ここどこ!?!?!?
夜空には真ん丸の月。綺麗な星空の広がる澄んだ夜だった。川には清流が流れ、蛍が集まるということでプチ観光地になったこともある。そんな風情のある景観に目もくれず、自転車をがちゃがちゃと言わせて漕ぐ鬼のような形相の女がいた。名を篠崎優紀という。
「あんっっっのクソ上司、私が、家遠いの知ってて、残業させてんだろうな、クソ、いつか、ぶん殴る!」
ぜえぜえと息を乱しながら自転車を漕ぐ。家はこの田舎にあるが仕事は市内に近いところにあるクリニックで医療事務をしていた。市内に出るのはそこそこ時間もかかるし、電車の本数は少ない上終電がこの田舎まで乗るとなると八時三十分と早めの設定だ。おかげさまで今日は終電にギリギリ乗り込み、鬱憤晴らしついでに全力で自転車を漕いでいたのだった。
流石に二十分も全力で漕いでいると息も続かない。疲れて、一旦自転車を降りる。とぼとぼと夜道を歩きながら転職しようかななどと考える。最近残業も増えてきたし…。給料はきちんと残業代が出るから良くはなっているのだけれど、さすがに身がもたない。労力と対価の不釣り合い甚だしいというものだ。この仕事して資格も取ったし、思い切って引っ越しと転職、してもいいかもなあ…と考えに耽る。
なので、気が付かなかったのだ。後ろから近づいてくる車が、端によりすぎていることを。その車が、酒気帯びで優紀の姿を捉えてなどいなかったことを。
気が付いたら、撥ね飛ばされて反転した視界に迫ってくる車のタイヤと、離れたところに転がるひしゃげた自転車が見えた。
これはまずい、轢かれる——咄嗟に体を丸めて防御姿勢をとった。
「はっ!今何時!?」
ぱちりと目を覚まし起き上がる。すると目に飛び込んできたのは見慣れた自分の部屋——ではなく、波音の美しい海岸だった。
「…バカンス?」
つい口をついて出たのは呆けた一単語だった。
〇
その頃、市内の病院にて。
処置を施されベッドに横たわる——優紀がいた。折れた手足にギプスがはめられ、顔にこれでもかとまかれた包帯が痛々しい。
傍には年老いた母親が涙をぬぐいつつおとなしく椅子に掛けて優紀を見守っていた。
「篠崎優紀さんのお母様ですね?」足取り軽やかに医師が部屋へ入ってくる。
「ええ、そうです。この子は…この子は大丈夫なんですか?」
「ええ、骨折をはじめとして外傷は見受けられますが、幸い脳にも内蔵にもダメージは見受けられません。じきに目を覚まされると思います。…ただ、残念ながらお顔の擦過傷は傷跡が残る可能性もあります。ショックでしょうが、命あっただけでも幸いでしょう。」
「そうなんですか…。」ほっと息を吐く。
「救急隊員の言う所見では、轢かれる直前に防御姿勢をとっていたのだろうとのことでした。私も外傷から見てそう思います。…お子さんは良い判断をされました。」
「ありがとうございます、先生…」
そういった母親はおもむろに鞄に手を伸ばす。誰もがハンカチを出すのだと思った。しかし手にしていたのは——沢庵。
沢庵…?と室内の全員の思考がぴったり一致したその時
「優紀――!起きなさい、あんた無事なのよ!好物の沢庵だって持ってきたんだから!早く起きなさい!」
真空パックの封を切って、優紀の顔面に押し付ける。包帯が黄色く染まってゆく。
「お母さん!?病院で、病院で沢庵はやめてください!」
誰か、誰かーー!と叫ぶ医師、思わずナースコールを押した対面のベッドの患者。その日のうちに室内に足を踏み入れたものは全員「沢庵…?」と疑問符を浮かべるほどには強く香りが残っていたという。
〇
浜辺で目を覚ました優紀は、ただぼんやりと遠くを見つめていた。ざぶん、ざざんと打ち寄せては引く波の音が心地好い。
「・・・ここは天国かぁ・・・?」
目が覚めてしばらくしたら自分の現状を思い出した。たしかヤケクソで帰っていたら轢かれたんだっけ・・・?とするとやはりここは天国なのかもしれない。周りに流木とかなにやらいろいろと落ちてて随分世俗っぽいけど。
そうでなくとも、仕事からしばらく離れることができる。それだけでもう天国といってよかった。
ふと、顔も髪もじゃりじゃりとしていることに気がつく。それもそうだろう、こんな砂浜で寝てて潮風に吹かれていたんだから。とりあえず後がどうなろうとしったこっちゃない、この不快感を取り除くため・・・そしてこんな大海原が目の前に拡がっているともなればやることはただひとつ。
