第七話 築山殿の水軍
「……よし! この様子であれば、問題なく進めそうね。
興津内記、我らの船に荷は積み終わったかしら?」
私がそう口に出すと、興津内記忠能が即座に答える。
「はっ。現場の指揮は岸孫六様が取っておられます故、もう間もなくかと」
興津内記忠能は、今は亡き太原雪斎和尚の形見とでも言えばいいだろうか。雪斎和尚の母方のご実家が興津家であり、かつては駿河横山城を拠点として今川水軍の一軍を率いていた興津久七郎正忠の実子である。
雪斎和尚の死後、彼らは密かに私に付けられ、父の正忠殿は横山の地を一所懸命に守るため家康に臣従したが、内記は私の直臣となり三河に構えた新たな水軍拠点にて、新船の開発と運用に従事させていた。
……岸孫六茂勝を水軍大将に欲しいと言っていたのも彼である。
「分かったわ。内記は、船員らにまもなく出立する故乗船するように触れを出しておきなさい、孫六には私から伝えて……あら? 桟橋の方から誰か来ているわね」
「あれは――若様では、ないでしょうか?」
一度船外に降り、休憩していたはずの関口信康が私の姿を見かけてか、甲板へと昇ってきた。
「……は、母上! ここに居られましたか。
此処はどこなのですか!? 岡崎で語り合いし折には、北条領へ赴くと仰っていたにも関わらず、何ゆえこのような離れ小島に上陸などして……」
「あら? 嘘は言ってないわよ。ここは伊豆諸島の神津島。いえ、神集島と言った方が分かりやすいかしら?
歴とした伊豆国の区域であり、北条家に従属しているのだからここは北条領と言っても過言ではないわ」
――過言である。
一応名義上、伊豆諸島を北条家は支配下に置いていたようであるが、北条の存在がこれらの島々の施政に影響を与えていたかと言われると疑問符しかつかない。
そして、家康相手には北条美濃守氏規を頼ると言っておきながら、私は彼の下を訪れるつもりは微塵もない。
つまりあの場では、法螺を吹いたということなのだが、私に従って船に乗った皆々はあの浜松城での一部始終は知らないので、放っておく。
「ああ、そうでした。
信康、登久と熊の様子はどうです?」
「某の娘のことですか?
今のところ船酔ひもせず、体調を崩した様子もありませんね。
……って、話を逸らさないでください母上。
小田原に行くのではないですか?」
懸念事項であった信康の娘、つまり私の孫のこと。登久は三歳で熊は二歳だ。
まあ健康であるのなら、万々歳だ。何せ長旅になるのだから、体調管理には気を付けすぎるということはないだろう。
そして、信康が気にしている小田原行きについてだが。
「行かないわよ。……何のために、わざわざ虎の子の興津水軍の外洋船を引っ張り出して、徳川の目を眩ませたと思っているのかしら」
家康は貿易振興のために私が水軍を強化していたと考えていたようだが、全てはこの時のためである。
確かに西岸寺を学問所としてそこに集まる荷や人を運ぶために、水軍を使っていた。それは事実である。事実であるが、重大な見落としがあるのだ。
三河は、伊勢志摩から目と鼻の先。つまり九鬼水軍の本拠から程近いのである。
そのような九鬼の縄張りに隣接した場所にて交易とはいえ海上で一定の影響力を与えられる水軍が、弱体であるはずがないということを。
……まあ、最初から水軍を利用して逃げるつもりであった。家康がどんなに優れた暗殺者集団を擁していようと、流石に外洋に出てしまえば此方のものだからね。
ちなみに、私の直臣連中である伊奈半左衛門忠次、岸孫六茂勝、興津内記忠能は、この水軍が尋常でないことには薄々勘付いていたらしく、逆に今回逃亡用に使うと知って、納得していたり。
あと、榊原小平太康政の兄の榊原孫十郎清政には全て話した。浜松城であったことと、康政に許可は貰っていること――そして、北条に行くつもりが無いことも。
まあそれでも付いてくると言ってくれたのは、やっぱり彼の病気を治したからなのかな。密かに甲州より呼び寄せた医師を彼の治療に充てていて、病が完治しているのは、どうやら弟の康政にも隠している様子。
後、信康の妻である徳姫が付いてくると言い出したのは大いに驚いたが、彼女は彼女でどういう情報ネットワークを有しているのか知らないが、私が北条に行くつもりが無いことを掴んでいたようで、この神津島に来ても動揺すらしていなかった。
というわけで。建前の北条人質という名目を信じ切って付いてきたのが、我が息子の信康となる。
「――では、母上。どちらへ向かう算段で」
「そうね。信康には真意を伝えておく必要があるかもしれないわ。
私が考えている向かう先は――」
――それから『築山殿』の名が歴史書に再び現れるまでには三年の月日を要する。