おもいだせない
ごつごつしてる、と、彼女は小さく呟いた。
笑っているみたいな、泣いているみたいな声だった。
青白い月の光に照らされた庭はとても静かで、整然と植えられた植物たちの柔らかな花弁が風に揺れて擦れ合う音すらはっきり聞こえた。世界はゆるやかに呼吸していて、その胎内で、ふたりきりでそっと生まれ出るのを待っているような、そんな夜だった。
そんな夜の真ん中で、彼女の指が、彼の指に触れていた。
こわごわと、存在を確かめるように、その華奢な指が彼の小指から順番になぞっていく。その触れ方はまるで繊細な細工品を確かめているようで、けれどそんな彼女の手の方が本当はずっと脆く今にも壊れてしまいそうだった。だから彼は動けなかった。彼女の指が彼の輪郭を辿るたび、彼の指先はぴくりと震えた。けれど、それだけだった。息を殺し、瞬きすらせず、彼女が彼の形を確かめるのを見ていた。そうしてこの瞬間に起きている、この世で一番静かな奇跡を、じっとただ見つめていた。
ごつごつしてて、……覚えてるより、ずっと大きい。
彼女の指が、ゆっくりと彼の手を上向きに開かせた。その上に、そっと自分の手を乗せる。彼の手より二回り以上小さな手。その柔らかな掌が自分の掌にしっとりと触れ、彼は、自分の息が止まったのにも気づかなかった。
記憶の中の彼女の掌は燃えるように熱い。そしていつも迷いなく彼の手を引いていた。その揺るぎない力強さは今でもはっきりと思い出せるのに、この瞬間彼の掌に乗る温度、その知らない軽さが、その記憶が遥か遠いものだと彼に教えた。彼の手にすっぽりと収まる手。きっと握りしめたら簡単に閉じ込められる。その新鮮な事実は、けれど確かな悲しみを持って彼の皮膚を貫いた。
もっと、触れておけばよかった。
俯いて、重なる掌を見つめる彼女の唇が、微かな弧を描く。
しかしそこから漏れる声はか弱く、木々のささやきにすらかき消されてしまいそうなほど小さかった。彼女のそんな声を、彼は今まで聞いたことがなかった。耳の奥、音を感じとる器官の一番そこの一番心臓に近い部分に、その声はひっそりとこびりついた。きっとこれから、何度も何度も、この声を繰り返し夢に見る。そのことを、彼は悟った。
もっと、触れて、……手も足も、髪も、顔も、腹も背もなにもかも、……もっと触れて、もう知らないところなんてないくらいに、お前に触れて、お前に触れられておけばよかった。
語尾が揺らぐ。それに気づかないふりをして、彼女が捧げ持つように彼の手を持ち上げる。そして、ひたり、と、滑らかな頬をすり寄せた。
その柔らかさに、全身が震えた。喉が引きつれ、そこから漏れそうになる感情を、歯を食いしばって飲み込んだ。
指先に、暖かな何かが触れる。それは爪を転がり指の背を辿って甲をつたい、ぽとりと二人の足元に落ちていく。次から次から、流れ落ちていくそのしずくに濡らされて、彼の手はつやつやとひかった。
ずいぶんと長く、沈黙だけがその場所を支配して、
……抱きしめていい?
怒られるのを恐る子供のようなひそやかな声だった。彼のその問いかけに、彼女はきゅっと形のいい眉を寄せた。睫毛が震える。吐いた吐息も、もう誤魔化しようがないくらいにはっきりと震えて。
……おまえにしかいやだ。
掻き抱いた。
その小さな、記憶の中よりもずっと細く小さな体を、強く強く抱きしめた。背骨が軋むくらいに。見えない羽が折れるくらいに抱きしめた。
汚れを、負うよ。
その声は、もう、彼にしか聞こえなかった。誰もいない小さな庭で、何もかもが息を潜めていたけれど、それでもきっと、彼にしか聞こえなかった。たぶん、これが、彼女がこんな声で泣く最後だろうと分かった。だから一つの音も、漏れる吐息すら逃さぬように、彼は腕の中に彼女を閉じ込めて、その唇に耳を寄せた。
洗い流せない、咎を背負うよ。
だから、もう、お前には。
お前には、一生、指先すら触れられない。
その頬に、頬を合わせる。ひんやりと冷たい。そこを濡らすのは、もう彼の涙か彼女の涙かわからない。彼女の両手がしがみつくように彼の背中に回った。細い髪が彼の額を柔らかくくすぐる。
もっと、触れておけばよかった。
こんなに、今でもこんなに、足りないのに。
頬が濡れる。嗚咽が漏れる。このままここでふたりきり、誰も知らない母親の胎内で眠ってしまえればどんなにいいだろう。
地面に落ちる雲の影がゆっくりとうつろう。止まっていた風が、何かを促すように、静かに流れる。時間は確かに進んでいる。そのことを、こんなに呪ったことはなかった。
きっと私は、死ぬときに、お前の体温をおもいだせない。
それだけが、とてもかなしい。