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第二話 家康の受難

「七之助。状況は?」


「……真宗高田派の満性寺まんじょうじ並びに妙源寺みょうげんじが不穏な動きを。そして臨済宗も天恩寺てんおんじを筆頭に高田派と連携するかのような動きを見せております。さらに、これに連動して吉良家から駿河田中城攻めへの援兵を送る用意があると書状が届いております」


 築山殿……いや、あえて瀬名殿・・・と呼ぼう。

 かの方に何とか対面の場に応じることを同意して頂き、二、三の伝達事項を伝えた後に評定を終え、急ぎ平岩七之助親吉から岡崎の状況を伺うと見事なまでに瀬名殿の浜松召喚に連携して急速に三河領内が不安定となった。


 しかし、高田派に臨済宗が動くか。あの一向争乱の際には一貫して味方であった高田派。そして奥平の影響の強い天恩寺とは。


「……だが、これは。どう見る、弥八郎?」


「あくまで見せ札でしょうな。無論、殿があの御方を害する意図があれば、戦力となり得ましょう」


「であれば、一向争乱の焼き直しが起こるか」


 本多弥八郎正信は、儂の独り言に「あるいは、それ以上の規模の乱と成り得るでしょう」と答える。


 我が三河の歴戦の家臣団らをもってしても、一時の警戒すら怠らない……怠ることができないのが瀬名殿という御方だ。


 瀬名殿。父は今川家御由緒衆の関口刑部少輔親永。関口家の家督を相続するまでは瀬名義広と名乗っていた。故に父方の実家の由縁から瀬名殿と幼少期には呼ばれていた。

 そして母は井伊家。我が家臣、井伊万千代直政と同族だ。……というか、そも万千代を見出し、儂に小姓として仕えるように養育したのが瀬名殿である。


 儂が駿府にて今川家の人質として暮らしていた時分、随行した天野又五郎康景、石川与七郎数正、平岩七之助親吉らと鍛錬を積み勉学に励む機会が多かったが、それら我が家臣の次に時間を共にする機会が多かったのが瀬名殿である。

 今にして思えばそれは今川家の婚姻策であったのかもしれないが、それを主導していたであろう太原雪斎と今川治部大輔義元は既に世にあらず。


 そして太原雪斎。儂も大岩臨済寺にて軍学を学んだことはあったが、かの雪斎和尚は駿河に滞在することは少なかったため、ほとんどはかの者の弟子から学んだものであった。

 しかし瀬名殿は別格であった。女子で童でありながら、雪斎和尚が格別の弟子と誇るまでの才を有していた。

 同世代の男児に片っ端から兵学論争を仕掛け、仕掛けた相手を完封無きまでに論破しておった。儂も儂の臣も、あるいは北条家からの人質であった北条助五郎氏規殿など今川家中であろうとなかろうと所構わずであった。


 碁を打てば、まるで定石外れの打ち筋で此方を攪乱するわ。駿河のみならず日ノ本の諸国の見識に優れるばかりか、どこから仕入れてきたのか分からぬ明や異国の知識をも有していた。


 その才覚に惚れ込んだ雪斎和尚は、自らの技能を瀬名殿に叩き込み、そして臨終を前にした際に己に仕える手足の者(・・・・)の一部を瀬名殿に分け与えたとの噂もある。


 また瀬名殿との婚儀の際、雪斎和尚から見た彼の者の評を伺ったことがある。

 曰く「瀬名殿は竹取翁の不老薬にも猛毒にも成りかねぬ存在故、今川家中で彼の者を卸す逸材は貴殿しか居らぬ」と言われた。

 同時に「其処許そこもとにとって松平家中で真に不要と断ずれば直ちに離縁すべし」ともおっしゃっていた。


 それを聞いた際に得体の知れない不安感を覚えたが、実際瀬名殿は松平、あるいは徳川にとって非常に有益な存在であった。

 特に瀬名殿が名声を挙げたのが、三河での一向争乱の一幕。

 自身が押し込められていた西岸寺を一向争乱で我が松平家中とも一向門徒共とも与しない『中立地帯』と宣言し、同時に西岸寺そのものを三河における学問所として宗旨問わず万人を受け入れると声明を出した。


 その結果一向宗を信仰しているが、かといって我が松平家に反旗を翻すのは本意ではないと考えた家臣らが、三河において蟄居するには絶好の場所となり、我が有力家臣の本多家の菩提寺であることも寄与して、ほぼ三河国人衆は中立を保った結果、一向門徒を各個撃破することに成功した。

