第十五幕 ナッシュ
「……え、誰……」
アダムがつぶやく。
「あんたの知り合いじゃないの? この女」
「この女とはご挨拶ですわ。バタイユさんでよろしかったかしら? 同じチームなのですし仲良くいたしましょう?」
「あんたは嫌いよ」
ぷいと首をそむけるバタイユ。
私はアリスと顔を見合わせた。
「あの人知っていますか? アリス。私は見たことないですが……」
「私もですバークリー。初めて見る顔です。この学園にあんな子がいたでしょうか」
やや小声で話していた私たちの方に、ナッシュと言う少女は顔は向けずに言葉を向けてきた。
「私この学園に来たのは今日が最初ですの。孫子さんに呼ばれまして……。交流生という扱いになりますわ」
「交流生……ですか? 一時的な滞在ということでしょうか、ナッシュ……さん」
「ええ。一週間ほどですけれど。私の目的はアダム・スミスちゃんただ一人だもの」
「わ、私? え、あのさ、私あんたのこと知らないんだけど……何? 天敵ってどういう意味?」
アダム・スミスが牌をかき回す手を止めて言った。しかしナッシュの方は意に介した様子はなし。口に手を当ててホホホと笑った。
「今にわかります。でも悔しいですわね。少しも覚えてくれていないなんて」
「うーん……。会ったことあったっけ……?」
首をひねっているアダム。
「あんた、アダム・スミスなんてどうでもいいのよ。それより私が見たいのはニーチェの……」
指を突きつけたバタイユに対して、ナッシュは眉をひそめた。
「あなたわかっていませんわ。アダム・スミスちゃんの持つ力を……。それに比べればニーチェさんなんてこの世界に何も影響の無い人ですわ」
「はあ!?」
バタイユが怒りの声をあげた。それを見たナッシュはため息をついた。
「うるさい人ですわ。バタイユさん。何を考えてらっしゃるのかしら。別に良いのではありませんの? あなたがニーチェさんばかり見ているように、私はアダム・スミスちゃんだけが興味の対象ですの」
「あんたこそ何考えてんだかわかんないのよ。アダムが何だっての? 神の手だっけ? 私見たことないんだけど? ほんとは無いんでしょ、そんなもの」
ナッシュは肘を卓について手を組んだ。
「ばかな人ね。同じ学校にいてわかりませんの? きっと永遠にわかりませんわ。神の見えざる手は実在しますのに」
そう断言するナッシュ。そしてアダムを見て、笑った。
「……ねぇ?」
「あ、あんた……私の何を知ってるの?」
アダムは困惑、ただ困惑といった表情だ。
そして、そのまま無言の時がしばし流れた。
私もアリスも、いや場の誰もが、口数が少なくなっていた。なんだろうこの、どこか嫌な空気。
「……何か、使うのね」
沈黙を破ったのはニーチェだった。静かな口調。なのに、静まり返った教室で誰かが大声を出したように。特に大きな声ではなかったのに、その極限までコントロールされた呼気に無駄なく音を乗せた声が、空気を割ったように場を塗り変えていく。
「うふふ。ダメですわニーチェさん。あなたの出る幕じゃないんですのよ。……」
ナッシュの表情は彫刻のようだった。美しい、しかし生気の無い。
「それでは……神の見えざる手を封じさせて頂くことにしますわ」
突然そう宣言した。
え、とアダムが声を上げるが彼女はそのまま右手を高くあげ、手のひらを上に向けた。そして、言葉を発する。
「囚人のジレンマ」
ザザザザザザザザザザッ。
私の頭の中に、堅い金属片をかき回すような大音響が響き渡った。
「……!!!」
激痛に似たものを感じて指でこめかみを押さえる。
「か、か……」
「だ、大丈夫ですかバークリー」
隣のアリスに、私は大丈夫と手を上げ、ちょっとトイレと言って廊下へ走り出た。
「はぁ、はぁ、はぁ」
呼吸がうまくできない。
「こんな……」
世界が書き換えられた。たぶん、今まで私が体験したどれよりも、乱暴に、堂々と、強引に……!
