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第十五話 家康の嘆息 / 築山殿の改悛


「本当に、瀬名殿の下へ行ってしまうか……万千代よ」


「……殿。この儀につきましては、平らにご容赦を。

 如何に殿の仰せであっても、心苦しかれど瀬名姫に拾われねば、今の某はありませぬので」


 万千代こと、井伊侍従直政。我が徳川が関八州に移された今となってはまごうことなき重臣よ。

 小平次――酒井左衛門督忠次は眼病を患い、小五郎こと嫡男・宮内大輔家次に家督を譲った。その小五郎は下総臼井に三万七千石。

 七之助こと平岩主計頭親吉は甲斐の郡代として領国の鎮撫にあたり、難儀な土地を見事治め、先の小田原戦役でも功を挙げた。上野厩橋三万三千石。


 平八郎、本多中務大輔忠勝やら、小平太……榊原式部大輔康政なぞ最早語るまでもない徳川の屋台骨だ。……それぞれ上総大多喜と上野館林に十万石ずつ。


 そして、この万千代もまた天正十二年間の東海戦役では、赤備えを率い、長久手の地では織田常真信雄殿の軍勢を破り、また先の小田原戦役の折には攻囲の最中に、蓑曲輪に夜襲をしかけ城内にまで踏み込んだ功がある。その功は徳川家にとって儂にとって、不可欠な大黒柱となっていた。その名声は天下に轟き、才覚は関白殿下ですらも寵愛する程だと言うのに。


「弥八郎――貴様からも、この万千代に何か言ってやってはくれないか」


 本多佐渡守正信にそう問いかければ、まるで差し答へを用意していたかの如く当意即妙に告げる。


「万千代。この殿は、其方に与えた上野箕輪の十二万石が勿体なく感じているのです。

 其方が築山殿に忠義を誓っていることなど我等は既に知っておりますし、殿もその意を翻すことは適わないと分かっております。でも、この吝嗇な殿をして呻吟しんぎんの想いで大盤振る舞いした所領のことを思っておるのです」


「こら、弥八郎。口八丁するでないわ」


 本音を申せば。十二万石もの大領は、我が家臣では最も多い。我が息子の羽柴結城少将秀康ですら下総結城並びに常陸土浦十万一千石なのだぞ。

 如何に瀬名殿に恩があるとはいえ、儂の気遣いを無碍にするとはという不満が全く無いかと言えば嘘になるが。


「某は、所領に関しては井伊谷さえあれば良いと思っておりましたが故」


「ならば、関東に移封された今の徳川には未練も無いということか!

 で、あれば十一年前。瀬名殿が出奔したとき、何故付いていこうとしたのか。

 あの時分は井伊谷を治めていたではないか」


「……その思い入れある井伊谷を捨てても瀬名殿に恩を返さねば、と思っている次第でして」


 ……当時も忠義高いとは思っていたが、よもやここまでとは。


「今まで此方から頼んでも見向きもしなかった瀬名姫が、某を呼ぶということは、それ相応の訳があるということだと考えております。

 それに……結局のところ、殿と離縁をし出奔した後でもあの御方は、徳川家中にとって益があり続けた。……それが全てでは?」


 出奔する準備のため、服部半蔵正成を三河から遠ざけ伊賀の調査をさせたかと思えば、それは儂が畿内から三河への脱出路の確保であった。となると、与七郎の寄騎依頼も、そして此度の万千代の一件も全て後々徳川家の利となることであろうか。


「弥八郎は、瀬名殿が与七郎と万千代を引き込むことで生じる徳川の利とは何か分かるか」


 流石にこの問いは王佐の才たる佐渡守正信をもってしても暫しの沈黙を要した。


「……少なくとも与七郎殿が居らぬようになったことで三河衆の往時の勢いが弱まり、徳川一門の影響力が上がりましたな。

 万千代の場合も、似たようなものでしょう。殿の家中での権勢が強化されましょう」


 そんなところか。瀬名殿の考え付くことは分からぬ。

 とはいえ、万千代の穴を埋めねばなるまいが……一先ず上野箕輪十二万石は直轄にするか。




 ◇  ◇  ◇  ◇


「表をあげなさい。

 ……久しぶりね。万千代」


「――ご無沙汰しておりました、瀬名姫。いえ、御方様とお呼びすればいいのでしょうか?」


「別にどうでもいいわよ、そんなの。好きに呼びなさい」


 彼――井伊直政を何故このタイミングで呼びつけたのかと言えば。

 彼は関ヶ原の戦いでの戦傷が後遺症となりそのわずか二年後には死亡してしまう。なので、この辺りで確実に関ヶ原の戦いに参加させないように引き抜く必要があった、というわけだ。


