第十一幕 パスカル
「アダム・スミス、点数を稼いでいたのが幸いしてまだ三万ほど残してはいますが、一気に削られましたね」
「ええ。これは危険ですね。オッカムは相変わらず役自体は一つしかありませんが、さっきまでとは打って変わって、点数は役満ですから」
オッカムが一同を見渡して得意げに言った。
「どう? わかった? 役なんて一つでいいの。余計な役をゴテゴテ付けずに、さっさと上がってしまうべきなのよ。無駄の無い麻雀とはこういうこと。シンプルでしょ。上がらなきゃ勝てない。上がれば勝てる」
「くっ……。どうやってそんな早く上がる訳? ま、まさか何かイカサマでも……」
アダムが悔しそうに言うがオッカムは軽蔑の眼差しを返した。
「愚問ね。これは神の加護よ。無駄を作らない者にこそ神は上がりを与えて下さる。イカサマなんて無駄なことをする必要はないわ。ロン」
「…………ぎゃーっ。ちょっとオッカムちゃん! 私、味方、味方!」
「あ、ごめん一休」
そう言いつつあまり申し訳なさそうでないオッカム。
「容赦ないですね。敵味方構わず当たりますオッカムの電撃殺法」
ふと見ると、アダム・スミスが担任教師に泣きついていた。
「先生……! 何とかしてくださいよ!」
「まあいいじゃないスミス。こういうのも麻雀の醍醐味よ。八連荘なんてそうそうお目にかかれないわ」
「なんでそんなに余裕なんですかぁ! ……ギャンブル狂の名が泣きますよ」
「そんな不名誉な名には泣いてもらったほうがいいけれど……。これはギャンブルじゃないでしょ。何も賭けてないわ。賭けない麻雀なんてお遊びよ」
なんか一瞬先生の言葉にどす黒いものが見えた気がしたが……。
「じゃあ何か懸かってればいいんですか? じゃ先生が負けたら私、先生のことを「考えない葦」って呼びます」
おっとアダムが……そのどす黒いものを呼び起こそうとしている。
「……何ですって?」
パスカル先生の周りの空気が凍りついた。
「だぁって! 今の先生は自分が強大な力に押し潰されようとしてることも理解してないじゃないですか? それじゃただの葦です。考えない葦……」
ピンと先生がアダムのおでこをはじいた。
「いったァ……。先生、生徒を叩いちゃ……」
「あなたこそ何に叩かれたのか理解していないわ」
「……は? 先生にじゃないんですか?」
ポンポンと先生はアダムの頭を軽く叩いた。
「大宇宙に勝る力、よ。いいわ、見せてあげようじゃない」
先生は僅かの間目をつぶり、すぐに目を見開いた。
「麻雀は、確率のゲームよ」
先生は、タンッと牌を打った。
「小娘どもに本当の麻雀というものを教えてあげるわ」
「ふっ」
オッカムは笑った。
「先生、確率論だ期待値だなんて大げさに言いますけど、要するに作りやすい役を狙いますということですよね? そんなの、私の無駄を排することの力には到底及びません。必要なのは思考じゃない、信仰ですよ」
パスカル先生は薄く笑った。いや、目は笑っていない……。
「ふっ……。イエス先生も甘いから、こんな生意気な生徒が育つのよね……」
「パ、パスカル先生怖い……」
アダムと一休が怯えていた。私は普段お目にかかれない担任教師の真の姿に思わず胸が踊る。
*
洗牌を終え山を積み終わり、ゲームは親であるオッカムからスタートする。
「ふっ……アダム・スミス、あなたに当たればさよならよ」
そう言いながら、オッカムは西を切った。確かにもうアダムの点からすると役満を上がられたら点が無くなる。
「あのさ、オッカムちゃん、気をつけてよね」
一休が言った。
「何に?」
「だからぁ、私も当たったら、さよならなんだってば」
確かに、言われてみると一休も点が少ない。オッカムが味方である一休からもガンガン上がっていたからだ。
「頑張って当たらないようにして頂戴」
「オッカムちゃんが私の捨てた当たり牌は見逃してくれればいいだけだよぅ」
口を尖らせる一休に、オッカムは首を横に振る。
「それではフリテンになってしまうでしょ」
解説のアリスに聞く。
「フリテンとは?」
「当たり牌を誰かが捨てたのに見逃すことです。これをやった場合、ロンができなくなります。ツモはできますが」
「……えとつまり、もしもオッカムが一休の捨て牌で上がらなかった場合、パスカル先生やアダムが同じ牌を捨ててももう上がれないということですか?」
「そうです。ですからオッカムは、上がれなくなって連荘が止まるのを回避するため、敵を討つため味方を攻撃してしまうのもやむを得ないと、一休を守らない戦略を採ることにしたようですね」