私は目を閉じる。恐怖でしかなかったが、心の奥底にしまわれたフィルムを手に取る。そして目を開く。一体何が書き換わって……。
「……えっ!」
思わず声をあげた。
フィルムが、割かれている。半分になっていた。二本のフィルムに。
見たところ、特に何かが書き換えられた様子はない。ただ、フィルムが半分にちぎられているのだ。その意味が私にはわからない。
だがこれがナッシュの仕業なのはきっと間違いない。あの子は一体なんなのだ。
私は急いで部屋に戻る。
「お待たせしましたアリス。状況は」
「あ、ええ……今のところ大きな動きは……。ただ両チームとも黙々と牌を切っています」
「……」
わからなかった。何がなされたのか、私にはわからない。だがしかし世界は確実にその姿を変えている筈だ。卓上には……必ず異変が起こっている。
*
しばらくは、何事も起こっていないかのように見えた。ナッシュはごく普通に麻雀を打っているように見え、特にイカサマが行われているようにも見えなかった。
だが。そのことに、初めに気がついたのは、ニーチェだった。
「妙ね……。点が……稼げていない」
「え」
アダムが聞きとがめる。ニーチェは言う。
「さっきから私もアダムも何度か上がっている。にも関わらず、点が変わってない……」
「変わってないって……私、減ってるよ? さっきニーチェに振り込んだから今……」
「いいえ。そうじゃなくて紅組としての点が変わってないのよ」
「あ、私とニーチェの合計が、ってこと? でもそれは……ナッシュもバタイユも上がってるからじゃない? トータルで取り返されてるだけじゃ……」
「違う。アダム。私はあなたからしか上がってないし、あなたは私からしか上がっていないのよ。そしてナッシュはバタイユから、バタイユはナッシュからしか上がってない」
「……え、あ。そういえば……」
「なぜか誰もツモ上がり、つまり全員から点を貰う上がり方をしていない。誰かの捨て牌で上がりその人から点を貰うロン上がりばかり。しかもその当たり牌は味方からしか出ていない。だから……上がった回数自体は私たちのほうが多いのに、トータルでは白組が若干リードしてる状況から一点も動いていないわ。白組赤組の間で点が移動してないのよ」
「ど……どういうことなんだろ」
アダムが首をひねる。ニーチェはナッシュに向かって言った。
「わからないけれど……これが、あなたの仕掛けたものね?」
ぷっ。吹き出したのは……ナッシュだった。
「気づいたわね。……そうよそれが、囚人のジレンマ。あなたたち二人はもう、囚人なの」
「な……何をしたの」
「そういう魔法なんですわ。神の見えざる手の力が働かない状況を作ったんですの。アダム・スミスちゃん、あなたは間違ってるってことですわ」
「……は? え、何で急に私の」
「あなたいつも言ってるらしいじゃない? みんなが自分の欲望に従って、自由な意志に従って行動すれば最良の結果が得られると。それは嘘だってことですわ。見えざる手は確かに存在するけれど、それは嘘っぱち。その手は、神の手なんかじゃ無いってことですわ」
くすくすとナッシュは笑い続ける。アダムは目を見開いたまま何も言えなくなっていた。
「考えてみれば当たり前ですわ、みんながそれぞれ自分の欲望に従えば、絶対にうまくいくなんて甘い幻想ですもの。それには二つの条件が必要なのですわ。全体の利益が膨らむ余地があること、そしてそれぞれの欲望が味方の攻撃だけに向かわないこと。この二つを封じた時……神の見えざる手はその力を失うのですわ」
「同士討ちと、点数の固定……」
「そうですわニーチェさん。囚人のジレンマによって、皆の上がり牌の出現に制約が設けられましたの。私達は皆、味方の捨て牌からしか上がることができませんわ。そして紅組白組のそれぞれのトータルの点数を固定いたしました。味方同士で点が移動することはあっても、トータルとしては白組優位のまま。白組の勝ちは確定しましたわ」
