見開いていた。門番の兵士が慌てて敬礼する。
「も、申し訳ありません! この娘が、子爵様に御用だと……」
「バスティアン様、お願いがあります! 誰にも聞かれたくない、大切なお話が……!」
エレーナは、今にも泣き出しそうな顔で彼に訴えかけた。
バスティアンは、彼女の尋常ではない様子を察したのだろう。彼は門番に「俺の客人だ。気にするな」と短く告げると、エレーナの手を取った。
「こっちだ。詰め所の裏に、古い倉庫がある。そこなら誰も来ない」
力強い手に引かれ、エレーナは安堵に息をついた。
(よかった。会えた……)
埃っぽい倉庫の中に二人きりになると、バスティアンは真剣な眼差しでエレーナに向き直った。
「一体、何があったんだ、エレーナ嬢。その格好といい、ただ事ではないようだが」
「バスティアン様……!」
堰を切ったように、エレーナの目から涙が溢れ出した。彼女は、嗚咽をこらえながら、三日前の夜会から始まったこの悪夢のような出来事を語り始めた。
一度目の死。
三日前に戻ってきたこと。
そして、婚約者であるアルジェントに助けを求め、彼に裏切られて殺されたこと。
「……信じられない、ですよね。こんな話。でも、本当なんです! 私は、二度も殺されて、二度もこの日に戻ってきたの!」
エレーナは、自分の話がどれほど荒唐無稽か自覚していた。だが、もう嘘で取り繕う余裕はなかった。
バスティアンは、黙って彼女の話を聞いていた。その表情は硬く、何を考えているのか読み取れない。
(だめ……やっぱり、信じてもらえない? 私、また間違えたの?)
エレーナの心が絶望に染まりかけた、その時。
「……アルジェント公爵子息が、君を?」
バスティアンが、低い声で呟いた。
「はい……彼は、私が知りすぎるかも、と……」
「そうか」
バスティアンは大きなため息をつくと、おもむろにエレーナをその逞しい腕で抱きしめた。
「えっ……バスティアン、様?」
「怖かっただろう。よく、一人でここまで来たな」
温かい胸板と、力強い腕の感触。それは、アルジェントの計算高い抱擁とはまったく違う、純粋な庇護の匂いがした。
(信じて、くれた……?)
「君の話がすべて真実かどうか、俺には判断できない。時間を遡るなど、おとぎ話でしか聞いたことがない」
「……」
「だがな、エレーナ」
バスティアンは彼女の肩を掴み、その濡れた瞳をまっすぐに見つめた。
「君がこれほど必死に助けを求めている。そして、あのアルジェント・ルエリスが君を害そうとしている。それだけで、俺が君を守る理由は十分だ」
「バスティアン様……!」
(ああ、よかった。この人は、アルジェント様とは違う)
心からの安堵が、エレーナの全身を包んだ。気弱な彼女にとって、この実直な騎士の言葉は、何よりも力強い救いだった。
「君の屋敷は危険だ。アルジェントの手がいつ伸びるかわからない」
「で、でも、どこへ行けば……」
「俺のセーフハウスがある。騎士団の管轄下にある場所で、貴族でも手出しはできない。夜会の日まで、そこで身を隠すんだ」
「あ、ありがとうございます……!」
「礼はいい。幼馴染を守るのは、兄貴分の役目だろう?」
バスティアンはそう言って、ぶっきらぼうに笑った。その笑顔は、幼い頃と何も変わっていなかった。
バスティアンはエレーナに再びフードを深く被るよう指示し、詰め所の裏口から彼女を連れ出した。
そこには、紋章の入っていない、目立たない馬車が一台停まっていた。
「これに乗れ。御者には話を通してある。俺は後から合流する」
「はい……!」
エレーナは、バスティアンに言われるがまま馬車に乗り込んだ。
(助かった。これで、あの夜を乗り越えられるかもしれない)
馬車がゆっくりと動き出す。ガタガタという振動が、硬くなった体を揺らした。
しかし、馬車が進むにつれて、エレーナは違和感を覚え始めた。
(おかしい……騎士団の管轄区域は、もっと治安の良い中央地区のはず)
馬車は、彼女が先ほど歩いてきた王都の中心部とは逆の方向、明らかに治安の悪い、寂れた地区へと向かっていた。
窓の覆いの隙間から見える景色は、次第に荒廃していく。建物は古び、道行く人々の服装もみすぼらしくなっていく。
(バスティアン様は、こんな場所にセーフハウスを?)
不安が胸をよぎる。だが、彼女はすぐにその不安を打ち消した。
(何を疑っているの。彼は私を助けてくれたのよ。きっと、人目につかない場所を選ぶ必要があったんだわ)
そう自分に言い聞かせた。もう、誰も信じないと決めたはずなのに、バスティアンの優しさに触れ、彼女の心は再び脆くも信頼へと傾いていた。
やがて馬車は、ひときわ荒れ果てた貧民街の一角、今にも崩れそうな廃墟の前で停まった。
「……着いたぜ、嬢ちゃん」
御者が、ぶっきらぼうに言った。
エレーナがおそるおそる馬車を降りると、そこには「後から合流する」と言っていたはずのバスティアンが腕組みをして待っていた。
「バスティアン様……ここが、セーフハウス?」
「ああ、そうだ。中に入れ」
彼の口調は、詰め所にいた時よりも明らかに冷たかった。
エレーナは不安を覚えながらも、彼に従って建物の中に足を踏み入れた。
中は薄暗く、カビと汚物の匂いが鼻をついた。セーフハウスどころか、人の住める環境とは思えない。
「あの、バスティアン様……本当にここで……」
エレーナが振り返ると、背後で重い扉が閉まる音がした。
そして、建物の奥から、複数の男たちが姿を現した。人相の悪い、ごろつきのような連中だった。彼らは卑しい笑みを浮かべ、エレーナを値踏みするような目で見ている。
「バスティアン様! この人たちは……!?」
エレーナの声が震える。
バスティアンは、ゆっくりと彼女に向き直った。その顔から、先ほどまでの実直な騎士の面影は、綺麗さっぱり消え失せていた。
そこにあったのは、アルジェントと同じ、獲物を見下すような冷たい捕食者の目だった。
「悪いな、エレーナ。君にはここで消えてもらう」
「え……?」
(何を、言っているの? この人も、私を……?)
「な、なぜ……どうして、あなたまで……!」
「なぜ、か。君の家、フェルト伯爵家が邪魔なんだよ」
バスティアンは、忌々しげに吐き捨てた。
「邪魔……?」
「そうだ。我がリンドハイム家は、長年お前の父親に領地の利権を奪われ続けてきた。いつも、一歩先を行く伯爵家。忌々しい限りだ」
(そんな……家の対立なんて、私、何も知らなかっ……)
「君は知らなくていいんだよ、お嬢様。だがな、面白い話を聞かせてもらった」
バスティアンは歪んだ笑みを浮かべる。
「君が、アルジェント公爵子息に狙われている? 素晴らしい。我が家にとってはこんなに好都合なことはない」
「だったら、私を殺す必要はないじゃありませんか!」
「あるさ」とバスティアンは冷ややかに言った。
「君が公爵家に殺されたとなれば、伯爵家は公爵家を訴えるだろう。大方握りつぶされるだろうが……万が一訴えが上手くいってしまったら、伯爵家が更に力をつけてしまう。だが、もし君が行方不明になったら? 伯爵家は混乱し、内部から崩れる。その隙を突かせてもらう」
「そん、な……」
「それに」彼は続けた。
「彼が本気で君を殺したいならば。君が行方不明になったら、伯爵家に圧力をかけるはずだ。ルエリス公爵家とフェルト伯爵家が勝手に潰し合ってくれるというわけさ」
(ひどい……どちらに転んでも、私は道具でしかない……)
エレーナは絶望に膝から崩れ落ちそうになった。信じた相手が、二人続けて自分を裏切った。
「ああ、そうだ」バスティアンは、まるでゴミでも見るかのように彼女を見下ろした。
「君の『時間を遡る』っていう話、なかなか面白かったぜ。だがそんなおとぎ話を本気で信じるほど、俺もお人好しじゃないんでね」
(信じてさえ、いなかった……)
彼は最初から、エレーナの話など信じていなかったのだ。ただ、彼女がアルジェントに狙われているという「情報」だけを利用したに過ぎない。
「バスティアン様……嘘でしょう? 幼い頃、私を守ってくれるって……」
「はっ? いつの話をしてるんだ?」
バスティアンは冷笑した。
「ガキの頃の戯言を、いつまでも本気にするなよ」
「……あ……」
(もう、だめだ)
エレーナの心から、すべての光が消えた。
「やれ。死体は残すなよ」
バスティアンの冷酷な命令が響く。
ごろつきたちが、卑しい笑い声を上げながら、エレーナにじり寄ってきた。
「いやっ……! 来ないで……! 誰か……!」
(誰か、助けて。でも、誰が? 私を助けてくれる人なんて、もうどこにもいない)
逃げようとするが、あっけなく腕を掴まれ、薄汚い床に叩きつけられた。
硬い物で後頭部を殴られる音。下卑た嘲笑。それらがぼんやりと遠くに聞こえる。
「やめて……やめて……!」
気弱な令嬢の抵抗など、暴力の前では無意味だった。
意識が途切れる直前、エレーナは見た。