そうアリスが言ったのを聞いた一休がオッカムに泣きついていた。
「オッカムちゃぁん……私たち、味方だよね?」
「あのですね一休、結果的にチームが勝てばいいじゃないですか。途中の勝敗にこだわっても無駄です」
「でも、そ、そうやって味方を次々飛ばしていったらこっちが負けちゃうよ」
「大丈夫。敵が全員飛ぶほうが先です」
「……そうかしら」
そこで口を挟んだのはパスカル先生だった。
「確率的に言えば、オッカムの戦略上、誰から上がる確率もほぼ同じ。となれば三人の持ち点は均等に減っていくことになる。つまり今の持ち点がもっとも低い一休が最初に飛ぶ確率が高い」
「……ちょちょちょ、オッカムちゃんあんなこと言ってるよ?」
一休が慌ててオッカムを見る。オッカムは頷いた。
「パスカル先生は正しいです」
パスカル先生は頷いて続けた。
「今のところ、私はデカルトから引き継いだのと自分の初期点で計三十万点近く……約十二人分の初期の持ち点に相当する点を持っています。つまり私が飛ぶまでの間に、アダムと一休、そしてこれに加えて紅組六人、白組六人と全員飛ぶことになる。飛ぶペースは紅白とも一緒。つまり全員で防戦一方に徹すれば、今のオッカムの戦略は紅白どちらにも有利に働かないということです」
「……でも、先生」
オッカムの反撃。
「紅組は先生とアダムを入れて残り五人。白組は一休を入れて六人です。つまりわずかですが白組のほうが残りヒットポイントが多い状態。となれば勝つのは白組です」
「そうかしら?」
先生はにこやかに笑った。
「防戦一方、それは単純に言えば、できるだけ既に誰かが切った安全牌を捨てることね。オッカム自身が切った牌はもちろん、他の誰かが切った牌も安全なのだから。そうなると、一番危険なのはオッカムのすぐ次の番の人間なのよ。なぜならオッカム以外の三人の中で常に最も安全牌が少ないから」
「すぐ次の番て……あ、あたし?」
一休が自分を指さす。
「ええその通り。この中でもっともオッカムに上がられやすいのは一休です」
「え、え、そ、そうなの?」
一休がパニックになりかけている。
「なるほど……それは間違っていません」
感心したようにうなずくオッカム。
「そ、そんな冷静に言わないでオッカムちゃん!」
だがパスカル先生は冷静に続ける。
「そしてもちろん、一休が飛んだ後は代わりの白組の選手が一休の位置に座ることになる。つまりずっと白組が不利な状況は変わらない。となれば……この僅かな白組のリードは……ひっくり返る可能性が高い」
「……わーっ。オッカムちゃん! どうしよう!」
慌てふためく一休。
「落ち着いて下さい。最後の最後は私が白組から上がらないように調整すればいいだけでしょう」
「そ、そ、そうなのかな。そうだといいけど。そうなのかもしれないけど」
「……落ち着いて下さいってば。大体さっきから一休、自覚してるんですか? 一番危ない切り方してますよ。危険牌ばっかり切ってます」
「あ、気づいちゃったか」
パスカル先生が苦笑する。
「ほら。敵に利することをしているのは一休なんです。とにかくできるだけ安全な牌だけ切るようにして下さい」
「う……うん。要するに、もう誰かが捨てた牌だけ切るようにすればいいんだよね?」
私は思った。そして言ってみた。
「もしかして一休……麻雀覚えたてなんじゃないですか?」
「そうみたいですね」
アリスも頷いた。
「う、うるさいな……。覚えたての時はとにかく麻雀やりたいものなのよ」
気持ちはわからないでもない。
「と、と、とにかく場に出てる牌……出てる牌……。って、まだ西しか切られてないや。あ、私も西持ってた。良かったぁ……これ切ろう」
一休がおそるおそる西を切る。オッカムは苦笑する。
「さすがに私もまだテンパってませんよ」
「あ、そっかぁ……」
一休が笑う。
「じゃあ私も西を切っとくか。二枚切れたら持っててもしょうがないしなぁ」
アダム・スミスがそう言って、西を切った。
「あ。……」
オッカムが強ばった表情をした。
「ひぅ……」
今度はアリス。やはり何かに気づいたらしい。隣で息を飲んでいる。
「……?」
何だろう。今度はアダムがあっと言って手を口に当てた。
「気づきましたか?」
そう淡々と言ったパスカル先生の笑顔は変わっていなかった。
「え、何をですか先生」
一休は気づいていないようだった。
「一休は気づかなければいけませんでしたね。八連荘の時には流局も警戒しなければならないんですよ」
パスカル先生はそう言って、牌を切った。それは、西だった。
「はい四風子連打。流局です」