「それが囚人のジレンマ……という訳」
「ええ。今この場に仕掛けたのはそういう魔法ですわ」
「なるほどね……。私たちが囚人ってそういう意味か」
ニーチェが呟く。
「囚人のジレンマってのはこういう思考実験よ。ここに二人の囚人がいる。それぞれ懲役一年だけど本当は共犯で懲役三年の罪を犯してる。だから刑務官は二人に持ちかけるのよ。相手の罪を密告すれば無罪にしてやるぞ、その代わりお前が黙って相手が密告したら懲役五年だぞってね」
「……そうですわ。さあアダム、もしもこの時貴方の言う「誰もが自分の自由な意志に従うべき」が正しいとするならどうしますの? 答えて下さいまし」
「えっ。そ、それは……」
「答えられない? では代わりに私が答えますわ。お互いに密告するんですの。だって相手が密告するにしろしないにしろ、こちらは相手の罪を密告した方が刑期が短いんですもの。ね?」
確かに、相手が密告するならこちらもしないと五年、すれば三年。相手が密告しないとしてもこちらはしなければ一年。すれば無罪だ。どちらにしても密告した方が良い。
「それが神の見えざる手がもたらす結果ですわ。……でも不思議ですわよね? だって、お互いに密告しなければ一年で済んだのが、お互いに密告したばかりに三年の刑になってしまうんですもの! 神の見えざる手は最良の結果を導くんではなかったんですの?」
「そ、それは条件が……」
「そうですわ! お互いの欲望が相手を攻撃することにしか向いていないこと、そして全体として利益が膨らむ余地が無いこと、この二つが神の見えざる手にその力を失わせるのですわ! 言ってしまえば神の見えざる手の天敵、なのですわ」
「……」
ナッシュはもう興味を無くしたように沈黙した。ニーチェもそれ以上言い争おうとしなかった。バタイユはそのニーチェを時折チラチラと見ている。そして心なしか……アダムは震えているようだった。
「バークリー。よくわかりませんが、ナッシュが何か仕掛けたということでしょうか。確かにさっきから紅組と白組の間での点数の移動が起こっていません」
「はいアリス。これはイカサマの類ではないようですね。ナッシュの言葉を借りれば、魔法……ですか。どうもテンパイした場合に当たり牌が必ず味方の手牌に現れる、というように確率が操作されている……ということのようですね」
「……となると、これは紅組ピンチですね。現在白組がリードしていますが、これをひっくり返すことがどうやってもできないということになります」
卓は再び沈黙に包まれていたが、それを破りナッシュが語り始める。
「アダム。あの日、神の見えざる手によって私たちのクラスは優勝しましたわ。でもあなたは間違っていますの。神の見えざる手は……弱者を苦しめますわ。それを教えて差し上げるために私はやってきたんですの」
アダムはおそるおそる尋ねる。
「……クラス? 優勝?」
「覚えてないんですの?」
ナッシュは一瞬泣きそうな顔になり、次に怒りの形相に変わった。
「そうですわね。忘れてしまえるんですわよね。あの日、クラス全体が勝利に浮かれている中で敗北に泣きぬれる私たちがいたのも。でも、私はあの敗北感を誰とも共有できない惨めさは……一生忘れませんわ」
「ご、ごめん何の話? お……思い出せない」
不思議そうに問うアダムにナッシュは怒鳴った。
「あの運動会の日ですわ! 小学校四年生の!」
激昂。