幼い頃、優しい笑顔で「お兄ちゃんが守ってあげる」と言ったはずの男が、この世の汚物でも見るような冷たい目で、彼女が蹂躙される様を無感動に見下ろしている姿を。
三度目の絶望が、彼女の意識を闇に突き落とした。
*
はっ、とエレーナは息を飲んで目覚めた。
(また……また、この天井)
全身が、見えない鎖でベッドに縛り付けられたかのように動かない。
「お嬢様、お目覚めですか。ずいぶんうなされて……」
侍女のマリーが、心配そうに声をかけてくる。
エレーナは、ゆっくりと首だけを動かし、マリーを見た。
返事はしなかった。
暦に目をやる。
花の月、二十日。
(また、戻ってきた)
婚約者アルジェントに裏切られ、殺された。
幼馴染のバスティアンに裏切られ、踏み躙られた。
信じていた二人の男に、二度も。
(ひどい……ひどすぎるわ)
気弱だった彼女の心は、度重なる裏切りと絶望的な死の記憶によって、確実に摩耗し、変質し始めていた。
涙は、もう出なかった。
ただ、体の奥底から、冷たい何かが湧き上がってくる。
それは、絶望を通り越した、静かで冷徹な怒りだった。
(もう、男は信じない。頼るものか)
だが、エレーナの脳裏に、まだ一人だけ信じられるかもしれない人物の顔が浮かんでいた。
(……ソフィア)
脳裏に、唯一無二の親友の顔が浮かんだ。
ソフィア・リーリオン侯爵令嬢。
エレーナとは対照的に、明るく、快活で、いつもエレーナを引っ張ってくれる存在だった。
二人の間には、アルジェントやバスティアンのような家の利害や政略的な思惑はない。ただ、純粋な友情だけで結ばれているはずだった。
(そうよ。ソフィアがいる。
侯爵令嬢の彼女なら、アルジェント公爵家の横暴からも、バスティアン子爵家の陰謀からも、私を守ってくれるかもしれない。
それに、ソフィアは女だわ。男たちのような、醜い欲望や権力欲で私を裏切るはずがない)
それは、暗闇の底で見つけた、か細い蜘蛛の糸だった。
エレーナは、最後の力を振り絞るようにベッドから起き上がった。
(今度こそ。これが、本当に最後の希望)
もし、ソフィアさえも私を裏切るなら、その時は……。
エレーナは、マリーに「体調が悪いので誰にも取り次がないで」といつものように告げると、再び地味な街娘の服に着替え、屋敷を抜け出した。
アルジェントとバスティアンに裏切られた記憶が蘇り、外の空気を吸うだけで吐き気がした。道行くすべての人間が、自分を害そうとする敵に見える。
(しっかり、エレーナ)
彼女はフードを深く被り、リーリオン侯爵邸へと続く道を足早に進んだ。
フェルト伯爵家よりもさらに格上の侯爵家。その屋敷は、王都の一等地に堂々とそびえ立っていた。
裏口から回り、勝手知ったる侍女頭にこっそりと取り次ぎを頼む。ソフィアとはそれほど親密な間柄だった。
ほどなくして、ソフィアが侍女用の小さな応接室に駆け込んできた。
「エレーナ!? どうしたの、そんな格好で! まさか、何か事件に巻き込まれたんじゃ……」
美しい金髪を揺らし、親友の無事な姿を見るよりも先にその身を案じるソフィアの姿に、エレーナの張り詰めていた糸が切れそうになった。
「ソフィア……!」
「まあ、なんて顔色なの。さあ、こちらへ」
ソフィアは他の使用人を下がらせると、エレーナを自分の私室へと導き入れた。豪華だが、彼女の趣味の良さが反映された居心地の良い部屋だ。
ソフィアはエレーナをソファに座らせると、温かいハーブティーを自らの手で淹れてくれた。
その優しい仕草の一つ一つが、傷つききったエレーナの心を溶かしていく。
「さあ、飲んで。落ち着いて話してちょうだい。一体何があったの」
「ソフィア……私、怖い夢を見たの。ううん、夢じゃないわ」
エレーナは震える声で、この三日間に起こったすべてを語り始めた。
一度目の死。
時間を遡ったこと。
アルジェントに助けを求め、裏切られたこと。
バスティアンを頼り、さらに酷い裏切りに遭ったこと。
話しながら、エレーナは自分が何を言っているのかわからなくなる瞬間があった。あまりにも現実離れしている。だが、ソフィアは、アルジェントがしたように話を遮ることも、バスティアンがしたように嘲笑することもなかった。
彼女はただ、悲痛な表情で、エレーナの言葉に耳を傾けていた。
「……そんな、ひどいわ。アルジェント様も、バスティアン様も……あなたがどれほど彼らを信頼していたか、私は知っているのに」
すべてを話し終えたエレーナを、ソフィアは優しく抱きしめた。
(ああ……よかった。ソフィアだけは、信じてくれた。この温もりは、嘘じゃない)
「怖かったわね、エレーナ。もう大丈夫よ。私が絶対にあなたを守るわ」
「ソフィア……!」
「あなたは、アルジェント様に狙われているのよね。そして、バスティアン様も信用できない。フェルト伯爵邸は危険だわ」
ソフィアは真剣な顔で言った。
「幸い、ここはリーリオン侯爵家よ。ルエリス公爵家とて、簡単には手出しできないわ。夜会の日まで、いいえ、すべてが解決するまで、ここに隠れていなさい」
「で、でも、ご迷惑になるんじゃ……」
「馬鹿ね。親友が命の危機に瀕しているのに、迷惑なんて思うわけないでしょう?」
ソフィアはそう言って、エレーナの不安を払拭するように明るく笑った。
(助かった。本当に、助かった……)
三度の死を経て、ようやくたどり着いた安息の地。エレーナは、ソフィアの優しさに包まれ、張り詰めていた意識を手放すように、深い眠りに落ちていった。
どれくらい眠っていただろうか。
エレーナが目を覚ました時、部屋はすでに夕焼けの茜色に染まっていた。
(……私、眠って)
慌てて体を起こすと、そこはソフィアの私室のソファではなく、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
(どこ? ここは……)
部屋はソフィアの私室よりも質素だが、清潔に整えられている。窓の外には、リーリオン侯爵家の庭園とは違う、鬱蒼とした森が広がっていた。
「目が覚めた?」
扉が開き、ソフィアが入ってきた。手には食事の乗った盆を持っている。
「ソフィア! ここは……?」
「ああ、ごめんなさい。あなたがぐっすり眠っていたから、起こすのが忍びなくて。ここはね、うちの別邸なの」
「別邸?」
「ええ。本邸はいくら侯爵家とはいえ、アルジェント様の息がかかった者がいないとも限らないわ。でも、ここは王都から少し離れた森の中。ここの管理人は、私に絶対の忠誠を誓ってくれている人たちだけ。ここなら、絶対に安全よ」
(私のために、そこまで……)
エレーナは感動に胸が熱くなった。
「ありがとう、ソフィア。あなたがいなかったら、私……」
「いいのよ、水臭いわ。さあ、食事にしましょう。疲れているでしょうから」
ソフィアが運んできたのは、温かいスープと焼きたてのパンだった。空腹だったエレーナは、夢中でそれを口に運んだ。
(美味しい……)
恐怖と緊張で、この三日間、まともに食事も喉を通らなかった。親友の優しさが、冷え切った体に染み渡っていくようだった。
「よかった。元気が出たみたいね」
ソフィアは、エレーナが食べる様子を嬉しそうに眺めている。
だが、スープを半分ほど飲んだところで、エレーナは奇妙な感覚に襲われた。
(あれ……?)
体が、重い。
思考が、うまくまとまらない。
眠気が、まるで鉛の外套のように全身にのしかかってくる。
「ソフィア……私、また……眠く……」
「そう? 少し、お薬が効きすぎたかしら」
「……お薬?」
エレーナの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前にいるソフィアの笑顔が、なぜかとても恐ろしいものに見えた。
「ええ。よく眠れるように、少しだけスープに入れておいたのよ」
「な……ぜ……」
「だって、エレーナ。あなた、可哀想だわ」
ソフィアはベッドの傍らに座り、エレーナの頬を優しく撫でた。その手つきは慈愛に満ちているのに、その目は、見たこともないほどの熱を宿していた。
「あなたは、アルジェント様に裏切られて。バスティアン様には、あんな酷いことをされて……」
「……あ……」
「もう、疲れたでしょう? あなたは、あんな男たちのことなんか忘れて、ここでずっと、私と二人きりで暮らせばいいのよ」
「ソフィア……あなた、何を……」
「守るわよ。もちろん。誰にもあなたを渡さない。アルジェント様にも、バスティアン様にも、他のどんな男にも」
ソフィアの瞳が、狂気的な独占欲に爛々と輝いていた。
「あなたは、私のものよ、エレーナ。あなたは昔からそうだったわ。私がいないと、何もできない、気弱で可愛い、私のエレーナ」
「どう、して……」
「それなのに、アルジェント様との婚約が決まった時、あなたはなんて言ったか覚えてる? 『私、幸せになるわ』って。私を置いて? 私以外の人間と? 許さないわ」
「……っ!」
(嫉妬? 私に? アルジェント様を?)
