第十六幕 バタイユ
「クーン……よね、あんた」
「そうですよ。クーンです。バタイユちゃん」
「ええ……同じクラスだけどあまり会わないものね。ま……そりゃ皆そうか」
場はまるでお通夜のようだった。アダムは完全に意気消沈し、バタイユはどこか気の抜けたようであった。ナッシュは先ほどの激昂したのが嘘のようにポーカーフェイスを取り戻し、勝利に酔いしれる様子もない。
しかし新たに加わったクーンは、なんというかこう……一人浮いていた。カラッとした空気を纏っている。
「バタイユちゃん、元気ないですね」
クーンは一人だけ妙に明るい。場に加わったばかりだからか、何事もなかったかのように話す。
「これ以上やってもしょうがないわ……」
バタイユが呟いた。いや、それは私やアリスも含め皆の気持ちだっただろう。
ナッシュが言葉を返す。
「一応、最後までやる気なくさないで下さいまし、バタイユさん。それにあなたのリクエスト通り、ニーチェさんの堕ちるところを見られたんですわ。どうでしたの? 完全無欠の彼女が追い詰められ狂気にとらわれた姿は」
「……思ったほどいいものじゃなかった」
「あら、そうですか」
バタイユは、ため息をついた。そしてがらがらと牌をかき回し始めた。
「……ま、いいわ。時間切れまでつきあうわ。終わらせましょ。もうこの大会、意味ないわ」
「え? 何言ってるんですかそんなことありませんよ」
クーンがそう言ったが、誰もうなずかなかった。
「ニーチェさん……もうちょっと手ごたえがあると思いましたが、所詮は凡人だったということですわね」
誰に言うともなく、ナッシュが呟いた。
「違うわ」
否定したのは、バタイユではなくアダムだった。
「ニーチェは凡人じゃないわ」
「あら、どうして? 結局は何もできなかったんですわ」
「どうしても」
「くすっ。何ですの? 思わぬ笑顔にやられてしまいました? でも結果を見れば一目瞭然ですわ。ニーチェは打つ手が無くなって、やけくそになったか、あるいは狂ってしまったか、どちらかです」
アダムは睨んだだけで反論しなかった。バタイユもまたどこかあらぬ方向を見たまま何も言おうとしない。
「やだなあ。そんな訳ないじゃないですか」
能天気な声が妙に響いた。クーンだった。
「ニーチェちゃんは狂った訳じゃありません」
へえ、と眉根をあげるナッシュ。
「クーンさん……ですの? 意図的にチョンボを連発して持ち点全部失くしてしまうのが狂っていなくてなんなんですの?」
「ニーチェちゃんはですね……壁を壊そうとしていたんです」
クーンは山から牌をとりながら言った。
「壁を……?」
「ええ。囚人のジレンマという壁です。紅白に点数の行き来が無くなり、わずかにリードした白組との差が致命的な差として残り続ける。このままでは負けてしまいます。大変です、紅組ピンチです、そういう状況でした」
「ええ、そしてそれに追い打ちをかけたことになりますわ。ニーチェがチョンボを繰り返したせいで、わずかだった白組との点差は、もうかなり広がってしまいましたわよ?」
クーンは、首をかしげた。
「そこです。どうして皆さん、気づかないんですか?」
クーンは、自分の牌をパタパタと倒した。
「え、何、まさか、上がって……」
ナッシュが慌てる。
「…………待って。クーン、あんたどういうつもり」
バタイユが咎めた。
クーンは屈託なく笑いながら両の手のひらを見せた。
「はい、チョンボです」
「はぁ?」
「いいじゃないですか。私の持ち点からいけば、あと四回チョンボするまでは飛びませんよ」
「あんたまさか……ニーチェの真似でもしてるつもり?」
バタイユの声が低くなる。
「ええ、そうです」
さらりと言うクーン。
「さ、猿真似なんかして……馬鹿にしている訳? あ……あんたにニーチェの何がわかるの!?」
バタイユが怒鳴った。
「馬鹿に? とんでもない。私もニーチェちゃんと同じです。勝ちたいだけです。バタイユさん、意外に見る目ないんですね。本当にニーチェちゃんほどの人があの程度で追い詰められるだなんて思うんですか?」
「……何ですって?」
バタイユが目を細めた。そして数秒。大きく目を見開く。
「ニーチェちゃんの点が少し足りなかっただけです。だから私が勝手に引き継ごうとしているんです」
そう言って、クーンは牌をかきまぜ始めた。次のゲームへ、ということか。
「何ですの? どうやらクーンさんもどこかネジが抜けてしまったみたいですわね、ニーチェさんみたいに」
バタイユが拳を卓に叩きつけた。
「黙んなさいよ……。ナッシュ……。あんた、失敗したわ」
「はっ? 失敗? 何がですの?」
声が高くなるナッシュ。
「ニーチェは折れてなんかいない。そうよ。あの目。意志は少しも失われていなかったってのに。私は何を見ていたの?」
そして、バタイユまでもが。
がしゃり。
山を崩した。
「……何の真似ですの?」
「決まってんじゃない。壁を壊すのよ」
そう言ってナッシュを見ようともしないバタイユ。ナッシュはため息をついた。
「よくわかりませんわ……。どうもこの学園には話の通じない方ばかり。退場がお望みならそんなことせずとも私があなたから上がってあげますのに。交代してくれても構いませんけれど」
「いいえ結構よ。私の点数分、あとニ回。クーン、そっちはあと何回?」
「三回です。あ、スミスちゃんはいいですよ。誰もいなくなっちゃったら困りますし」
「て……言われても何のことだか……」
アダムが一人困惑する横で。
ガシャン。
ガシャン。
もはや麻雀大会ではなくなっていた。牌を積み、山を作ったら壊すゲーム。バタイユは立て続けにチョンボを重ね、持ち点が底をついた。
「じゃ、さよなら。どうなるかわからないけど、面白かったわ」
立ち上がるバタイユ。長い足にまとう布が実に美しい曲線を描く。
と、バタイユは歩いていこうとして急にくるりと振り返った。アダムに近づく。
顔を近づけた。
「え、何……」
言いかけたアダムも、見ていた皆も、固まった。
なんと、頬にキスをしたのだ。
「え、な、な」
完全に頭が真っ白になり顔は真っ赤になるアダム。
「じゃーねー」
バタイユは手をひらひら振って、カーテンの向こうへ消えていった。
「何なの何なの? ねえなんなの?」
アダムが混乱している。
すると、私の隣でアリスがしみじみと言った。
「たぶん応援しているという意味でしょうね」
「そうですよ。応援してるんです」
クーンが楽しそうに言った。