「四年二組。運動会の出場種目を決める時、誰もが自分の好きな競技に立候補しましたわ。好みがぶつかれば実力勝負で決めました。必然的に運動能力に乏しい私たちは人気の無い、点数配分の低いどうでもいい競技に追いやられましたの。障害物競走、パン食い競走……。一方で花形のリレー、騎馬戦に抜擢された子たちはクラスでも運動神経抜群の子達ですもの。見事に点数を稼いだうちのクラスは優勝。先生のご褒美のチョコレートはみんなに配られたけれど、ビリで優勝に貢献してもいない私たちがどんな思いであれを食べていたか、あなたわかりますの?」
ナッシュは興奮したまま続ける。
「あなたは、言い放ったのですわ。泣いてる私に向かって」
「……な、何を」
「あなたのおかげだよって、そう言ったのですわ。私は耳を疑いましたわ。どういうことですの? 運動神経の無い私が障害物競走で足をもつれさせて転んで膝を擦りむいたのが、一体どう、あなたのおかげ、なんですの? どう優勝に結びついたんですの? ええ、ええ。わかってますわ。痛烈な皮肉ですこと! 点数の大きいリレーで同じことをされたらそれこそ大損害ですものね。全員何かしらの競技に参加しなければならないのなら、私みたいな運動音痴は、点数配分の低いどうでもいい競技に出てくれて助かった、そういうことなんですわよね!」
興奮するあまり自分の牌をいくつか倒してしまっているナッシュを見かねてバタイユが声をかける。
「ちょ、落ち着いてナッシュ……。あんたそれ小学校の時の話でしょうが。根に持ちすぎよ」
だがナッシュはきっとにらみつけた。
「どうせあなただってそちら側ですわ。わからないですわよね。ええ、別に私だって、それが戦略だって言われたなら諦めもつきますわ。自分が運動音痴だなんてことはわかってますもの。孫子さんのように、誰が負ける担当なのかはっきり言ってくれるのなら、いっそ気持ちがいいですわ。でも私は皆になんて言われましたの? 皆でがんばろうって言われたのではなかったんですの? だから私だってチームの一員として、一生懸命勝つつもりで、それが、それが……その必死さが、結局は実を結ばなくて、でもそれがベストだったなんて言われたら、こんな悔しいことはありませんわ。あなたのその、見えざる手がそうしたと言うのなら……!」
誰も彼女を止めることなどできなくなっていた。だってナッシュはもう、さっきから泣いているのだ。
「私が、あなたの、その手に、ひぐっ。すくって…救って貰えないのなら……!」
ダンンンンンンンンンッッッッッ。
卓が裏返りかける。バタイユがあわてて抑えた。牌が崩れてかきまざる。
「その薄汚い手なんか、消し飛ばしてやりますわっ」
吠えた後、ナッシュは頭を垂れ、肩で息をしていた。
皆、何も言えない。
数分、黙ったままだったろうか。やがてナッシュが顔を上げた。
その眼光は暗い、暗い、しかし眩しいくらいに暗い光を宿している。
「約束して欲しいんですわ」
ナッシュが急に語調を抑えて言った。
「この戦いに紅組が負けたら、アダム。もう二度と、その神の見えざる手、使わないで下さいまし」
それだけ口にして、ナッシュは牌をかきまぜ始めた。しかし他の三人が誰も手を動かさない。がらりがらりと、妙にゆっくりとしたナッシュの洗牌の動きだけが響き渡った。
アダムは何も言葉を返さなかった。うなだれて、もはや顔をあげる気力も無いようだった。バタイユは、どこかふて腐れたような顔で、場を見ている。
しかし言葉を発した者がいた。
「救ってもらえなかった、か」
ぽつりと聞こえた台詞が、場に再び凍えた空気を呼び込む。……ニーチェだった。
「なんだ、救ってもらいたかった訳ね」
「……何ですの?」
「自分の力の足りなさゆえに、障害物競走に負けた。それを慰めて欲しかった。頑張ったね、よくやったねって言って欲しかった」
「……」
「でも誰も言ってくれなかった。それでスネた」
ニーチェが辛辣に言葉を紡ぐ。