「いいえ、違うわよ、エレーナ」
ソフィアは、エレーナの心を読んだかのように、くすくすと笑った。
「アルジェントなんか、どうでもいいわ。私が欲しいのは、あなたよ」
「え……?」
「あなたは、私だけを見ていればよかったの。私だけを頼って、私だけを信じていれば。それなのに、あなたは男にうつつを抜かした。だから、罰が当たったのよ」
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
薬のせいで、指一本動かせない。声を出そうとしても、かすれた息が漏れるだけだ。
(この人も……しかも、こんな……こんな理由で!)
「でも、もう大丈夫。あなたはここから一歩も出られないわ。アルジェント様も、もうあなたを探すことはないでしょう」
「……?」
「あなたの『死に戻り』の話、とても興味深かったわ。もし本当なら、あなたはまた二十日に戻ってしまうのでしょう?」
ソフィアは、懐から小さな小瓶を取り出した。
「だからね、考えたの。あなたがもうどこにも戻れなくなればいいんだって」
小瓶の中身は、黒く、どろりとした液体だった。
「これはね、リーリオン家に古くから伝わる、魂を縛るという毒よ。これを飲めば、あなたの魂はこの場所、この瞬間に固定される。二度と、あの朝には戻れない」
(いや……いやだ……! それじゃあ、本当に死んでしまう! この、狂った女に、永遠に囚われる!)
エレーナは必死に首を振ろうとしたが、体は麻痺して動かない。
「安心して、エレーナ。死ぬわけじゃないわ。ただ、あなたの意識は永遠に夢を見続けるの。私と、二人きりで、幸せに暮らす夢を」
ソフィアはそう言うと、無理やりエレーナの口を開かせ、そのおぞましい毒液を流し込んだ。
(あ……あ……)
灼けつくような痛みが喉を走り、意識が急速に闇に沈んでいく。
(いやだ……! こんなところで……こんな終わり方……! 誰か……助け……)
薄れゆく意識の中、エレーナは見た。
自分の体を愛おしそうに抱きしめ、恍惚とした表情で「ずっと、ずっと一緒よ、私のエレーナ」と囁く、親友だった女の歪んだ笑顔を。
四度目の死。それは、純粋な友情を信じた心を踏みにじられる、絶望だった。
*
また、朝が来た。
もはや絶望とも呼べない、ただただ冷え切った無感覚の中で、エレーナ・フェルト伯爵令嬢は五度目の目覚めを迎えた。
視界に映る見慣れた天蓋が、今は牢獄の天井のように彼女の視界を圧迫する。
小鳥のさえずり。窓から差し込む穏やかな朝の光。そのすべてが、彼女の神経を不快に逆撫でした。
花の月、二十日。暦を見るまでもない。この三日間のループから、彼女は逃れられないのだ。
(幸いだったのは〝魂を縛る〟効果が、所詮は伝承に過ぎなかったことね……でも)
四度の死。四度の、信じた者たちからの完璧な絶望。
それらは、かつて気弱だった令嬢の心を、欠片も残さず粉々に打ち砕いた。
「お嬢様、お目覚めですか」
聞き慣れた声が、静寂を破った。
侍女のマリーが、いつものように心配そうな顔でベッドを覗き込んでいる。
「ずいぶんうなされていらっしゃいましたが、何か怖い夢でも」
(……夢)
エレーナはゆっくりと首だけを動かし、その侍女の顔を見つめた。
(この女は、いつもそうだ。いつも同じ心配を、同じ言葉で繰り返す)
かつては、その優しさにどれほど救われてきたことだろう。だが、四度の裏切りを経た今、エレーナの目には、マリーのその型通りの優しさが、不気味なほど薄っぺらいものに映っていた。
(怖い夢? ええ、そうね。あなたにとっては、私の苦しみなど、すべて「夢」でしかないのでしょうね)
エレーナは返事をしなかった。
ただ、無言で体を起こす。
「お嬢様……?」
主人の異様なほどの静けさに、マリーが戸惑いの声を上げる。
「……」
エレーナはマリーの目をじっと見据えた。
(この女は、私を本当に心配している? この屋敷で、私に最も近い場所で仕えているこの侍女は、本当に私の味方なの?)
これまでの四回、エレーナはマリーを疑わなかった。
だが、五度目の今は違う。
(もう、誰も信じない。頼るべき人間など、どこにもいない)
ならば、確認しなければならない。
この、身近な人間が、どのような顔をしているのかを。
「マリー」
エレーナが、掠れた、それでいて底冷えのする声で初めて口を開いた。
「は、はい! お嬢様」
「私、殺されるかもしれないの」
マリーの肩が、わずかに揺れた。
それは恐怖か、それとも驚きか。
「……また、そのようなことをおっしゃって」
マリーは、困ったように眉を下げ、作り物めいた笑みを浮かべた。
「お嬢様は、少々お疲れのようですわ。ルエリス公爵様との夜会が近いから、緊張なさっていらっしゃるのではないですか?」
(……ああ。そう。そうだったのね)
エレーナの心の中で、最後のか細い糸が、音もなくぷつりと切れた。
(この女は、気付いた。私が何かに怯え、精神的に不安定になっていることを。うなされていることを。
それなのに、彼女が口にするのは「夜会が近いから」「お疲れなのです」という、当たり障りのない言葉だけ。
本気で話を聞こうともしない。ただ、私を「いつものお嬢様」に戻そうとするだけ。
なぜならその方が、彼女にとって都合が良いから)
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
それは、アルジェントたちに向けた怒りとは異なる、もっと陰湿で、日常に潜む裏切りに対する嫌悪感だった。
「……そうね。疲れているのかもしれないわ」
エレーナは、ふ、と唇の端を吊り上げた。それは、かつての彼女が決して見せなかったような、妖しい笑みだった。
「少し、一人で休むわ。今日は一日、誰も部屋に入れないで。あなたもよ、マリー」
「かしこまりました。では、お食事は……」
「いらないわ」
「まあ……ですが、それではお体に」
「いらない、と言ったの」
拒絶の言葉は、マリーの心配を遮るのに十分すぎるほどの冷たさを帯びていた。
「……承知、いたしました」
マリーは、主人の豹変ぶりに戸惑いながらも、深く一礼して部屋を退出していった。
ばたん、と扉が閉まる音を聞きながら、エレーナは静かにベッドから降りた。
(さて、証拠を見つけましょうか)
彼女の思考は、かつてないほど冷静で、冷徹だった。
(あの女が、誰と繋がっているのか)
マリーは長年フェルト家に仕えている。その妹も、この屋敷で下働きとして働いていたはずだ。マリーの自室は、侍女たちが暮らす東棟の三階にある。
エレーナは、クローゼットから一番動きやすい、それでいて侍女の服装に近い地味なワンピースを選び、素早く着替えた。貴族令嬢の華やかな寝間着を脱ぎ捨てると同時に、彼女はエレーナ・フェルト令嬢という役割そのものを脱ぎ捨てたかのようだった。
髪も無造作にまとめ、侍女用の通用口から自室を抜け出す。
五度目ともなれば、この屋敷の抜け道や使用人たちの動く時間も、嫌というほど把握していた。
東棟は、まだ朝の慌ただしい時間帯だった。洗濯や掃除の準備で、侍女たちが忙しなく行き交っている。
(誰も、私だとは気づかない)
フードこそ被っていないが、うつむき加減に壁際を歩くエレーナを、誰もが他の使用人の一人としか思わなかった。彼らにとって、主筋である令嬢が、こんな時間に、こんな場所を、こんな格好で歩いているなど、想像の埒外なのだ。
それが、エレーナには滑稽でならなかった。
(みんな、見たいものしか見ていない。私という記号しか見ていない)
マリーの部屋は、最奥にあった。侍女としては古株であり、部屋も個室を与えられている。
幸い、鍵はかかっていなかった。侍女頭としての地位が、彼女の油断を招いたのかもしれない。
エレーナは、音もなく部屋に滑り込む。
質素だが、清潔に整えられた部屋。だが、その整然とした空気が、今のエレーナには白々しく感じられた。
(どこに隠している?)
机の引き出し、小さな衣装棚、ベッドの下。
エレーナは、ためらうことなく他人の私物を物色していく。かつての彼女なら、罪悪感で手が震えただろう。だが、今の彼女の心は、何の波も立たなかった。
そして、見つけた。
衣装棚の奥、古いリネンの間に挟まれていた、一通の手紙の束。
それは、明らかに侍女が持つには不釣り合いな、高価な羊皮紙に書かれたものだった。
震える指で、それを開く。
(……ああ、やっぱり)
差出人の名は、記されていない。だが、その紋章の入った封蝋は、エレーナが嫌というほど見知ったものだった。
『ルエリス公爵家』
アルジェントからの指示書だった。
『エレーナ嬢の動向を、些細なことでも報告せよ』
『特に、夜会のことについて何か語っていないか』
『対価は、先日約束した通り。お前の妹の縁談を保証する』
(……妹の、縁談)
エレーナは、その手紙を握りしめた。
マリーには、年の離れた病弱な妹がいた。その妹の将来を案じていたことは、エレーナも知っていた。
(だから? だから、私を売ったの? 私がどれほどあなたを信頼していたか、知っていたくせに。
私がうなされていたのは、アルジェントのせいかもしれないと、あなたは微塵も思わなかったの?
