第八話 信長の家族 / 築山殿の蝦夷
天正十年、五月二十九日。
織田前右府信長は羽柴筑前守秀吉の援軍要請に従い、中国討伐軍の出陣のため、安土より小姓衆らとともに上洛した。その小姓衆の中には若き俊英、森乱丸長利の姿もあった。
そして京では常宿としていた本能寺へと入り、安土からの旅の疲れを癒している最中、乱丸が1つの書状を持ち前右府の下に姿を現す。
「大殿。神藤右衛門忠政殿より、奇怪な書状が届いたと報告が」
「……藤右衛門が? 何ぞ」
「何でも、出羽の安東氏から預かったとのことで。安東も中身を改め、誠であれば大事と我らの下まで送ったとか」
「結論だけ申せ、たわけ」
「……はっ。安東に従属する蝦夷の蠣崎を通じて、殿への書状です。
差出人は――徳姫、と。確かにそう書かれておりまする」
徳姫、という名を聞いた瞬間、前右府は突如覚醒したかのように乱丸に相対する。そして乱丸も自らの主君の癖や仕草には慣れたもので、当意即妙と言った機で書状を差し出した。
◇ ◇ ◇ ◇
「この地に根付いてもう三年目になるわね。
まあ、ゆるりと評定をやっていきますか。じゃあまず、半左衛門」
「はっ。寒冷ゆえに根付かぬと思っておりました稲作ですが、御前さまたってのご希望により試験的に栽培を試したところ、一応収穫は可能との結論に達しました。
とはいえ、雪が降りだしたら駄目ですね。季節的には相当限られるでしょう」
伊奈半左衛門忠次には稲作を試験的に行わせたが結果は芳しくないか。まあ、後々北海道は米どころになるけれども、やっぱりこの時代では品種の問題か、あるいは気候的に戦国の世が寒冷であったことが影響しているのか分からないがどうやら難しいようである。
「まあ難しいとは思っていたし、試しただけだからそれでいいわ。
じゃあ、次。興津内記……外洋船の整備状況はどうかしら?」
「悪くはありませぬな。蝦夷……いえ、アイヌの者らに銭を払い船大工として雇い続けて来ましたが、新造艦の建造は兎も角として、既存艦の整備ならば十二分に戦力になっております」
我等の生命線となる外洋船の整備がアイヌ民族出身の者でも出来るようになったとは朗報である。興津水軍を頼りにはしているが、彼らだけでは戦や疫病による損耗でジリ貧になってしまいかねない。技術者集団の育成は急務であった。
「良い感じね。それじゃあ、次は信康と徳姫。二人は何か伝えておきたいことはあるかしら?」
「……では拙者から。我が手勢の者は孫十郎に手ほどきさせているが、やはり寒さで鍛錬にも身が入らぬ者が多いと言っておった。
武士であれば、そのような軟弱な考えではいかぬが戦場で寒さを凌ぐ術が正直不足しているやもしれぬ」
「万が一戦ともなれば、相手は寒さに強いから一方的に不利な戦になりかねないわね……。日用品なら交易で手に入る毛皮とかで何とかなるのだけれども。唐辛子でも仕入れてみようかしら……」
流石に元三河武士と言えども、蝦夷の地では堪えるものがあるというわけか。いや、そこを根性で乗り切られたら困惑だが。
「あの、瀬名様! 私は父上に手紙を書いても良いですか!
先日山狩りに同行した際に、火縄で仕留めた熊を自慢したいのです!」
「あー……今から送るとなると、届くのはギリギリかな……?
うん、そうね。あっ! 折角だし私も三河守殿に何か送っておこうかしら。
孫六くんの交渉次第だけれども、徳姫は手紙を書いておいて頂戴」
そう告げると、嬉しそうに頷きそのまま評定の間を去る徳姫。
何だか一番自由なんだよな、この義娘。この北方の地で奔放にやっているし、織田と徳川を結ぶ架け橋という重責から解き放たれた結果、何故か狙撃の才が開花した。信長の子だと考えればちょっと納得してしまうのが悔しい。
「それで孫六くんはどうだった?
蠣崎まで渡りを付けられたかしらね」
「ハシタイン、チコモタインの両名に書状を送ることは適いましたが、お二方とも既に老齢のようでした。それでも我等の存在は若狭守殿にお伝えすると言伝を頂いております、それで御前さまは蠣崎や安東らとはどういった関係を築く算段で」
とりあえずはこれで、蠣崎若狭守季広にまで話が通るか。蠣崎が信康や私のことは知らなくても、流石に織田信長のことは知っているはずだ。確か代理の者が信長に謁見していたはずだし。まずは徳姫の書状を送ってほしいと依頼して反応を見てみるか。
「蠣崎とは親善は深めない。が、戦も向こうから仕掛けられない限りしないわ。商人らによる交易の制限はしないけれども、あえて誼や盟約などは結ばない。この方針で行くつもりよ。
……まあ、向こうが中央の政権との取っ掛かりと考えてくれたら、手紙なり土産なりを送る運び屋として活用しましょう」
そう言うと、家臣らは思わず苦笑い。使い潰すように聞こえるかもしれないが、蠣崎側は贈り物の手間なく自らの名声を高められるから、双方にメリットがある話なのに。
「……じゃあ、最後にニシラケアイヌ。
周辺の氏族との接触の報告を」
ニシラケアイヌ。彼は名の通りアイヌの民であり我等の尺度で考えれば武装商人という言い方が適当か。
外洋船でやってきた我等に対して真っ先に水先案内人を買って出て、以降私の家臣という立ち位置兼、蝦夷地での外交アドバイザー的なポジションに収まった。
「近隣のメナシウンクルや西方のハエクルらは我等に敵対せぬでしょう。
また、遥か東方のシメナシュンクルに話を伺いましたが、オカタサマの仰っていた『クルムセ』の代表者が我等と話したい、と」
一口にアイヌとは言っても、様々な部族が居り、複数の部族集落をまとめた民族集団をメナシウンクルやハエクル、シメナシュンクルと呼称している。
それ故、この一民族集団の影響力のある地域は面積だけで言えば、並みの諸大名を遥かに凌駕する領地を有するとも言える。……まあ、人口過疎地域なだけなんだけど。
そして、『クルムセ』は千島列島のアイヌ民族である。
よくそこまで伝手があったな、と半ばニシラケアイヌの顔の広さに感心しながらも、それをおくびも出さずに彼に次の指令を与える。
「『クルムセ』にはオンネカムイが欲しいと伝えておきなさい。
此方から何を差し出せばいいのかも聞いておくこと。
あっ、あと、イテリメンについて知っていることがあるかも聞いてくれると助かるわ」
――この年。蠣崎家に東方から和人が大型の船にやってきて彼らが『徳姫』の使者を名乗ったことで、築山殿と関口三郎信康の名は歴史書に刻まれることとなる。
この時節の蠣崎家は織田家の徳姫が『徳川家』に嫁いだ姫であることを知っており、その徳川家の血縁者がアイヌの地を統括しつつあることに大層驚いたそうだ。
曰く『海道一の弓取りである徳川の分家が蝦夷地の北に所領を広げている』……これが転じて、築山殿らのこの時期の居留地のことを『北海道』と呼ぶようになった。