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危険な寒さ

作者: 村崎羯諦


 今年の冬は危険な寒さに要警戒だ。東京都内では、一月時点ですでに数十人もの死傷者を記録しており、気象庁はおよそ二十年ぶりとなる特別注意喚起を発表した。

「今年の寒さは危険だ。去年の穏やかさがまるで嘘みたいだよ」

 危険な寒さに襲われた一人、羽田卓司(五十才、自営業)氏は負傷した右太ももをさすりながらインタビューに答えてくれた。

「あれは深夜0時頃だったかな。小腹がすいたんで近所のコンビニまで行ったんだ。そして、その帰り道よ。俺は街灯が遠間隔にしか設置されていないような、真っ暗で人通りの少ない道を歩いていた。そこに突然現れたんだ、寒さの野郎が。俺はあんまりニュースとか見てなくてな、今年の寒さは少しばかり様子がおかしいってことを知らなかった。だから、何の警戒もしないままその横を通り過ぎようとしたんだ。だけど、何気なく寒さの右手を見た瞬間、やつが銀色に光る包丁を強く握りしめているのに気がついた。だが、それに気がついた瞬間にはもう寒さは無防備だった俺に襲いかかってきて、俺の右の太ももをぐさり、と包丁で一突きってわけだ」

 羽田氏はそう言うと、巻かれていた包帯を剥がし、生々しい手術痕を見せてくれた。寒さは包丁を羽田氏の太ももに突き刺した状態でその場を立ち去ったらしく、悲鳴を聞きつけた通行人によって運良く羽田氏は一命をとりとめた。痛みよりも恐怖よりも、なんで俺がこんな目に、という感情が強かったな。生死に関わる危機を乗り越えた羽田氏は、どこかおどけた調子でそうつぶやいた。

「人間相手に殺されかけてたらよ、もっと憎たらしいとか殺してやるとかっていう気持ちになってたと思う。だけど、相手は自然現象だからな。こうやって運が悪かったって自分に言い聞かせるしかないんだよ」

 羽田氏は術後一週間もしないうちに仕事に復帰し、今現在では以前と同じように働いている。別れ際に交わした握手からは、羽田氏の力強さと寛大な心を感じ取ることができたような気がした。

 気象庁の予報によると、こうした危険な寒さは3月初旬まで続くと報じられている。国や政府による対策も行われているが、あまり効果が出ていないことが現状だ。そのためにも、夜に一人で出歩かないなど適切な防寒対策を個人個人が実施することが求められる。運の悪さをどうこうすることはできないかもしれない。だからといって個人でできることをしなくていいという理由にはならないのだ


****


「どうですか?」


 編集部の小笠原さんは原稿から顔をあげ、大げさにため息をついた。


「駄目駄目だよ」


 俺は小笠原さんの言葉に肩を落とす。原稿を読んでいる時の険しい表情から察することはできていたものの、心の何処かでひょっとするとという期待がなかったわけではない。


「ルポという形式もさ、別にこの表現形式でなきゃならないっていう必然性が僕には見当たらない。それにルポにしては伝える情報量が少ないし、インタビュアーの口調も砕けすぎていてどっちつかずになっている。それに設定もこれで押すには弱すぎるよね。何だよ、寒さが包丁を振り回すって。ありえない設定ならありえない設定でさ、もっと面白くしないと読者は満足しないよ?」


 小笠原さんの指摘が胸に突き刺さる。俺は唇を噛み締めながら、小笠原さんのダメ出しをじっと聞き入れた。落選続きの自分に目をかけ、ここまで付き合いを続けてくれている彼には感謝しかない。そんな小笠原さんの期待に応えられないことが自分にとってはどうしようもなく悔しかった。確かに口が悪いところはある。それでも何年も自分の凡作を読み続けてくれているたった一人の人間だった。


「斉藤くんもいい年なんだしさ。もうそろそろ現実を見てもいい頃合いなんじゃない?」

「え?」


 俺は小笠原さんの言葉を思わず聞き返す。


「いつまでも夢を追い続けてるわけにもいかないでしょ。この前の公募も二次で落選したらしいし。執筆の時間を減らしてさ、もっと奥さんや子供と向き合う時間を作るのも大事だと思うよ」


 俺は小笠原さんを見つめ返すことしかできなかった。俺は作家になる才能がない。今まで何度も頭をかすっては、蓋をし、考えることすら避けていた現実。小笠原さんは原稿を俺に返却し、気の毒そうに眉をひそめた。


「ま、今日明日中に決めろとは言わないから。とりあえず、今日はもう帰っていいよ。また良い作品ができたら持ってきなよ」


***


 電車に揺られながら、俺は小笠原さんの言葉をじっくりと噛み締めた。努力し続けてさえいれば夢は叶う。それはフィクションの世界だけなのだろうか。俺はぼんやりと流れ行く車窓の景色を眺め続けた。判を押したような毎日。鋳型で大量生産されたような建物たち。もしかすると、テレビや雑誌に出てくる人間たちは俺が生きている世界とはまた別の世界の人間なのかもしれない。


 彼らが謳う夢と希望に踊らされて、目と鼻の前につらされた人参を追いかけている滑稽な人間。しかし、ふと足を止めて冷静に辺りを見渡せば、胸躍るような興奮もヘンテコな裏設定もない、無味乾燥な砂漠。俺が生きている現実というのはもしかしたら、そういうものなのかもしれない。


 俺の下車駅の名前がアナウンスされる。俺はハッと我に返り、慌てて開いたドアから降りようとする。しかし、そのタイミングで寒さが電車に乗り込もうとしていて、俺の肩と寒さの肩が激しくぶつかった。「すみません」と謝る俺。「あ、大丈夫です」と寒さ。


 俺は急いでホームへと降りる。背後で電車のドアが締まり、進行方向へと電車が動き始める。俺は電車の方へと振り返り、車内でつり革を掴んでいる寒さに、もう一度謝罪の念を込めて頭を下げた。寒さも電車の外に立つ俺に会釈を返す。俺は肩をぶつけても苛立ちもせず、包丁を振り回すような凶暴さとは縁遠い、穏やかで紳士的な寒さを見送った後、改めて自分が持ち込んだ原稿をカバンから取り出した。


「確かに……現実ってこんなもんだよな」


 大人しく、何の面白みもない現実を受け入るしかない。俺は原稿を丸め、そのまま燃えるゴミへと放り投げた。

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