あなたのその「心配そうな顔」も、すべて芝居だったというわけね)
怒りが湧いてこない。
ただ、心の底が、絶対零度の氷で満たされていくようだった。
(ありがとう、マリー。あなたのおかげで、私の中に残っていた最後の甘えが、完全に消え失せたわ)
エレーナは、その手紙を懐にしまうと、何事もなかったかのように部屋を元通りにし、静かにその場を後にした。
自室に戻ったエレーナは、鍵をかけ、ベッドに深く沈み込んだ。
(マリーは、アルジェントと繋がっていた。これで、最初の夜、私がテラスで殺された理由も説明がつく。
私が何かを知りすぎたのではない。アルジェントは、最初から私を殺すつもりだったのだ。
そして、マリーは、私が夜会でテラスに行く時間、私の体調、そのすべてをアルジェントに報告していた。だから、彼はあんなにも的確に、私を殺すことができた。
では、なぜアルジェントは自分を殺そうとするのか。
(政略結婚の破棄? それなら、もっと穏便な方法があるはず。なぜ、わざわざ殺す必要が?
……わからない。けれど、理由など、もうどうでもいい)
事実は一つ。
婚約者も、侍女も、グルになって自分を殺そうとした。
(では、他の人間は? 父は? 母は?)
これまでのループで、エレーナは両親を頼ろうとはしなかった。
父は多忙、母は病弱。そう思い込んでいたから。
だが、マリーの裏切りを目の当たりにした今、その「思い込み」さえも疑わしく思えてきた。
(父は、本当に娘の訴えを聞き入れないほど、忙殺されているだけ?
母は、本当に私を心配してくれる、優しい母親?)
確かめなければならない。
この屋敷にも、まだ裏切り者が潜んでいるのかどうかを。
エレーナは、再び立ち上がった。
今度は、侍女の服ではない。
クローゼットから、一番上等な、しかし色味の抑えられた威厳のあるドレスを選んだ。
髪も、侍女に頼むのではなく、自らの手で完璧に結い上げる。
鏡に映ったのは、青白い顔ながらも、背筋を伸ばし、冷たい光を宿した瞳を持つ、伯爵令嬢の姿だった。
(もう、逃げ隠れはしない。私は、エレーナ・フェルト。この家の、令嬢なのだから)
彼女は、堂々と自室の扉を開け、父であるフェルト伯爵の書斎へと向かった。
書斎の前で、使用人が制止しようとするのを、エレーナは氷のような一瞥で黙らせた。
ノックもせず、重い扉を開け放つ。
「……誰だ、無礼な!」
書類の山に埋もれていた父が、怒りの声を上げた。
だが、そこに立っていたのが娘のエレーナであり、しかもその姿がいつもの気弱なものではなく、まるで別人であるかのように毅然としているのを見て、彼は言葉を失った。
「お父様。緊急でお話したいことがございます」
「……エレーナ、か。何の用だ。私は忙しいといつも言っているだろう」
父は、すぐに不機嫌さを取り戻し、書類に視線を戻した。
(この人だ。この人が、私の父。いつも私を見ず、家のこと、領地のこと、派閥のことしか見ていない人)
エレーナは、まっすぐに父の机へと進み出た。
「アルジェント・ルエリス公爵子息との婚約を、破棄させていただきたく存じます」
その言葉は、静かだったが、書斎の空気を凍らせるには十分だった。
父の手が、ぴたりと止まった。
「……今、なんと言った」
地を這うような低い声で、父が問い返す。
「ですから、申し上げました。あの婚約は、なかったことに」
パァン!
乾いた音が響いた。父に、頬を打たれたのだ。
じわり、と熱を持つ頬に手を当てることもせず、エレーナは父を睨み返した。
(ああ、そう。これが、あなたの答えなのね)
「気でも、狂ったか!」
父の怒号が響く。
「どれほどの政略的成果か、わかっているのか! この婚約のために、私がどれほどの苦労を……! それを、お前のような小娘の気まぐれで!」
「気まぐれではございません」
エレーナは、平手打ちの痛みに耐えながら、冷静に言葉を返した。
「もし、そのアルジェント様が、私を殺そうとしていたら。それでも、お父様は私に嫁げと?」
「……何を、馬鹿馬鹿しい!」
父は、鼻で笑った。
「殺す? あの公爵子息が? なぜお前のような娘を。被害妄想も大概にしろ」
(被害妄想。この人も、マリーと同じか)
「いいか、エレーナ。お前は、フェルト家の道具だ。家の利益のために、美しく着飾り、黙って公爵家に嫁げばいい。それ以外の役割など、お前にはない」
「……」
「これ以上、その狂気を振りまくつもりなら、修道院に幽閉する」
(……これが、私の父。娘の命の訴えを「狂気」と断じ、家の「恥」として隠蔽しようとする。道具。そう、私は道具)
エレーナの心から、父という存在が完全に消え去った。
「……よく、わかりましたわ、お父様」
エレーナは、深く、美しいカーテシーをした。
「私の狂気が、これ以上お父様のご迷惑にならないよう、精々気をつけますわ」
「……わかれば、いい。さっさと下がれ」
父は、もう興味を失ったとばかりに、再び書類へと視線を落とした。
エレーナは、静かに書斎を後にした。
頬の痛みだけが、今起きたことが現実であると告げていた。
(ありがとう、お父様。あなたの望み通り、私は道具として、完璧に役割を果たしてさしあげますわ)
残るは、一人。
南の領地で「病気療養中」の、母。
(母様だけは、違うはず。母様だけは、私の味方)
そう信じたい心が、エレーナの中にかろうじて残っていた。
(でも、本当に?)
父の書斎から出たエレーナは、そのまま屋敷の反対側、母が王都に滞在する際に使っていた私室へと向かった。
そこは、母が南に行ってから、ずっと閉鎖されているはずだった。
だが、扉には鍵がかかっておらず、中からは微かに人の気配がした。
(……誰か、いる?)
エレーナは、息を殺して扉の隙間から中を覗った。
そこにいたのは、父の書斎に控えていた、若い男の従者だった。
彼は、部屋の中を物色しているようだった。
(何? 泥棒?)
だが、男の動きは、何かを探しているようだった。彼は、母の化粧台の引き出しの奥から、何かを取り出した。
それは、手紙の束だった。
エレーナは、直感的に動いた。
「そこで何をしているの!」
毅然とした声を上げ、部屋に飛び込む。
従者の男は、令嬢の突然の登場に驚き、手にした手紙を落とした。
散らばった手紙。
その一枚に、エレーナの目は釘付けになった。
それは、母の筆跡だった。
だが、宛名は、父ではない。
そして、その内容は……。
『愛しいあなたへ。あんな退屈な夫と、人形のような娘の世話はもうこりごり。
あなたの元へ行きたいけれど、もう少しだけ我慢して。
娘が高位貴族に嫁げば、私があの家から引き出せる金額も跳ね上がるわ。
そうしたら、二人でどこまでも遠くへ……』
(……あ…………ああ……そうだったんだ。病弱な母? 優しい母?
あの人は、ずっと私を……父を……騙していた。静養と称して、南の領地で、愛人と……)
従者の男が、狼狽しながら弁明の言葉を口にしている。
「こ、これは、その……伯爵様からのご命令で、奥様の不貞の証拠を……!」
(お父様も、気づいていたのね。気づいていて、私に隠していた。
そして、母の不貞を黙認する代わりに、私を公爵家への「道具」として差し出すことで、家の体面を保とうと……
なんて、おぞましい。
なんて、滑稽。
これが、私の家族)
エレーナは、床に散らばった手紙を、ただ、無感動に見つめていた。
(ありがとう、お母様。あなたのその生き方、見習わせていただくわ)
エレーナは、ふらふらと自室に戻った。
誰にも気づかれなかった。
扉に鍵をかけ、その場に崩れ落ちる。
もう、何も感じなかった。
婚約者、幼馴染、親友、侍女、父、母。
彼女の世界を構成していた人たち。
そのすべてが、偽りだった。
そのすべてが、彼女を裏切り、利用し、道具としてしか見ていなかった。
(……私って、なんだったのかしら。
私が、生きていた意味って、何?
私が、必死に守ろうとしたものって、何?)