「……良い度胸ですわね。ニーチェさん? あなたがどれほどの天才であるのか知りませんけれど、頑張った人間を馬鹿にすることは許されませんわ」
「許されない? 誰に許されないの? ……神様?」
「……何ですって?」
「残念。神は死んだのよ。ナッシュ? どれだけ頑張ったかなんて関係ないのよ。頑張ったことを誰かに認めて欲しい? お手軽な逃げ道ね」
「……何様ですの?」
ニーチェは答えない。
「そうやって救いの手を待っていても誰も救ってなどくれない。自分を救えるのは自分だけ。努力に答えてくれるのは結果だけ。努力を見ていた神様が何かしてくれるなんてことはあり得ないのに」
そう強い口調で言ってから、ニーチェはふっと息をもらした。
「神の見えざる手、か。アダム。ナッシュが言うとおり、神の手なんかじゃない。あれは人の手」
「……ニーチェ?」
うなだれていたアダムが顔を上げる。
「だからこそ力がある。人には意志があるのだから。言うなれば意志の力を束ねる魔法なのよ、あれは」
「……」
「意志こそが力を生むの。ソクラテスは一つの真理を追う意志を。デカルトは疑い続ける意志を。パスカル先生は考え続ける意志を示した。神の見えざる手も、あなたの意志。人の意志の力を信じる、あなたの意志」
ニーチェは、牌を握った。
「私たちが囚人だと言うのなら、監獄から出ればいいだけ。囚人が監獄から出るには、どうすればいい?」
「不可能ですわ。私の囚人のジレンマをどうやって破りますの」
ナッシュが言うが、ニーチェは取り合わない。
「囚人が監獄から出る方法は三つ。服役中に死ぬこと。刑期をまっとうすること。そしてもう一つは……」
「模範囚になって、仮出所という手もありますわ。降参するのなら魔法を解いてさしあげますわ」
ナッシュが重ねて言うが、ニーチェはしかしそれを無視して三つ目を言った。
「脱獄すること。でもどうやる? 牢を壊すか……」
ニーチェは一人で考え込み始める。
「ニーチェ……、私……どうしたら」
アダムがニーチェに助言を求めたが、ニーチェはアダムを見もしない。
「自分で考えなさい。救う神も導く神も姿を消したのよ。私は私でやるわ」
ニーチェが、牌をかき回し始める。洗牌。
「さっきからずっと、牌の動きをコントロールしようとはしていた。積み込める範囲では徹底的に積み込んでみたけど、ダメね。どうしても把握できない牌が出るし、それが必ずと言っていいほどこっちの思惑を邪魔する。何か正体不明の力が働いているのは……認めざるを得ない」
勝ち誇った表情のナッシュ。
「当たり前ですわ。囚人のジレンマは世界を分断する力ですの。あなたの制御下に入らない牌があるのですわ」
私は気がついた。そうかフィルムが引き裂かれていたのは、そういうことか。世界が分断されている。
四人は山を積み終わった。牌が山から配られる。ニーチェだけは配られた牌を見ようともせず考えていた。
「ふむ……。であれば……。押してダメなら引いてみな、かしらね」
ニーチェは何やら思いついたようだ。ふいに卓上に目をやり……。
ガシャン。
山をその手で崩したのだった。
*
「……え……」
「何、してるの、ニーチェ」
「……見てのとおりよ。山を崩したの」
「え? だってその、それは……チョンボだよ」
「そのとおりよ」
ニーチェはにこやかに笑い、点棒を取り出してみなに配る。
「罰符は満貫払いでいいのよね。はい、四千、二千」
「ど、どういうこと? 手が滑ったの? ニーチェ」
「いいえ、手が滑った訳じゃない。わざとよ」
「なんで? ま、まさかニーチェがチョンボで点数を失うなんて……」
「そうね、私も意外だったわ」
私もアリスも起きたことにコメントできずにいた。
完全無欠のニーチェが、一体何の冗談なのか。山を崩してしまうチョンボで、罰符?
