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第四話 家康の天下

「それで、三河守・・・殿。私のような終わった女(・・・・・)に何用で?」


 戦は機先を制する者が勝利を収めるというというが、舌戦において、疾風迅雷の口撃を魅せるのがこの瀬名殿という御仁だ。


「あいや、誠に詫びを申し上げたい。某、お愛の方を本気で懸想して……」


「その見え透いた茶番は下らないわ、やめなさい。

 先の評定では国人衆の手前流しましたが、所詮今川の影響力を落としたいと考える三河国人衆に乗っかっているだけの方便でしょう。

 ここには、体裁を取り繕う相手は居ないのだから不要だわ」



 ……手厳しいが、『まことの愛』などという虚妄に踊らされるような御方ではないか。凋落した今川のを国人らが排除したいことを読まれておる。

 であるならば、『終わった女』などというそれこそ妄言を投げかけるのは容赦頂きたかったのだが。



「あまり時間をかけるのも本意では無いので本題に入らせて貰うわね。


 ……殺しますか。私のことを」



 瞬間、動きを見せたのは小平太。儂が何も言わず頷きでもすれば、瀬名殿を袈裟斬りにするであろう。

 それに相対する所作を見せたのが、万千代。瀬名殿を害するのを防ぐかのように、小平太の一挙手一投足に注意を払っておる。儂の決断次第では万千代は敵に回るな。


 だが、それにしても。



 ――弥八郎の進言。それすらも、この御方は見切っていたか。



 末恐ろしい。儂は瀬名殿の……彼女の才が心底恐ろしいと改めて心に刻み込んだ。



 儂が悄然しょうぜん憂懼ゆうくに身を震わせて居ると、周囲の家臣らが呆然と儂の顔を凝視しておる。



「……殿、何故、笑って、いらっしゃるのですか……?」


 七之助が呟いた一言は、静寂に包まれた部屋に異様に響いた。


 そうか。儂はこの期に及んで笑ってしまっていたか。不意に瀬名殿を見ると儂の笑みの意味に気が付いたのが同じように笑っておる。


 ひとしきり互いに笑い終わったのちに、吹っ切れた様子で瀬名殿が何事もなかったかのようにさらりと告げる。


「いやあ笑った、笑った。

 ……言っておきますけど、あなた。

 雪斎様や今川義元……あるいは武田信玄。

 はたまた織田の右府様。


 彼らの話をするときに口では臆病風に吹かれたかのように弱気なことを言っておりましたけれども、その目はいつでも今のように輝いておりましたわよ」


 ……意外と儂のことをよく見ているな。いや、もう駿府での人質時代から数えれば三十年に届くかという付き合いだ。結婚してからでも二十年といったところか。


 儂は今川なぞ武家としては滅んだも同然にも関わらず、未だに雪斎和尚や先代の今川治部大輔殿が恐ろしい。

 徳栄軒信玄のことなど、今でも夢見する。


 そして、右府様。

 あの御方は別格だ。幼子のときの知己として同盟を組めたことが、今でも慮外の幸運と思っておる。


 そんな、世にも恐ろしい彼らのことを瀬名殿に話しているとき、儂の目は輝いていたか。



 ――儂は恐れると同時に、圧倒的な時代の寵児と相対することに高揚感を覚えていたのだな。

 そしてあわよくば、彼らと同じ景色を見たいと心の底では思っておった。


 彼ら四人と同じ景色。



 ――そう。天下を。



 そして、その天上を見据えた彼らに向ける目と同じものを儂は瀬名殿に今向けていた。ということは、だ。


「――瀬名殿。お主もまた天下を見据えていたのか」


 儂の発した決定的な一言に、儂と瀬名殿以外の全ての者がどよめく。



 どれだけ経っただろうか。一瞬であったのかもしれない。だが、永劫にも思える一寸の時で瀬名殿は観念したかのように口を開いた。


「随分と昔の話ですけれどもね。こんな庶民の噂を知ってる?