涙は、一滴も出なかった。
ただ、乾いた、乾いた笑いが、喉の奥から込み上げてくる。
「く……くく……あは……あはは……あはははははは!」
狂ったような笑い声が、鍵のかかった令嬢の部屋に響き渡る。
度重なる死と裏切り。
それらは、エレーナ・フェルトという一人の気弱な令嬢の精神を、完全に破壊し、そして、新しく造り替えた。
「はははははははははははははは! はぁ………………もう、いいわ」
エレーナは、立ち上がった。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、涙で濡れた瞳ではなく、血が通っていないのではないかと思うほど青白い肌に、狂気的なほど爛々と輝く瞳を持つ、美しい化け物だった。
(……みんな、みんな、私から奪っていった。
だったら、今度は、私の番。
私を裏切ったすべての人に、あなたたちが私に与えた絶望を返してあげる。
幸い、私には時間がある。この「三日間」という、無限の時間が)
エレーナは、鏡の中の自分に、この世のものとは思えないほど妖艶な笑みを浮かべた。
「もう、誰も信じない。もう、誰にも頼らない。もう、誰にも……私の運命を好きにはさせない」
エレーナは、懐からマリーとアルジェントの通信を示す手紙を取り出した。
そして、それを暖炉の火にくべた。
(証拠など、もう必要ない。私が、知っている。私が、裁く。それだけで十分)
彼女は、侍女を呼ぶためのベルを、ゆっくりと、しかし力強く鳴らした。
「マリー。お茶が飲みたいわ」
すぐに、マリーが駆け込んでくるだろう。
「いつものお茶を、お願いね」と言えば、あの女は、私が正気に戻ったと安堵し、喜んでお茶を淹れてくるはずだ。
(あなたが淹れるお茶。それが、あなたの最後の仕事よ)
エレーナは、父の書斎から戻る際に、こっそりと持ち出していた古いインク壺を、ドレスの袖に隠した。
そのインクは、特殊な植物から抽出されたもので、少量でも摂取すれば、激しい腹痛と麻痺を引き起こすと言われている。
(死にはしないわ。まだ、殺してあげない。ただ、あなたが私に与えた苦しみを、少しだけ、味わってもらうだけ)
「さあ、始めましょうか」
エレーナの冷たい瞳が、未来の血の海を、確かに見据えていた。
*
静寂が支配する令嬢の私室に、甲高いベルの音が響き渡った。
エレーナ・フェルトは、その音が止むのを待たず、冷たく磨かれた銀のベルをもう一度、強く打ち鳴らした。その澄んだ音色は、まるでこれから始まる惨劇の開演を告げる鐘の音のようだった。
(さあ、おいでなさい。私の一番近くて、一番愚かな裏切り者)
彼女の思考は、氷河の下を流れる水のように冷徹で、淀みない。
懐に忍ばせたインク壺の、ずしりとした重みが心地よかった。
果たして、扉の外から慌ただしい足音が近づいてくる。
「お嬢様! ただいま参ります!」
扉が開き、侍女のマリーが息を切らして飛び込んできた。その顔には、先ほどまでの主人の異様な様子とは打って変わって、ベルを鳴らして侍女を呼ぶという「いつも通り」の行動を取ったことへの、隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。
(そう。その顔よ、マリー。私があなたの知っている、か弱くて何もできないお嬢様に戻ったと、そう思ったのでしょう)
エレーナは、鏡台の前に座ったまま、ゆっくりとマリーを振り返った。彼女は、先ほどまでの狂気的な輝きを瞳の奥深くに沈め、完璧なまでに「いつもの」怯えたような、か細い令嬢の仮面を被っていた。
「マリー……」
「はい、お嬢様。いかがなさいましたか」
「さっきは、どうかしていたみたい。お父様にも、ひどいことを言ってしまった……」
エレーナは、今にも泣き出しそうな声色を作り、袖で目元を隠す仕草をした。
マリーの表情が、目に見えて和らぐ。
(愚かね。あなたは、私が本当に泣いているとでも思ったの?)
「まあ……お可哀想に。お嬢様は、お疲れでいらっしゃったのですよ」
マリーは、エレーナの背後にそっと回り込み、その肩に優しく手を置いた。
(……その手。その手で、私を気遣うふりをしながら、私を監視していたのね。
アルジェント様のために。あなたの妹の、くだらない縁談のために)
エレーナは、背中に置かれた手の温もりに対して、沸き上がる殺意を完璧な無表情で押し殺した。
「……ありがとう、マリー。あなたがいると、安心するわ」
「もったいないお言葉でございます」
マリーは心底嬉しそうに微笑んだ。主人が正気に戻ったことを、すぐにでもアルジェントに報告したいと、その目が雄弁に語っていた。
「ねえ、マリー。いつものお茶を、淹れてくださらない?」
エレーナは、マリーの手をそっと握り、弱々しく見上げた。
「あなたの淹れるハーブティーが飲みたいわ。なんだか、とても喉が渇いて……」
「はい! かしこまりました! すぐにご用意いたしますね!」
マリーは、これ以上ないほど甲斐甲斐しい返事をすると、足取りも軽く部屋の隅にあるティーセットへと向かった。
エレーナは、鏡に映るマリーの背中を、冷え切った瞳で見つめていた。
(ええ、急ぎなさい。それが、あなたの最後の仕事よ)
マリーは、手際よく銀のポットに湯を注ぎ、数種類のハーブをブレンドしていく。それは、エレーナの神経を落ち着かせるとされる、いつもの調合だった。
「お嬢様、もうすぐ……」
「あ!」
マリーがカップに茶を注ごうとした瞬間、エレーナが甲高い声を上げた。
「な、なんでございましょう!?」
マリーは驚いてポットを取り落としそうになる。
「ごめんなさい。鏡台の上の、あの青いリボンを取ってもらえる? なんだか、髪が邪魔になってきたわ」
エレーナは、鏡台から数歩離れた棚の上にある、小さなリボンを指差した。
「もう、お嬢様。お驚かせにならないでくださいませ」
マリーは、安堵のため息をつき、ポットをテーブルに置くと、エレーナに背を向けた。
「こちらでよろしいですか?」
「ええ、それよ」
マリーがリボンを手に取り、振り返るまでの、わずか数秒。
エレーナは、音もなく立ち上がり、ティーカップの横に置かれていたマリー自身のカップ――侍女が毒見、あるいは主人が飲んだ後に残りを頂くためのもの――を手に取った。
そして、袖に隠していたインク壺の蓋を開け、その黒く粘り気のある液体を、マリーのカップに数滴、注ぎ込んだ。
毒は、ハーブティーの香りにかき消され、深い琥珀色の中に完全に溶け込んだ。
エレーナが元の席に戻ったのは、マリーが「どうぞ」とリボンを差し出すのと、ほぼ同時だった。
「ありがとう、マリー」
エレーナはリボンを受け取ると、自分のカップには目もくれず、マリーのカップが置かれたテーブルを指差した。
「ねえ、マリー。お願いがあるのだけど」
「なんでございましょう」
「さっき、お父様に酷いことを言ってしまったからか、まだ少し動悸がするの。それに、なんだか味がしないような気さえするわ」
エレーナは、不安げに眉を寄せた。
「万が一、お茶の味が変だったりしたら、お父様がまた私を責めるかもしれない……だから、お願い。あなたが先に、味見をしてくださらない?」
それは、貴族の令嬢が侍女に頼むには、あまりにも奇妙な要求だった。
だが、マリーは、それを主人の神経過敏な症状の一つとしか受け取らなかった。むしろ、令嬢が父親の叱責をそれほどまでに恐れていることを、好都合とさえ思ったかもしれない。
「かしこまりました。お嬢様がそう仰るなら」
マリーは、何の疑いもなく、自分が飲むはずだったカップを手に取った。
「……少し、熱いかもしれませんね」
彼女はそう言うと、カップにふっと息をかけ、その縁に唇をつけた。
ごくり、と喉が鳴る。
エレーナは、その瞬間を、瞬きもせずに見つめていた。
「……いかが?」
「はい。いつも通り、美味しいハーブティーで……」
マリーがそう言いかけた、その時だった。
「……え?」
マリーの顔から、血の気が引いた。
彼女は、カップを持ったまま、その場に凍りついた。
「かっ……」
喉をかきむしろうとするが、その手は自分の意志に反して、わなわなと痙攣を始める。
「あ……がっ……!」
声にならないうめき声が、喉の奥から漏れ出した。
カップが、ガシャン! と音を立てて床に落ち、砕け散る。
マリーは、床に倒れ伏し、まるで陸に打ち上げられた魚のように激しく体を反らした。
(そう。それが、あなたの罪の味よ。もっと苦しみ、もっともがき、そして、絶望なさい)
エレーナは、ゆっくりと椅子から立ち上がると、床でのたうつ侍女の姿を、無感動に見下ろした。
「マリー」
冷たい声が、苦痛に喘ぐマリーの耳に届いた。
マリーは、信じられないという顔で、エレーナを見上げた。そこには、先ほどまでの弱々しい令嬢の姿はなく、氷の仮面を被った主人が、自分をゴミでも見るかのように見下ろしていた。
「ひ……ぅ……」
エレーナは、マリーの前にしゃがみ込むと、その痙攣する頬に、そっと触れた。
「可哀想に。そんなに苦しいの?」