なんとなく妙な雰囲気のまま、次のゲーム。今度は配牌の直後だった。
「ツモ」
ニーチェがいきなり上がりを宣言した。
「えーっ! 地和?」
アダムが興奮した声をあげる。だがニーチェは首を横に振った。
「あ、ごめん間違った。ぜんぜん役になってなかったわ」
ごめんごめん、と言って倒した牌を指差すニーチェ。
「チョンボね。罰符を払うわ」
そう言って再び自分の点棒を配るニーチェ。
「え……何? わざと?」
アダムの疑問は最もだろう。立て続けのチョンボだ。
しかも今ニーチェが倒して見せた自牌は見るからにバラバラで、何の役もできていないことは明らかだ。見間違いで上がりを宣言するなんて、あり得ない。
「ちょっと、何やってんのニーチェ!」
アダムの悲鳴。
「上がり間違いよ。ちゃんと罰符払うってば」
「そうじゃなくて……!」
「いいから、次のゲームいきましょ」
ニーチェの不可解な行動は止まらなかった。
続くゲーム、ニーチェの多牌。
その次のゲーム、ニーチェのツモ順間違い。
その次のゲームはまた誤ロン。
すべてチョンボ、そのたびに罰符を払う。
「ニーチェ! ちょっと! 正気!?」
見るに耐えなかったらしく、バタイユが叫んだ。だがニーチェはにやりと笑った。
「正気……? バタイユ、自分が正気かどうか判断する方法なんてあるの? ……それに、正気であることにどれほど意味があるのかしら」
「ニ、ニーチェあんた……」
バタイユが……何故だろう、何か顔を上気させている気がする。ブルブル震えながら。
「何言ってるの、ねえニーチェしっかりして! さっきから何回チョンボすれば……。点数が無くなるよ!」
アダムも悲鳴をあげる。
「あと三回は大丈夫。四回目でアウトね。ハコになるわ」
「発狂したのあんた!」
そう叫んだのはバタイユだった。ニーチェを見る目。その目は……哀れんでいるのか、それとも驚いているだけか。……いや、悲しんでいるのか。怒りも少しは入っているのかもしれない。
だがそして……わずかに。喜んでいる。私にはバタイユの目が、そう見えた。
ニーチェは次のゲームも作ったばかりの山を崩した。
「何のつもりかしらないけれど。追い詰めすぎちゃったかしら。自暴自棄? 苦し紛れ? それとも八つ当たりかしら。見苦しいわ、ニーチェさん」
侮蔑を隠そうともせずナッシュが言う。
アダムが泣きながらニーチェの腕を掴む。
「もうやめてよニーチェ。私はあんたのそんなとこ見たくない。こんなの所詮ゲームじゃんよ……!」
「やめる? でも他に手が思いつかない。それになんとなく、あとちょっとだって気がする」
「あとちょっとでハコなんだよニーチェ! あんたがいなくなったらもううちのチームはクーンとライプニッツしかいない。クーンは能天気だしライプニッツはあの超弩級の不運だし。ダメなんだよあんたが最後の砦なの、しっかりしてよニーチェ!」
「……違うでしょアダム」
また、配られた牌をパタパタと倒していくニーチェ。当然、役になんてなっていない。チョンボだ。
「私がいなくなったらクーンとライプニッツしかいない? 何言ってるんだか。あなたがいるじゃないの」
「わ、私は……私には、あれはコントロールできないのよ! はっきり言っちゃうけど、神の見えざる手、私は見たことが無いのよ! それがあるって子供の頃から思ってるけど、本当に見たことは無いんだ! ナッシュは見たって言うけど、私には見えたこと無い。本当にあるかどうかわからないよ!」
「違うってば。神の手なんかじゃなくて、あんたがいるって言ってんのよ」
アダムは何を言われているのかわからないようだった。
「わ……私に何ができるってのよ!」
「知らないわよ。でも何ができるかなんて問題じゃない。何をするつもりがあるのか、でしょ」
「ニーチェ。説教なら後で聞く。とにかく今はあんたがしっかりしてよ。でないと負けちゃう!」
ニーチェは、やれやれ、といった様子で背を伸ばした。
「あんたはどうしたいの?」
アダムは怒鳴った。
「勝ちたいんだよ! 決まってるだろそんなもの!」
……それを聞いた瞬間。
それは、一瞬のことであった。
カメラの死角であったために、その場にいた人間しか見ることができなかったもの。しかしテツ学史上、一級の貴重な映像であることは間違いないと私は確信する。
それはニーチェが今まで一度も見せたことのない、優しい……笑顔だった。
「私もよ、アダム」
そして、その手がまた……パタパタと牌を倒していく。倒された牌は、役にはなっていない。
「もう、道は開ける直前。きっと脱獄は成功する」
ニーチェは立ち上がる。
「ハコ、ですね。噂からすれば何ともがっかりな結末ですこと。しょせん凡人は凡人ということでしょうか……」
肩をすくめるナッシュ。
文武両道のスーパーガール、ニーチェは、その持ち点のすべてをチョンボという形で失い、退席した。