「ひゃっほーう‼」
思いきって海へ飛び込む。もちろん、そこそこの深さのところまで進んでからだ。天国で怪我などしたくはない。解放感も手伝って、普段なら恥ずかしくて上げられない声だって、こんな一人ぽっちの砂浜でなら存分に上げられる。なんて気持ちいい‼
顔も含めて全身を水に浸し、じゃぶじゃぶと髪を濯ぐ。身を清め終わってからは波の揺れに身を任せ、心地好く青空を見ていた。あー・・・こんな良いことがあるなんて流石は天国・・・ここにビールがあればもっと最高なのに・・・と、あの喉越しとほのかな苦みとホップの香りを思い出す。あぁ、ビール飲みたい。あぁ、でも天国というと出て来てもビールじゃなくてワインかな?ワインもあれはあれで温度いかんで違った表情を見せてくれるのがまた良い・・・もういっそのことワインでもいい。なんなら折半でスパークリングワインとかでもいい。ドリンクがほしい・・・。
アルコールのことをつらつらと考えていると、そういえば喉が乾いたな、と気がつく。ふわふわ漂っていたのを慎重に足をつけた——はずだった。岩場で足を踏み外し、水の中にダイブしてしまう。
「うえっ、ゲホッケホ、」
気管に入ったようで少しむせる。・・・あれ、これ。しょっぱくない。たしかに日にあたって乾いた肌も潮っ気がなく、さらさらと乾いている。なんだ、ここ、淡水なんだ。じゃあ湖とか・・・?
って、そもそも天国だーなんて現実逃避してたけどこれ、轢き逃げされて湖にボチャンパターンなのかしら。…あらやだ。
柄にもなくおばさん染みたことを考える。体に異常がないのが不思議だがそこはそれ、上手くその・・・あれだ、避けれたんだろう、多分。そう無理矢理納得させて岸へ上がろうとする。
その時。あれまー?さっきまではしゃいでたけどなんだか湖面に見知らぬ顔・・・が・・・。優紀はまじまじと湖面の顔を見つめる。
なに?この顔。二十代前半ってとこかな。髪も、私は焦げ茶だけどこの顔は黒くて艶やかな髪をしている。それがなんで湖面に?
いや、わかっている。理屈ではわかっているのだが、そんなわけがないと否定する自分がいる。
だって、事故ったからって整形したみたいな顔になる?普通。
湖面に映るその顔はどう見たって自分の表情と動作にリンクしていた。——つまり、紛れもなく「顔が変わった」という事実を指し示している——。
○
一方その頃、病院では。
「おや、今日はお爺さまがお見舞いに来られてるんですね。こんにちは、主治医の恩田といいます。」
「あれまぁ、随分お若いのに立派なことで。お世話になっとります。」
「いえいえ、僕ももうアラフォーですから。最近揚げ物がつらくって。」
「ほうですかぁほうですかぁ。ならこれがお勧めですわ。今日孫に食べさせようとして持ってきた沢庵・・・さっぱりしていいんだで。」
おれの畑で取ってきたんだぁ、とニコニコと笑う。流石に受けとらないわけにはいかず、ありがとうございますと言って受けとる。
「ほんじゃあ孫にも食べさせてやろうかね。こいつはつけもんが好きなもんだから」
そういってタッパーをパカリと開け、徐に箸でつまんで患者の口に押し込もうとする。
「あーーあぶなぁい‼気管に詰まるでしょう⁉それに病院では沢庵食べるのやめてくださいってお母様にも言ったんですが!」
「食べとらんよ、食べさせとるんよ。」
「一緒です!とにかく危ないのでそれはやめてくだごがっ」
やれやれしょうがないなーとでも言わんばかりにおじいさんは恩田の口へ沢庵を三切れほど突っ込む。あ、美味しいこれ。このしっかりした食感、うわあすごいいい大根と漬かり具合で・・・この塩味具合ちょうどいい・・・じゃなくて!
「ほひいはん!ほひいはん‼」(おじいさん!おじいさん‼)
「優紀ちゃんに食べさせたくて持ってきたんじゃあ!」
「ほんひんはへんひひはっへはははっへふははい!はへはー!はへはー‼」
(本人が元気になってからやってください!だれかー!誰かー‼)
この度も対面の患者が怯え気味にナースコールを押したことで人出が増え、どうにか押さえることができた。沢庵は切り分けられていたからか、前回よりかは残り香はましだったという。