 ここにいる弥八郎も、瀬名殿の機転のおかげで今もこうして出仕できているのである。なので、三河国人衆を割らずに済んだという意味では大なり小なり瀬名殿の恩恵を受けているのが我が徳川家なのだ。


 この顛末を我が息、徳川岡崎三郎信康から聞いた徳姫は、父である織田右府様に瀬名殿の暗躍を伝えたところ、儂宛てに右府様から書翰しょかんが届き『雪斎の妖狐を携える三河守殿の徳は三国一』と評された。


 また、武田家の伸長に伴って我が家中に調略の魔の手が伸びてきた際に、瀬名殿は「対外的には私は今川の姫で城外に住んでいるのだから、不仲ということにでもして私と岡崎三郎に武田の目を向けなさい」と放言。

 実際にそういった噂を流したところ、武田の調略はものの見事に岡崎へ集中し、家臣団の動揺は最低限で済んだ。この計略は織田右府様の下にも届き『妖狐を討伐すべきではないのか』と武田の跋扈を心配する書翰が送られた。

 つまり、味方の織田家ですら瀬名殿は欺いていたというわけだ。結局それは徳姫を通じて誤解を解いた。


 だが惜しむらくは、そうした瀬名殿の恐ろしさをほとんどの家臣は気が付いていないことだ。

 遠江・駿河の今川領へ侵攻する際には、正当な今川家の後継者と喧伝することができたが、それを瀬名殿は拒絶した。

 あるいは、浜松城を支配する際に、遠江守護としての今川家の類縁者であることを盛んに言い立てれば瀬名殿の正室としての立場を正当化できたにも関わらず、それすらも瀬名殿は拒絶した。


 代わりに行ったのは、西岸寺の学問所として機能を拡大させたことと、雪斎和尚の置き土産であった和尚の血縁の興津氏を三河へ移住させ自前の水軍衆を育成させたことだ。

 当初は家康自身もそうした瀬名殿の行動を怪訝に思っていたものの、学問所として有名になると多くの行商人が三河を尾張と相模の中継地ではなく、商業拠点と考えるようになり、物品を卸し税を納め、徳川家の懐を潤した。そうした効力を目の当たりとしてから、瀬名殿が三河武士とは異なる視点で政を行おうとしていると考え好きにさせることとした。

 更に商業力が強化されると、水軍が海上の輸送能力向上へと繋がり、交易の拡大に寄与した。

 ただ三河武士の在り方とはあまりに逸脱した行動が目立ち、西岸寺を中立化させ三河を割ることを防いだことすらも、『一向宗に同情的であった』と足軽大将級の地場国人は近視眼的に考えるようになっていたのだ。


 そして、三河西郷氏の出のお愛から長松が生まれたことで、遂に今川の姫は不要との声が上がったのである。

 その三河の地場国人の声に耐えきることができずに、此度の仕儀と相成った。


 だが一方で、重臣らは誰しもが、この瀬名殿の尽力が無ければ今の徳川家が徳川家として立ちえなかったと考えているのは明らかだ。


 桶狭間から早二十年。既に周囲には徳川家を滅ぼしうる存在は無い。ようやく得たこの小康状態を奇貨として、瀬名殿との離縁を画策したのである。


 今、この場には一部の重臣しか既に居ない。

 平岩七之助親吉、石川与七郎数正、本多弥八郎正信、榊原小平太康政、井伊万千代直政の五人だけだ。

 酒井左衛門尉忠次は岡崎三郎の武田内通懐疑を晴らすため、右府様の居る安土へ派遣しているため不在だ。本多平八郎忠勝は、弥八郎がこの場に居るため「顔も合わせたくない」と評定が終わり次第早々と辞去している。


 また服部半蔵正成は伊賀への調査を命じたために、瀬名殿の件に関わってはいない。


 儂が半蔵のことを考えると、偶然か、七之助が言葉を漏らす。


「惜しむらくは、半蔵殿が三河を離れていることですな。

 国人や寺社の調査であれば、某などよりも半蔵殿のが遥かに適任でしょうに」


「確か北畠の御本所様が伊賀攻めを画策しているとのことでしたな、殿」


 小平太が儂の方を向き、儂の判断の是非を問うてくる。


「ああ、伊賀の国人共も三介様や織田家には降れぬと考えていようとも、徳川になら降るのも吝かではないと考えるやもしれん。それに半蔵であれば、元を辿れば伊賀の出。伊賀忍らとも繋がりがあると本人も言っていた。それ故に、伊賀へ渡って貰ったのよ。