その声は、甘く、慈愛に満ちているかのようにさえ聞こえた。
「でも、安心して。死にはしないわ。その毒はね、命は奪わないの」
「……」
「ただ、あなたの体を、内側からゆっくりと麻痺させていくだけ。痛みは、すぐに消えるわ。そして、あなたは二度と、話すことも、指一本動かすこともできなくなる」
マリーの目が、絶望に見開かれた。
(そう。やっと、理解できたようね)
「なぜ、という顔ね? 決まっているじゃない。あなたが、私を裏切ったからよ」
エレーナは、マリーの耳元で、悪魔のように囁いた。
「アルジェント様に、私のことを逐一報告していたのでしょう? 私がテラスに行く時間も、私の体調も、全部。……あなたの可愛い妹の、縁談のために」
「!!!」
マリーの体が、最後の抵抗のように激しく跳ねた。
「私が、何も知らないとでも思っていたの? 残念だったわね、マリー。あなたは、アルジェント様にもう何も報告できない。そして、あなたの妹も、望みの縁談は手に入らないわ」
エレーナは、マリーの顔を覗き込み、この世のものとは思えないほど美しい笑みを浮かべた。
「あなたは、生きるのよ。この屋敷で。私への裏切りの対価がどれほど高くつくか、その動かない体で、永遠に考え続けるといいわ」
「あ……あ……」
マリーの目から、恐怖と絶望の涙が溢れ出した。だが、もう遅い。
麻痺は全身に回り、彼女の意識は、動かない体という牢獄の中に、完全に閉じ込められた。
(さようなら、マリー)
エレーナは、すっと立ち上がると、砕け散ったカップの破片を、ドレスの裾でわざと踏みつけた。
そして、部屋の扉に向かって、声の限りに叫んだ。
「きゃあああああああっ!」
かつての、気弱な令嬢そのものの、完璧な悲鳴だった。
「誰か! 誰か来て! マリーが! マリーが倒れて……!」
わざとドアに体当たりするようにして廊下に転がり出る。
その完璧な演技に、屋敷中の使用人たちが、慌てふためいて駆けつけてきた。
混沌が、フェルト伯爵邸を支配した。
侍女頭のマリーが、令嬢の目の前で原因不明の病に倒れた。
医師が呼ばれ、あらゆる診察が行われたが、首を捻るばかりだった。
「……何かの、発作としか。命に別状はございませんが、全身の麻痺と失語の症状が……回復は、絶望的かと」
その診断結果を聞いたエレーナは、父の胸で「私のせいだわ。私がお茶を頼んだから……!」と、見事なまでに泣き崩れてみせた。
父は、そんな娘を「お前のせいではない。不運な事故だ」と慰めながらも、その目は、侍女頭を失ったことへの苛立ちと、間近に迫った夜会への影響を計算する色を隠していなかった。
(そう。誰も、マリーのことなど、本気で心配していない。この屋敷では、誰もが自分のことしか考えていないのだから)
マリーは、使用人用の病室へと運ばれていった。
エレーナは、第一の復讐を、完璧に遂げた。
マリーの騒動で、屋敷が混乱している隙を、エレーナは見逃さなかった。
(次は、あの女の番ね)
彼女は「マリーが心配だから」と、自室に食事を運ばせ、誰とも顔を合わせずに時を稼いだ。
そして、父が最も多忙になる夕刻、マリーの代わりの手配や、夜会への影響を各所と調整しているであろう時間を見計らい、再び父の書斎へと向かった。
今度は、ノックをした。
「……入れ」
不機嫌極まりない父の声が響く。
エレーナが、青白い顔で入室すると、父は露骨に顔を歪めた。
「またお前か。何の用だ。マリーのことは事故だと言っただろう。お前が気にする必要は……」
「お父様。取り引きを、しに参りました」
「……取り引き、だと?」
エレーナの言葉は、あまりにも場違いで、父の眉間の皺がさらに深くなった。
エレーナは、無言で、懐から数通の手紙を取り出した。
それは、昼間に母の部屋で、あの従者が落としていったものだった。
母の筆跡で、見知らぬ男への情熱的な言葉と、父と自分を嘲笑う内容が綴られた、不貞の証拠。
それを、机の上に、静かに置いた。
「……っ!」
父の顔色が変わった。驚愕と、屈辱と、そして娘にこれを知られたことへの激しい怒りが、その表情を歪ませた。
「貴様、これをどこで……!」
「お父様も、ご存知だったのでしょう?」
エレーナは、父の激高を、冷たい瞳で受け流した。
「お母様が、南の領地で、愛人と暮らしていることを。そして、私を公爵家に売ることで、その醜聞に蓋をしようとなさっていたことも」
「……黙れ!」
父が、再び手を上げた。
だが、エレーナは、その手が振り下ろされる前に、一歩も引かずに言い放った。
「どうぞお打ちなさい。ですが、その手が私に触れた瞬間、この手紙の写しが、ルエリス公爵家と、リーリオン侯爵家、そして王都の新聞社に同時に届けられる手はずになっておりますわ」
「なっ……!?」
父の手が、中空でぴたりと止まった。
(もちろん、嘘よ。そんな手はず、あるわけがない。でも、今のあなたには、それが真実か嘘か、見抜く余裕などないはず)
父は、わなわなと震え、娘を睨みつけた。
そこには、もう道具ではなく、自分を脅かす敵を見る目があった。
「……何を、望む」
絞り出すような声だった。
「取り引き、と申し上げました」
エレーナは、この日初めて、心の底からの笑みを浮かべた。それは、父を絶望させる、美しい笑みだった。
「私は、お父様の道具として、役割を果たしますわ。アルジェント様との婚約も、夜会も、すべて、お父様の望む通りに」
「……」
「その代わり」
エレーナの目が、鋭く光る。
「あの女を、今すぐに、お召し返しください」
「なに?」
「南の領地から、今すぐに、です。ですが、フェルト伯爵夫人としてではありません。罪人として、ですわ」
「……どういう、ことだ」
「王都の屋敷には戻さず、このまま北の、一番寒い、あの古い塔に幽閉なさい。すべての金品を取り上げ、愛人との連絡も一切断たせるのです」
「……正気か。夜会を前に、妻を幽閉などと……」
「正気ですわ、お父様」
エレーナは、父の言葉を遮った。
「『病弱な妻が、南の領地から、わざわざ娘の晴れの姿を見るために無理をして戻られた。しかし、長旅がたたり、北の塔で絶対安静を余儀なくされている』。……筋書きは、いくらでも作れますわ」
(そう。あなたたちが、私に「狂気」の筋書きを用意したように)
「それこそがお父様が望む、家の体面を守る、唯一の方法かと存じますが?」
エレーナは、父を追い詰める。
「このまま、あの女を野放しになされば、いつ、その愛人と駆け落ちし、フェルト家のすべてを醜聞の泥に沈めるか、わかりませんわよ? 私の婚約が、すべて台無しになるかもしれません」
「……ぐっ……」
父は、言葉に詰まった。
娘の言う通りだった。妻の不貞は、いつ爆発するとも知れない爆弾だ。それを知っていながら、彼は家の利益のために、見て見ぬふりを続けてきた。
だが、その爆弾の起爆装置を、今、目の前の娘が握っている。
「……わかった」
長い沈黙の末、父は、敗北を認めた。
「すぐに、手を打とう。北の塔を、準備させる」
「賢明なご判断ですわ、お父様」
エレーナは、優雅にカーテシーをした。
「ああ、それと」
彼女は、部屋を出る直前、思い出したかのように付け加えた。
「あの女の愛人……確か、南の領地の管理を任されていた、下級貴族でしたわね。彼にも、相応の罰をお与えください。お父様の、その手で」
父は、何も答えなかった。ただ、歪んだ顔で、自分の机を睨みつけていた。
エレーナは、満足げに書斎を後にした。
(さようなら、お母様。あなたの望んだ自由も富も、もう二度とあなたの手には入らないわ。凍える塔の中で、私を裏切ったことを、永遠に後悔なさい)
(これで、二人目)
夜が、来た。
花の月、二十日。一度目のループでは、この日の夜、彼女は死んだ。
だが、今の彼女は、自室で静かにペンを走らせていた。
(マリーは消えた。お母様も、もう終わり。
残るは、三人。バスティアン、ソフィア、そして、アルジェント)
彼女は、二通の手紙を書いていた。
一通は、わざと粗野な、しかし切迫感のある男のような筆跡で。
『リンドハイム子爵様へ』
(バスティアン。あなたは、私を利用しようとしたわね。
私がアルジェント様に狙われていると知り、私を横取りして、両家を天秤にかけようとした。
あなたのその浅ましい欲望、利用させてもらうわ)
手紙には、こう記した。
『アルジェント・ルエリスは、夜会でエレーナ・フェルトを殺す気だ。
だが、その前に、令嬢は屋敷から逃げ出す計画を立てている。
明晩、二十一日、夜半。西の通用口から、侍女の服で脱出する。
この獲物を「保護」すれば、公爵家に対し、どれほどの切り札になるか、お分かりだろう』
(あなたは、この情報に飛びつくわ。三度目のループの時、あなたは私を保護すると言って、あの貧民街の廃墟へ連れて行った。
明日の夜。あなたは、あの廃墟で、私ではない、別の獲物を待つことになるのよ)
エレーナは、その手紙を封筒に入れ、誰にも見られずに屋敷を抜け出すと、街角の浮浪児に銀貨数枚を握らせ、騎士団の詰め所へ届けるよう命じた。
(これで、バスティアンは明日の夜、動けない)
