第六話 家康の未来 / 信長の愉悦
「半左衛門、孫六! 岡崎に戻るわよ! ここからが正念場ぞ、信康を説得して伊豆に同行して貰わないといけないわ!」
「御前さま。万事抜かりなくいったので?」
「ええ、最低限は認めて頂いたわ。孫六は先の約定通りに興津内記の下に行って船を用意なさい。半左衛門は私とともに岡崎へ。
馬を潰すつもりで行くわ、三河大返しよ!」
「はっ」
「承知」
全く嵐のように去っていく御仁だ。
儂らの居る部屋にまで通る大声で話しておる。すると弥八郎が儂に声を掛ける。
「……殿。これで良かったのでしょうか」
「これ、では分からぬわ、戯け」
「築山殿のこと。そして、岡崎三郎殿のこと。
――本当は、ご両名とも殺める算段では……」
その弥八郎の言葉を手で制す。その所作で弥八郎は全てを察したようだ。
儂は、そんな弥八郎を後目に万千代に話しかける。
「万千代はこれで良かったのか?」
「……ええ、まあ。とりあえず北条だろうとどこだろうと命さえあれば、どこでも生きていける御方でしょうから。
ただ……」
言葉に含みを持たせた万千代の言葉に、笑いながら小平太が彼の背を軽く手で小突く。
「あいや、まさかあそこまで完膚なきまでに同行を断られるとは思わなかったな」
……そう。万千代は、瀬名殿と共に北条の下へ同行を願い出た。
すると儂が叱責する前に瀬名殿が『貴方、まだ大した武功挙げてないじゃない。まずは、きちんと三河守殿から頂いたご恩と禄の分は働いてから、そういうことは言い出すことね』と一刀両断。
まあこの言葉には相当意気消沈した様子だったので、上手く先達の古参重臣らに揉まれれば、一廉の武将として独り立ちはできるだろう。そして瀬名殿関係さえ気を付ければ万千代が徳川に返り忠を打つことは無いな。おそらく、これも瀬名殿の策なのだろうが。
「……何故、平岩殿や榊原殿の兄上は誘われて、某だけ……。いえ、武功が足らぬことは分かっておるのです。ただ、心中の整理が付いておらず……」
万千代にとって辛いところは、七之助や小平太の兄・榊原孫十郎清政は瀬名殿直々に指名してきた点だ。
ただ、両名ともに岡崎三郎……いや、関口竹千代信康殿の傅役という共通項がある。なので、瀬名殿自身が欲したのではなく関口殿の心情を察しての行動であろうな。
そして、七之助は不承。これには瀬名殿も『まあ、家康殿と幼き頃からの縁ですし、易々と離れるわけには行きませぬものね』と。最初から断られるつもりで聞いていた様子であった。
一方、孫十郎については小平太に聞いていたが、小平太は最終的に承諾。
言外に兄の病状を不安視しており、北条への同行が療養になればと考えていたとみえる。正直、三河よりも小田原のが町としては栄えておる。坂東の足利学校などから医学に熟達した者も呼びやすかろう。
「だが、そうさな。草は付けておくか。
与七郎。瀬名殿と関口竹千代殿のご両名の動向を遠巻きに見ておけ。……何、小田原に入るまでで良い」
瞬刻の後に、短く与七郎の返答が聞こえる。
この時は、全てが丸く収まったと思っておったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
天正七年九月初旬、安土城。
徳川家臣、酒井左衛門尉忠次ならびに大久保七郎右衛門忠世は、この安土の主たる織田右府信長の住まう安土城天主から僅かに離れた三の丸にある江雲寺御殿の広間にて織田右府と対面していた。
「……で、あるか。
三河守殿は、雪斎の妖狐めと岡崎三郎の裁定を決めたか。まあ、徳川家中のこと故、それで良かろう。
して、徳はどうする」
この織田右府からの問いかけに対して、酒井左衛門尉は落ち着いた様子で告げる。
「先刻、殿から早馬により届いた書状には特に何も。
去れど、関口竹千代殿と離縁するにしても、三河へ留め置くか、ここ安土に送り届ければ良いのか、決めねばならぬことはありまする。
我が徳川の都合で右府様につきましては誠に申し訳なくあれど、ご配慮いただければ……」
その左衛門尉の言葉が全て紡がれる前に、慌ただしい足音を立てて、広間に一人の人物が入ってくる。
「大殿! 一大事に御座りまする」
「徳川の使者殿の面前ぞ、控えよ……お乱」
お乱と呼ばれたまだあどけなさが残るものの鍛え上げられた精悍な体格を有する小姓――森乱丸長利は、失態をしたと恥じ入り、頭を下げる。
「……いえ。某らのことは一先ず後でも。
それよりも火急のことならば、聞き置くべきかと」
「……おお、すまぬな酒井殿。
ほれ、お乱。話せ」
「はっ……、あ、いや。しかし……徳川様にもお関わりのあることですので」
そう乱丸が話すと、下座に座る2人に緊張感が走る。
「構わぬ。むしろ手間が省けるではないか、話せ」
「……では。
三河守様が室、築山殿。息である、徳川……いや関口でしたか? 竹千代信康殿。
――そして、大殿のご息女である徳様。
3人まとめて、逐電したとのこと」
「はあっ!?」
「それは誠か!?」
思わず声を荒げた酒井左衛門尉と大久保七郎右衛門。しかし、その驚きは一瞬で、次の瞬間には平伏する2人。
信康と築山殿の武田内通疑惑の釈明に来ていたはずの2人は、初めは両者の処断の許可を織田右府信長より頂こうとしていたのにも関わらず、本国での状況が二転三転し、結果北条への人質ということでまとまったことを先刻まで報していた。
そんな最中での逐電である。彼らは織田の徳川に対する心象が急激に悪化するのを幻視した。
すると、織田右府がとあることに気付く。
「――お乱。それは?」
「逐電した徳様からの書翰とのことですが……お読みになられますか」
森乱丸が徳姫の名を出すや否や、奪うかのようにして書翰を受け取り、眼前の3人を放置して読み耽る織田右府。
四半刻は経っただろうか。いや、小半刻にも満たぬ僅かな時間であったかもしれない。
徳川家臣の2人にとっては永劫にも思える時を経たのちに、織田右府が口を開く。
「……っ、くくっ。
あいや、済まぬな。これ程愉快なことがあろうか。
左衛門尉殿。七郎右衛門殿。
三河守殿には、この件にて徳川家中を難詰する算段は無い、とお伝え頂けぬだろうか。我が愚娘もか奴らの片棒を担っていたが故」
織田右府は、徳川家のことを慮ることを口にはしているものの、どうやら堪え切れなかったようで、怪鳥のように笑い声を上げながら話す。
その異常性に、徳川を責めぬと言質を頂いている酒井左衛門尉も大久保七郎右衛門もどうやら只事ではないことが徳姫からの書翰に書かれていたと推測し、おずおずとその内容を訊ねる。
「ああ、徳姫が何を書いていたか、か?
『天下の大うつけ者である父上の娘なれば、どうして斯様な仕儀でおめおめ安土に戻るなどと恥知らずな真似ができましょうか。何よりあの御義母様に付いていった方が心良しなれば』とのことよ。
あの愚娘。織田よりも徳川よりも、己の享楽を選びおった! ――誠に儂の娘よ」