 まあ逐電するときに連れてきても良かったのだけれども、直政本人はともかくとして、彼を連れて行くとなると家康に繋がる連絡係を付き人に潜められる不安があった。最初から船で逃げる算段であった私は、そのリスクを許容することができなかった。


「……正直、万千代に対しては申し訳ない、と思っているわ」


「いえ、そのようなことは……」


「言わせて頂戴。

 箕輪で十二万石拝領していたことは伺っているわ。……それにこんな赤子を連れて船旅を強いることになってしまって。

 主君であった家康殿への忠義と、私への恩義。その二つの板挟みにしてしまったことも……」


 彼の妻である花姫もまた、家康の養女であり生家は松井松平家。徳川との縁がある中で直政と私の我が儘に付き合わせてしまっている。

 そして、2人の息子は去年生まれたばかりだ。確か、後の井伊直勝・直孝兄弟だ。直孝は側室の子であり本来であればこの時期は直政は認知していなかったはずだが、そこは私の方で多少手を割いて連れてきてもらっていた。


「……そうですね。もし後十年程あらば、息子に家を任せ単身瀬名姫の元へ馳せ参じることも出来たでしょう」


 まあ、その十年を待つとあなた死ぬから待てなかったのだけれども。

 重たくなった空気を拭うように、私は声を張る。


「それは認められないわね。今でなくては意味が無いもの。

 では、新しい所領の話でもしましょうか。

 まず基本的に我等の領土では、この西岸寺から南部に連なる一帯を除いて殆ど稲作が厳しい環境であることは知っているわよね」


「米が獲れぬとは伺っておりまする」


「万千代に与えるのもそうした領地……というか谷になるわね。

 そしてイスパニア……まあ他家の境が近い、と言いますか。周辺に部族はあれど我等にもその他家にも心服していない、そうした最前線よ」


 彼に与えようとしている場所は我々の勢力圏から見てもかなり内陸にあり、まだ決して平定されたとは言えぬ地だ。


 だがそういう場所だからこそ、本当に信を置くべき者でないと任せられない。


「他家、イスパニア……でしょうか? 彼等の動きは」


「八年程前に、一度イスパニアの探検隊だか偵察部隊だかがそこに住むホピ族と面会しているわ。彼等現地部族は一万余人ほど。我等も彼等とイスパニア双方から話の裏取りはしているので確実な情報よ。


 そこで万千代。あなたの任は二つ。

 ホピ族を仲間に引き入れ、井伊一党とともにイスパニアに立ち向かえる軍備を整えること」


「承知いたしました!

 ……して、もう一つは?」


「この谷……名前が無いと面倒ね。我等に馴染みのある名前にしましょうか。井伊谷、そうね。あそこは盆地であったけれども丁度名前に『谷』も付きますし所縁もあるから新井伊谷とでもしましょう。

 そして任はこの新井伊谷そのものの調査よ。

 だって、たかが谷とはいえ、その広さは三河一国を優に超えるもの」


「は……はあ!? 三河一国でございますか!?」



 上野箕輪十二万石から、新井伊谷に新たに拠点を構えることとなった井伊家は、周辺部族を味方に付けて勢力を広げる傍ら、この新井伊谷そのものの調査も並行して行うのである。

 そしてこの地が雄大な景観が延々と続く、風光明媚な地であることから徐々に物珍しさから人が訪れるようになり、一部の英語圏の来訪者によって、その雄大な自然谷と、この地を治める井伊勢の精強さを比喩して『グランド・キャニオン』とも呼ばれるようになった。

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