自室に戻ったエレーナは、二通目の手紙に取り掛かった。
今度は、かつての自分を完璧に模倣した、震えるような、弱々しい筆跡で。
『愛するソフィアへ』
(ソフィア。あなたは、私を「愛している」と言ったわね。私を、あなたの籠の中に、永遠に閉じ込めたかった。あなたのその歪んだ執着、利用させてもらうわ)
手紙には、こう記した。
『助けて、ソフィア。私、もう誰も信じられないの。アルジェント様も、バスティアン様も、みんな嘘つきよ。
私、殺されるかもしれない。怖い。明後日、二十二日の夜会が始まる直前、あの古い教会跡で待っていて。
あなただけが、私の最後の希望なの。お願い、誰にも言わないで』
(あなたは、この手紙を見て、歓喜するでしょうね)
(私が、男たちに絶望し、あなたの元へ転がり込んできたと)
(あなたは、三度目のループの時のように、私を「守る」ためと称して、あの別邸へ連れて行くつもりでしょう。私に、あの魂を縛る毒を飲ませるために)
(ええ、喜んで、あなたの元へ行ってあげるわ。二十二日の夜にね)
エレーナは、その手紙を、リーリオン侯爵家御用達の商人に、「極秘の届け物」として託した。
(バスティアンは、二十一日の夜、偽の私を待つ)
(ソフィアは、二十二日の夜、偽の絶望を抱いた私を待つ)
(そして、アルジェント。あなたは夜会で、私を殺す)
エレーナは、父の書斎から持ち出した、最後の一品を手に取った。
それは、精巧な装飾が施された、ペーパーナイフだった。
だが、その実態は、ナイフと呼ぶにふさわしい、鋭利な両刃を持つ鋼の短剣。
(アルジェント様。あなたが私を殺す理由は、もうどうでもいい。
(あなたが私に与えたのは、死。だから、私もあなたに、死をお返しするわ)
エレーナは、その冷たい鋼の感触を、確かめるように強く握りしめた。
(一度目の夜会で、私を刺したのは、あなたね。
マリーからの情報で、私がテラスに行くのを知っていた。
あなたは、私に「知りすぎる可能性」が生まれたと言ったわね。ええ、そうよ。
私は、知りすぎた。あなたたちの、醜い本性を、すべて)
花の月、二十日、深夜。
復讐の第一日目は、完璧に終わった。
マリーは、生き地獄へ。
母は、監獄へ。
バスティアンとソフィアは、破滅への罠を用意した。
エレーナは、短剣を胸に抱き、静かに目を閉じた。
(明日が、楽しみだわ)
彼女の唇には、血のように赤い、残酷な笑みが浮かんでいた。
*
花の月 二十日が終わろうとしていた。
侍女頭マリーが原因不明の病で倒れ、令嬢エレーナが心労で自室に篭ったフェルト伯爵邸は、不気味なほどの静けさに包まれていた。
だが、その静寂の水面下で、エレーナ・フェルトの張り巡らせた復讐の糸は、確実に獲物へと手繰り寄せられつつあった。
そして花の月 二十一日。
夜の闇が王都を包み、貧民街の荒廃した空気が、月の光さえも濁らせていた。
その一角、今にも崩れそうな廃墟の中で、バスティアン・フォン・リンドハイム子爵は苛立たしげに腕を組んでいた。
(遅い。あの密告者は、確かに今夜、西の通用口から侍女の格好でエレーナが逃げ出すと書いた。
アルジェントに殺される前に、あの女を「保護」する。フェルト伯爵家とルエリス公爵家、両家を天秤にかける絶好の機会だ)
卑しい欲望が、彼の目を曇らせていた。
その時、廃墟の入り口に、人影がよろめくように現れた。
フードを深く被った、小柄な侍女の姿。
(来たか!)
バスティアンの口元が、下卑た笑みに歪む。
「エレーナ嬢か。俺だ、バスティアンだ。助けに来たぞ」
彼は、獲物を安心させるかのように、わざと穏やかな声を装って近づいた。
侍女は、おびえたように身をすくませ、か細い声で何かを呟いた。
「なんだ? 声が小さいぞ」
バスティアンが、その顔を覗き込もうとフードに手をかけた、その瞬間だった。
カチリ、と冷たい金属音が響く。
「……!?」
バスティアンが振り返ると、廃墟のすべての出入り口が、王都騎士団の制服を着た男たちによって塞がれていた。彼らの手にした剣が、月明かりを冷たく反射している。
「なっ……何の真似だ!」
「バスティアン・フォン・リンドハイム子爵! 貴殿を、貴族令嬢誘拐未遂、及び国家反逆の嫌疑で拘束する!」
騎士の一人が、厳かに告げた。
「ば、馬鹿な! 誘拐だと? 俺は彼女を保護しようと……!」
「言い訳は法廷で聞こう。連れて行け!」
バスティアンが必死に弁明しようとしたその時、彼がエレーナだと思っていた侍女が、ゆっくりとフードを脱いだ。
そこにいたのは、エレーナではない。見知らぬ、やつれた顔の女だった。
「……お前は、誰だ!」
「……」
女は何も答えず、ただバスティアンを無感情な目で見つめていた。彼女は、かつてフェルト家で働いていたが、マリーによって追い出された元侍女だった。
エレーナが銀貨数枚で「騎士団が来たら、これを渡してほしい」と頼んだだけの、ただの駒だった。
女が、懐から一通の封書を騎士団長に差し出す。
「こ、これは……アルジェント・ルエリス公爵からの密書だと!?」
騎士団長が、その中身を見て顔色を変えた。
『リンドハイム子爵、公爵家への反逆を企てる』
バスティアンは、すべてを理解した。
(嵌められた! あの女に!)
エレーナは、バスティアンが自分を利用しようとすることを知っていた。だから、彼に偽の獲物を与えた。
そして同時に、騎士団には「リンドハイム子爵が令嬢を誘拐しようとしている」と匿名で通報し、アルジェント公爵家には「バスティアンがあなたの婚約者を利用して反逆を企てている」と、彼の野心を煽る密書を送っていたのだ。
(あの女……俺の欲望を、逆手に取ったのか!)
「違う! 違うんだ! 俺は、あの女に……エレーナに嵌められたんだ!」
バスティアンの絶叫は、誰にも届かない。
彼は、幼馴染の兄を演じた男の末路として、あまりにも惨めに引きずられていった。
その様子を、遠く離れた馬車の中から、エレーナが冷たい瞳で見届けていた。
(さようなら、バスティアン様。あなたは私を道具にしようとした。だから、あなたも道具として、アルジェント様への贈り物になっていただいたわ)
彼女の唇に、笑みはなかった。
*
翌日。花の月 二十二日。
夜会の喧騒が始まる、数時間前。王都のはずれにある古い教会跡は、夕暮れの茜色に染まり、まるで血の海に沈んでいるかのようだった。
ソフィア・ド・リーリオン侯爵令嬢は、その場所で、苛立ちと期待が入り混じった表情でエレーナを待っていた。
(遅いわ、エレーナ。本当に来るのかしら)
昨夜届いた、震える文字で書かれた親友からの手紙。
『助けて、ソフィア。あなただけが頼りなの』
(そうよ。あなたは、私だけを頼ればよかったのよ)
ようやく自分の元へ帰ってくる。ソフィアの心は、歪んだ歓喜に打ち震えていた。
「ソフィア!」
その時、待ち望んだ声が響いた。
木々の間から、エレーナが、ボロボロの姿で駆け寄ってくる。その顔は青白く、瞳は恐怖に濡れていた。完璧なまでの、庇護欲を掻き立てる姿だった。
「エレーナ! 大丈夫!?」
ソフィアは駆け寄り、そのか細い体を強く抱きしめた。
(ああ、私のエレーナ。こんなに怯えて……)
「怖かった……私、もうダメかと……!」
「もう大丈夫よ。私が守るわ。さあ、こっちへ」
ソフィアは、三度目のループの時と同じように、エレーナを人目につかない馬車へと導いた。
「どこへ行くの?」
「私たちの、安全な場所よ」
行き先は、あの森の中の別邸だった。
ソフィアの私室よりも質素だが、逃げ場のない、完璧な監獄。
エレーナは、まるで初めて来たかのように、不安げに部屋の中を見回した。
「ソフィア……本当に、ここなら安全?」
「ええ、もちろんよ」
ソフィアは、エレーナをベッドに座らせると、あの時と同じように、温かいスープが注がれた盆を持ってきた。
「疲れたでしょう。これを飲んで、少し休んで。よく眠れるように、特別なお薬も入れておいたから」
ソフィアは、隠すこともせず、くすりと笑った。
(来たわ。四度目の、あの絶望)
エレーナは、震える手でスープの皿を受け取った。
その瞳が、怯えから、ゆっくりと冷たい無感動な色へと変わっていく。
「……ソフィア」
「なあに? エレーナ」
「あなたは、私と『ずっと一緒』になりたいのよね?」
「ええ、そうよ」
ソフィアは、恍惚とした表情でエレーナを見つめた。
「だったら」
エレーナは、スープの皿をテーブルに置くと、ドレスの袖から、ソフィアが持ってきたものとまったく同じ、黒い小瓶を取り出した。
(あなたが私に飲ませようとした毒。あなたの部屋から、失敬しておいたわ)
「なっ……あなた、それをどこで……!?」
ソフィアの顔から、笑みが消えた。
「あなたも、これを飲んでちょうだい」
エレーナは、小瓶をソフィアの目の前に突きつけた。
「私だけが眠って、私だけがあなたの夢を見るなんて、不公平だわ。あなたが本当に私を愛しているなら、私と同じものを飲んで、一緒に永遠の夢を見ましょうよ」
その言葉は、甘く、誘うようでありながら、絶対的な狂気を孕んでいた。