 ……ただ、これは瀬名殿の献策であった」



 場が静寂に包まれる。

 つまり、半蔵を伊賀に派遣する判断をした段階で、瀬名殿は自身が離縁されるやもしれぬことを薄々勘付いて、分析に長ける半蔵を三河から外したのだ。

 手数も手駒も此方の方が遥かに上回るというのに、先手を打たれておる。


「……勝てますかな? 我らはあの瀬名姫(・・・・・)に」


 そう弱音を漏らすのは与七郎。今川での人質時代からかの御仁と関わりがあったが故に臆病風に吹かれるのは、儂としても大いに同意できるものだ。


 そこで、儂は一旦流れを断って、目の前に居る臣らに今一度一つ問いを投げかける。


「正直に申して……瀬名殿との離縁に反対の者は居るか」


「……反対でござります。そも、拙者が殿の臣と轡を並べているのも全て瀬名姫の尽力があってこそ。感謝はすれど、斯様な仕打ち断じて認められませぬ」


 真っ先に反対意見を述べたのは万千代。若武者らしい愚直な意見であるが、瀬名殿に養育され儂の下に推挙されたとなれば、その恩義は儂に対しての其れよりも上回るやもしれぬ。


「某も内懐うちぶところでは受け入れがたいですな。……しかし、国人らの反今川の魂胆は無視できませぬ。殿の正室のままで据え置いた場合の方が、築山殿に危害が及ぶやもしれませんな」


 そう苦々しく語る七之助と、苦渋の表情を浮かべながら頷く与七郎。

 彼ら二人は人質時代からの付き合いだ。それに加えて七之助は儂と瀬名殿の子である岡崎三郎の傅役である。一方与七郎は、桶狭間の後に我らが岡崎城にて独立した際に、駿府にて捕らえられた瀬名殿らと鵜殿兄弟の人質交換を今川治部大輔氏真と交渉を行い成し遂げた。

 尤もその今川家は滅び紆余曲折あり、彼の者は出家して宗誾そうぎんと名乗っている。宗誾殿は徳川の旗の下で客分として浜松城下に在住している。



「……今となっては真に恐れるべきは家中が割れること。吉良や寺社が反抗してこようとも、それらを鎮めるだけの時と余力が今の徳川家にはございます。

 築山殿との離縁をこのまま推し進め、扶持でも与え京なり安土なりで余生を過ごして頂くことが最上かと思われます」


 一転して離縁に賛同する意見を述べるのは小平太。しかし、小平太は小平太で立場が非常に難しい。小平太自身は特に瀬名殿と接点は無いものの、彼の兄である榊原孫十郎清政は岡崎三郎の傅役だ。


 孫十郎は、病弱であるが故に陣代として弟の小平太が参陣することが多かった。故に榊原家の家督はほぼ小平太が継ぐと囁かれている。……とはいえ、兄弟仲が不仲ではない。

 おそらく瀬名殿の随員として孫十郎を任じるように儂に頼み、兄の療養も兼ねるという思惑が働いていると見るべきか。



「……弥八郎殿は、如何お考えか」


 最も深刻な表情で悩んでいた弥八郎に対して、与七郎が意見を問う。

 弥八郎自身は、一向争乱の際に行き場を失い西岸寺で拾って貰ったことで瀬名殿に恩義がある。故に離縁に反対か、もしくは賛成でも三河にて何らかの役割に任ずる……そのような献策を行うと考えていたが。


 弥八郎の提案は我ら一同の度肝を抜くものであった。



「……あるいは、築山殿をこの場で誅するのが最も徳川のためになるやもしれませぬ。

 これまで彼の御仁の才覚は、徳川家中にあっては全て徳川家に向けられておりました。


 ……今川に対してその才は一度たりとも発揮していないのです。彼の御仁がどうお考えか某にも計り知れませぬ。

 だが……それ故に、評定にて殿の離縁を受け入れたとなれば。既に彼の御仁にとって徳川は誠に忠節に足る、才覚を発揮する価値のある家なのでしょうか。


 彼の御仁を生かしておくことで、我らが今川の二の舞になるやもしれないことを如何して否定できましょうか」



 儂は、その弥八郎の言を肯定も否定もすることができなかった。

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