 『御所が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』。


 ……今の御所は鞆に在り風前の灯。吉良も三河の国人に落ちぶれ。今川などは、武家としては滅んだも同然。宗誾殿の気質が大名には向かないことは幼き頃から気付いておりました。


 さて、もし……。桶狭間の地にて右府様に天運が無かったとしたら。どうなっていたでしょうね?」



 まさか。桶狭間、それ以前の段階から、この御仁は既に見据えていたというのか……。


「宗誾殿が今川の棟梁足り得ねば……『今川』の姫である築山殿の外戚であった殿が、将軍となりますな……」


 弥八郎の呟きが全てを示していた。



「まあ、織田の右府様があそこで潰されるような御方ではないことは知っておりましたので。あくまで窮余の策でしたよこれは」


 間隙。瀬名殿の言葉が止まったのを合図に、儂が決定的な一言を口にする。


「なれば、今一度問おう。儂が貴殿を殺すと言ったら……、瀬名殿は儂のことを殺すか?」



 ……さて。ここの返答次第では。

 瀬名殿。我が徳川の天下の糧となって貰わねばならぬ。


 ――しかし、瀬名殿はこれにあっさりと返す。


「殺しませんよ。……と言っても猜疑心の強い貴方は根拠なしでは信じませんか。

 少なくとも三河守殿を誅するには四年遅く、三年早いです」


 殊の外予想外の言葉が返ってきた。

 四年遅い――これは理解できる。四年前の天正三年。長篠合戦のことだろう。


 つまり諏訪四郎勝頼が絶頂期であったあの刻が、最後の徳川滅亡の危機であったというわけだ。そこで、返り忠をしない選択をしたということは、もう徳川に反旗を翻す意図は無いのだ。


「三年早い、とは……?」


 与七郎が瀬名殿に尋ねる。


「……畿内の反抗勢力を併呑した織田家は最早、武田・毛利程度しか然したる敵が居りません。

 それも滅ぼされるか屈するかは知りませぬが、もって三年かと。


 ……敵が近場に居なくなれば、必ず右府様は国替えを行うでしょう……徳川家も含めて。三河は尾張に近すぎます故」


 つまり、我が徳川の国替え。それが儂の隙となるということか。

 ……あり得る話ではある。国人衆は三河から離れぬだろうな。家臣すらも残るものが居るやもしれぬ。であれば三河衆は分裂するな。それが隙というわけか。


 そしてこの期に及んで忠言するということは、瀬名殿は離縁した後も、徳川を悪し様に取り扱うわけではないのだろう。……無論、この場を切り抜けるための方便かもしれぬが、それでもあり得る絵図を提示してくれたのは有難い。


 そしてこの時点で、儂は瀬名殿を害する気は皆無となっていた。


「のう、瀬名殿。お主の希望を聞いていなかったわ。

 儂ら徳川が好きなようにしてよい、と言えば今後どの様に振る舞うつもりか?」


「そうね。助五郎……今は美濃守と名乗っていたかしら。彼を頼りに北条に行かせてもらうわ」


 北条美濃守氏規か。

 ……確かに、彼の者もかつて駿府で人質として暮らしておった。瀬名殿とも面識がある。


 また、北条家は武田との和睦の後、宗誾殿が小田原を離れたことで、今川旧臣への伝手に乏しい。必ずや瀬名殿を受け入れよう。

 何より、北条とは誼を取り、盟約を結ぶ交渉が続いておる。当面は敵となることは、ない。



「あと。最後にこれも折角だし聞いておいていいかしら。

 ……私の子らは、どうする算段なの?」


「……岡崎三郎か」


「あ、信康だけではなく、亀のこともね」


 亀は奥平美作守信昌に嫁いだ、儂と瀬名殿の娘だ。

 だが、亀と奥平美作守との婚約は奥平家の徳川帰参、そして何より徳栄軒信玄を知らせた褒賞の意義が強く、更に織田右府様も本件には絡んでいる以上、迂闊には手出しできまい。偏諱までしておるし。


「……いくら瀬名殿の頼みとは言え、亀を離縁させるのは叶わぬぞ」


「逆よ。逆。

 流石に室も置かずに亀のことを愛している奥平殿から、亀のことは取り上げられないわよ。どっかの自分の政治的な都合だけで愛を騙る狸とは違ってね。

 私と離縁した後も、亀は徳川としての家格を保持させて欲しいのだけれども」



 言葉に毒があるが、儂が断らないと思っての算段か。確かに亀を徳川の姫として遺したまま、奥平美作守に嫁がせている現状を維持するのは、儂にとっても望ましい。


 安定の兆しが見えてきたとはいえ、奥三河は武田と接敵する重要な地域であり、地場の有力者たる奥平家の動揺を招くのは望ましくない。さらには、長篠合戦の後に、損壊した長篠城から、新たに築城した新城城へ移ったのはまだ四年幾ばくか。

 奥平の家に動揺を与えて利するのは武田のみばかりで、我が家中には一分の利もあらず。


「あい分かった。そのように手配しておこう。……とはいえ、今の仕置から差異はないから亀には此度の仕儀だけを伝えれば良いか」


「ええ、そうね。

 それで本題の信康ね。新たに生まれた長松に徳川を継がせたいのでしょう?

 ……信康のことを邪険に思っていないかしら」



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