「……何を、言っているの? エレーナ……?」
ソフィアが、じり、と後ずさる。
目の前のエレーナは、もはや彼女の知っている、気弱で可愛い人形ではなかった。
「飲めないの? 私を、愛しているのでしょう?」
エレーナは、ゆっくりと立ち上がり、ソフィアを壁際へと追い詰めた。
「いやっ……! あなた、どうかしているわ! 私のエレーナは、そんな……!」
「あなたのエレーナは、もう死んだのよ。あなたたち、みんなが殺したの」
エレーナは、ソフィアの顎を掴み、無理やりその口を開かせようとした。
「やめて! 離して!」
ソフィアは必死に抵抗し、エレーナの手を振り払う。小瓶が床に落ち、おぞましい液体が染みを作った。
「ああ、こぼしてしまったわ」
エレーナは、心底残念そうに呟いた。
「……仕方ないわね。あなたが、私の愛を拒むのなら」
エレーナの目が、すっと細められる。
「あなたは、私を裏切った。私を、あなただけの玩具にしようとした」
「ち、違う! 私は、あなたを守ろうと……!」
「黙りなさい」
氷のような声が、ソフィアの弁明を切り裂いた。
「あなたが望んだのは永遠だったわね。ええ、叶えてあげるわ」
エレーナは、ソフィアが落とした小瓶ではなく、最初からテーブルに置かれていた、もう一つのスープ皿を手に取った。
そして、その中に、懐から取り出した別の小瓶の中身を、静かに注ぎ込んだ。
「さあ、飲んで、ソフィア。これは、あなたが私に飲ませようとした『眠り薬』よりも、ずっと早く、あなたを永遠にしてくれるわ」
「いや……いやぁああああっ!」
ソフィアは、この世の終わりかのように絶叫し、扉に向かって走った。
だが、扉には、外から鍵がかけられていた。ソフィア自身が、エレーナを閉じ込めるために。
絶望が、ソフィアの顔を覆う。
「飲んで」
エレーナは、スープ皿を差し出し、悪魔のように微笑んだ。
「飲まなければ……この別邸ごと、燃やしてさしあげるわ。あなたは、炎の中で永遠になるのと、どちらがお好み?」
ソフィアは、わなわなと震え、崩れ落ちた。
彼女は、自らの狂気が生み出した、完璧な絶望の前に、膝を屈した。
震える手で、スープ皿を受け取る。
(さようなら、ソフィア。あなたは、私の友情を踏みにじった。だから、あなたの望んだ永遠の中で、私への歪んだ愛を、後悔し続けなさい)
エレーナは、ソフィアが毒をあおる姿を、瞬き一つせず見届けると、静かに部屋の鍵を内側から開け、別邸を後にした。
((さあ、夜会が始まるわ))
*
花の月 二十二日、夜。
ルエリス公爵邸は、王国のすべての上流貴族が集まったかのような、眩い光と喧騒に満ちていた。
その渦中に、エレーナ・フェルトは、まるで死の世界から舞い戻った幽霊のように、音もなく足を踏み入れた。
彼女のドレスは、白。何の色も帯びていない、純粋な白だった。だが、その青白い肌と、異様なまでに輝く瞳が、彼女の姿を、まるで生贄の羊のように際立たせていた。
父であるフェルト伯爵は、娘の隣で、生きた心地がしないという顔で冷や汗を流していた。
(妻は北の塔に幽閉。リンドハイム子爵は反逆罪で拘束。すべてが、この娘の筋書き通りだ。恐ろしい。この女は、本当に俺の娘なのか)
「フェルト伯爵、そしてエレーナ嬢。よく来てくれたね」
その時、すべての光を背負ったかのように、アルジェント・ルエリス公爵子息が、完璧な笑みを浮かべて現れた。
「アルジェント様……!」
父は、救いを求めるように、その声に媚びた。
だが、エレーナは、ただ黙ってアルジェントを見つめていた。
(やっと会えたわね。私の、最初の、そして最後の裏切り者)
「顔色が優れないようだね、エレーナ。バスティアンの件は、私も残念に思っているよ」
彼の目は、微塵も笑っていなかった。
(そう。あなたが、私にバスティアンを贈り物として差し出させた。あなたは、邪魔な駒を排除できて、満足なのでしょうね)
「……少し、夜風にあたりたいのです。アルジェント様」
エレーナは、か細い、しかしはっきりとした声で言った。
父が、息を飲む音が聞こえた。
アルジェントは、一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの優雅な笑みに戻った。
「……ああ、わかった。テラスへ行こう。二人きりで、話したいこともある」
(ええ。私も、あなたと二人きりで、話したいことがあるわ)
エレーナは、父の腕を離れ、アルジェントが差し出す手を取った。
夜会の喧騒が、嘘のように遠ざかる。
テラスには、冷たい月の光だけが降り注いでいた。一度目の死を迎えた、あの場所。
「さて、エレーナ」
二人きりになると、アルジェントは、その手つきでエレーナの肩を抱いた。
「君は、知りすぎた。あるいは、今後知りすぎる可能性が生まれた」
彼の声には、先ほどの優雅さはなく、冷たい金属のような響きがあった。
(二度目だわ)
アルジェントの手に、鈍い光が宿った。彼が懐から取り出した短剣が、月光を反射する。
それは、一度目にエレーナを刺した、あの短剣だった。
「さようなら、エレーナ。私の完璧な世界の、唯一のシミ」
アルジェントが、その刃を振り下ろす。
だが、その刃がエレーナの胸に届くことはなかった。
ザクリ、と鈍い音が響く。
アルジェントの目が、信じられないというように、見開かれた。
彼の視線の先、自分の胸には、精巧な装飾が施されたペーパーナイフ――父の書斎から持ち出した、鋼の短剣が、深々と突き立っていた。
「……なぜ……」
アルジェントは、血を吐きながら、自分を突き刺したエレーナを見下ろした。
「……なぜですって?」
エレーナは、アルジェントの体を突き放した。
「あなたが、私を殺そうとしたからよ。ただ、それだけ」
彼女は、アルジェントの血で真っ赤に染まった純白のドレスのまま、崩れ落ちる婚約者を見下ろした。
「……私の、計画が……」
アルジェントは、最後まで何かを呟いていたが、その声はテラスの冷たい石畳に吸い込まれ、消えた。
(さようなら、アルジェント様)
*
エレーナは、血塗れのまま、夜会を抜け出した。
公爵子息を殺害した令嬢の、あまりの狂気に、誰も彼女を止めることはできなかった。
フェルト伯爵邸に戻ると、書斎で父が待っていた。
その顔は、絶望と怒りで、歪んでいた。
「……殺したのか」
「ええ。終わりましたわ、お父様」
エレーナは、アルジェントの血が滴る短剣を、机の上に置いた。
「……終わりだ! フェルト家は、終わりだ……! お前のせいで! すべては!」
父が、獣のような声を上げた。
「私を、道具だと仰いましたわね」
エレーナは、静かに言った。
「役目を終えた道具が、主人を処分して、何が悪いのかしら」
「……この、化け物が!」
父は、壁にかかっていた剣を掴み、エレーナに斬りかかった。
(ええ、そうよ。私は、化け物)
エレーナは、避けなかった。
ただ、父が振り下ろした剣を、短剣で受け止める。
火花が散る。
「あなたも、私を裏切った。私を、妻の復讐のための道具にしようとした」
「黙れ! 黙れ!」
「だから、あなたにも、死んでいただくわ。お父様」
エレーナの動きは、もはや人間のものではなかった。
四度の死で研ぎ澄まされた彼女の勘は、父の剣戟を、すべて見切っていた。
そして、一瞬の隙。エレーナの短剣が、父の喉を、正確に貫いた。
「……あ……」
父は、絶望を瞳に映したまま、崩れ落ちた。
(さようなら、お父様)
花の月 二十三日は、血と静寂の一日だった。
エレーナは、動かなくなったマリーが放置された部屋で、北の塔に幽閉された母のことを思い、殺害した父の書斎で、ただ、座っていた。
屋敷の使用人たちは、化け物と化した主人を恐れ、すべて逃げ出していた。
彼女は、一人になった。彼女の周囲から、裏切る者も、愛する者も、すべていなくなった。
そして、花の月 二十四日の朝が来た。
もう、彼女は死に戻らない。
エレーナは、血で乾いて張り付いたドレスのまま、ふらふらと屋敷の庭に出た。
東の空が、白み始めている。
彼女が殺した者たちの血が、朝露に濡れた薔薇の色と、奇妙に溶け合っていた。
朝陽が、昇る。
あまりにも美しい光が、血塗れの彼女の顔を照らした。
エレーナは、自分の真っ赤に染まった両手を見つめた。
そして、
「……あは」
乾いた笑いが漏れた。
「あはは……あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
狂ったような哄笑が、静まり返った屋敷に響き渡る。
彼女は、血塗れの顔で、昇る朝陽に向かって叫んだ。
「やった、やったわ! 誰かに頼ろうとするのが間違いだったのよ! 私は自分の手で未来を掴み取ったわ!」
こうして、エレーナ・フェルトは、花の月 二十四日を迎えた。
両親も、従者も、友人も、婚約者も、もういない。
果たして彼女に、未来は訪れるのだろうか。
笑い続けるエレーナの声は、歓喜に満ちているようで、その瞳は、すべてを失った虚無を映しているようでもあった。
了
異世界ループ八ツ墓村




