第十四話 築山殿の躍進
「さて皆、あけましておめでとう。
正月祝いも兼ねた大評定をはじめていきましょうか」
天正十九年一月一日、西岸寺(北部カリフォルニア)。
蝦夷時代より続けている評定も錚々たる顔ぶれになってきた。
まず私の息子である関口秋田城介信康とその妻の徳姫。さらに孫にあたる登久姫と熊姫も参加している。
そして、私の直臣枠に水軍を率いる興津内記忠能、能吏の伊奈半左衛門忠次、側近衆を差配する岸孫六茂勝こと孫六くんが並び、そこに信康の家臣として榊原孫十郎清政が実質的には取り纏め役として混ざっている。
更に、彼等に引けを取らない重臣枠として、石川島を治める石川与七郎数正とその嫡男、玄蕃頭康長。
彼等の家臣として三河より連れてきた石川一党の他に、石川島北部太平洋岸の先住民であるクヮクヮキワク族に加えて、西岸の大陸寄りのヌーチャヌヒ族も家臣団に組み込んでいる。
長子相続制のあるクヮクヮキワク族の一方で、ヌーチャヌヒ族も石川殿の調べによれば首長によって集落民が集団化・指揮されているとのこと。彼等を家臣団に組み込むのに石川殿は捕鯨船の譲渡と漁船団の組織化においてヌーチャヌヒに一任したらしい。報告を聞いた時は石川殿の順応度合いに驚いた。
逆に、メナシクルやクルムセといったアイヌ諸民族や、イテリメンは所領に在する者と初期に船の扱い方を教えた関係で水軍衆に属する者が多い。それでも私に着いてきた物好きは居るもので、北方で最初期に我等の味方となったニシラケアイヌがアイヌ衆を率いている。
またトリンギットに代表される戌亥人は、石川殿の船団に代表者を送って、年賀の挨拶に参るようになった。
そのおかげで、西岸寺周辺には各戌亥人のトーテムポールが競うように林立し、部族ごとに集まって集会や宗教的儀式が行われている。
そうやって人が集まると、屋店のように料理を供する者らも現れる。油分が多く保存性に優れる魚を干物にして持ってくる部族も居れば、似たような魚を照明に用いている集落もある。
はたまた地面に穴を掘り、そこに食材を投げ入れて大きな葉っぱなどで蓋をして火で燻る、燻製料理を出す集団も居る。……まあ、彼等が撤収した後は土地は穴だらけになるのですけど。
そんな風に土地を荒らされ、我等の本拠地も構えてしまったが、ここも元は先住民族――ネイティブ・アメリカンが住まう場所である。我等一同はあくまで間借りしているに過ぎない。
では、そうしたネイティブアメリカンが我等に不満を覚えているかと言うと、それは――否であると言って良いだろう。
「穴山梅雪。
二年幾ばくかの成果を報告なさい」
「はっ。
近辺に住むムウェクマ、アマ、チョチェニョの三部族を中心に西岸寺周辺の部族から希望者を募り、某や築山殿の伝手を頼り馬を集め、築山殿に対しては莫大な借財を抱え申したが、遂に。ある程度形になりましたな。
――武田の兵法を基にした騎馬軍団が」
狩猟に優れるネイティブアメリカンを彼等視点で見れば未知の動物たる馬に乗せ、武田の軍学で組織したドリームチーム。名実ともに我等の最強部隊である。新参で裏切りの前科のある梅雪斎不白に任せるのは不安が先行したがそれでも任せた理由は、武田一門衆である彼でなければ成し遂げられない仕事であったことと、もう一つ。
彼は、武田の遠江・三河侵攻時――すなわち徳栄軒信玄によって徳川が大敗する三方ヶ原の戦いの前哨戦となる三河の調略の取次役であった。
私の流した家康との不仲説を信じ込み、私と信康に調略の手を伸ばした張本人なのである。
敵として私のやり口を知っていれば、ある程度抑止力にはなる。それで大任を与えてしまえば我等が斜陽を迎えぬ限りは早々裏切るまい。まあそれで裏切ったらそれは、それ。
「ああ、そうでした。
日ノ本の者には、もう何度か定期連絡が行っていると思うけれど、昨年の夏頃に、帝から節刀を賜った豊臣勢によって、北条家は滅ぼされたのは知っているわね。
その関係で徳川家が関八州に加増移封されたから、今の猶予期間が終わると容易には三河には戻れなくなるわよ。まだ間に合うから希望者が居るか通達しておきなさい」
新たに三河吉田城に入った池田侍従照政と岡崎に入った田中久兵衛吉政にはどうやら家康が話を通してくれているようで、移封の引継ぎ期間であれば此方から三河に戻りたい者を帰すことが出来る。
徳川家が統治している頃であれば、何だかんだ言っても繋がりがあるからいざとなれば帰れるという気持ちが我が家臣にもあったのかもしれない。だが新領主の体制下においては領国を渡り歩くのは容易ではない。となれば里心というものは必然湧くものでこれまで付き従ってくれた方らの一部も帰国願いを出し故郷で帰農する者もちらほらと出ている。
「まあそんな感じで別れを告げねばならぬ者も多かれど。
――別れがあるということは、出会いもあるということね。
多くの方は初対面かしらね」
私がそう言うと、小姓が意を汲み、隣室から一人の男を呼び出した。
「――瀬名姫と石川殿につきましてはお久しぶりでございます。
また多くの関口家の御方々、お初にお目にかかります。
北条美濃守氏規――と申します」
故・北条左京太夫氏康の三男で、先の豊臣による小田原征伐では伊豆・韮山城にて圧倒的兵力差の中、四ヶ月もの籠城。
そして、私の幼少期の顔馴染みでもある。
この中では、私以外に唯一面識のある石川殿が場を代表して声を挙げる。
「おおっ、美濃守殿。生きておられましたか。
――それにしても築山殿。よくもまあ北条の縁者を関白殿下が引き渡しましたな」
「それなんだけどね。当主であった左京大夫氏直殿も生きてはいるから、良く分からないのよ。
で、美濃守殿は高野山に蟄居になる寸でのところで、家康殿から流罪とするよう進言したようです。そうよね?」
「はっ。拙者も流石に駿府での奇縁がよもやこのような行く末を生み出すとは……、望外の極みとは正にこの事かと」
実際のところ、秀吉の北条一門への仕置の対応は一貫してはいなかったように思う。ただ……常に人材不足な我が家中において、北条とも言える大大名家の一門衆として関東政権の運営に携わった彼を手にしたのは、まさに奇貨とも呼べる吉事である。
「公儀の目はここまで光らないと思うけれども、美濃守殿は表向きは流罪なので暫し所領は与えられないわ。その代わりに信康の元に付けるわね」
美濃守氏規は異は無いようで、頷き返す。
そしてその返答を見た信康は満足そうにこう述べる。
「では、美濃守殿。今後はご指導の程、よろしくお願いいたしまする。
日ノ本での戦のこと。所領の治め方。そして父上や母上の幼き頃のこと。伺いたき儀が山程ありますれば……」
つい去年まで、日ノ本の天下の軍を相手取っていたということもあり、最初から信康の好意が振り切っている。
でもねえ、サプライズはこれだけではないんだよ、信康?
「――もう一つ。
本年の大評定には間に合わなかったけれども、今。日ノ本から向かってきておる者がいるのです。
到着はしばし先になるから、先に名前だけ伝えておくわね。
新しく来る彼の名は……」