パスカル先生の宣言に、オッカムが拳で卓を叩いた。流石にクールな彼女も、悔しかったらしい。
「あーーーーっ!」
今更一休が気づいたらしく大声を上げたが、もう後の祭りだ。
「アリス。……そういうルールがあるんですか?」
「ええ。四風子連打ですね。同種の風牌を一巡目で四人が切ると、場を流すことができます」
「流れると……八連荘は」
「ストップです」
オッカムもご愁傷様だ。また振り出しか。もう一度八回連続で上がらなければならないとなると偉い手間だ。
「一休はオッカムと同じ牌を切って防戦に徹しようとしましたが裏目に出ましたね」
パスカル先生がくすくすと笑っていた。
「全て計算通りね」
「どういうことですか? 先生」
「オタ風の西を一枚だけ入れてやればまずあなたは初っ端に切る。そして同じく一枚しか持っていなくて二枚切られていればアダムも切るでしょう。だから一休が切るように仕向けておきさえすれば良い」
なるほど……一休が西を切ったのは先生の話術の誘導によるものだということか。
「く、三味線なんて……! 教師のすることですか?」
怒りを隠さないオッカム。
「あら。覚えておきなさい。大人は汚いのよ?」
とても上品な笑みを浮かべるパスカル先生。
「きっと悪魔ってあんな風に笑うのでしょうね……」
アリスがつぶやいたのに私は小さく頷いた。
「くっ。都合よく全員に西が行き渡ってたなんて……なんて悪運の強い」
オッカムが歯噛みしていると、パスカル先生は首を振って言った。
「運が強い? 違うわね。確かに偶然だけど、その確率は上げてあったのよ」
「確率を上げてあった……? ……どういうことです?」
「苦労したわ。積み込みなんて初めてやったもの」
「つ……つみこみぃ!?」
オッカムと一休が大声を出した。アダムも私もアリスも、みんな驚いている。
「やぁね。先生もそんなに得意じゃないけれど、頑張って西の四枚だけ集めて山に入れたのよ。一個おきにね。本当はもっと他の仕込みもしておきたかったけれど……。私の腕じゃそんなにたくさん積み込めないしね」
「山に一個置きに西を……。で、でもそれが配る時にそれが皆のとこにちゃんと行くかどうかはサイコロの出目次第じゃないですか? そ、そんなのまだまだ運任せです」
「それは秘密……と言いたいところだけど、教えてあげようかしら。オッカムあなた、几帳面すぎるからか、サイコロの持ち方と振り方が毎回、びっくりするくらい同じなのよ。観察してて気づいたわ。あなたの振るサイコロ……二つ合わせると七が出る確率がちょっと高い」
「七……?」
「もともとサイコロを二つ振って出る確率が最も高いのは、二から十二までの数字のうち、七なの。簡単な計算よね。三十六分の六、つまり六分の一だもの。でも先生見てて気づいたんだけど、オッカムあなた、サイコロの持ち方に癖があるわよね。必ず一と六を挟むように持って正確に縦回転をかける。一と六はいつも横向き。だから卓上で転がり終わった時、一と六が上側に来る確率がきわめて低い」
「ま、まさかそんな……」
オッカムが自分の手を見つめた。
「あなたが親として何度もサイコロ振るのを見てたら気づいたのよ。覚えておいて。全てはまず観察から始まるのよ」
「だ、だったら何なんですか……」
「サイコロの目が二から五に集中しているのなら七が出る確率は更に上がる。十六分の四、つまり四分の一の確率で七が出るわ。そして出目が七なら……対面のアダムの山の左から七個目の牌から取り始める、ということ。だからアダムの山の左端に西を一個置きに仕込んでおけばいい」
そう言われてアダムが驚いていた。
「え……先生。でも私、積み込みなんてしてませんけど」
先生はくすっと笑った。
「積み込ませたのよ。アダム。あなたも癖があってね、なぜか山を右端から順に積む癖があるのよね。それもあって山を積むのが遅くて、それも助かったわ。いい? あなたが二段目の左端を積んでいる頃にはもう皆山を積み終わって待っている状態になる。つまり場に散らかっていた牌もあらかた片付いてしまっていて、あなた、自分の山に積む牌を探している状態になるわよね? それを見越して、私はあえて西の四枚を含めた七枚を自分の手元に余分に残しておくの。そしてあなたが積む牌が足りなくなったタイミングで一個ずつあなたに渡してあげる。そうするとあなたはそれを山の二段目左端に受け取った順に積むことになるのよ、自動的にね」
「え……ええぇぇ! 嘘ぉ!」
アダムが悲鳴を上げた。
私はアリスの方を向く。
「すみませんなんだかややこしくて私にはよくわかりませんでしたが……」
「要するにパスカル先生は、オッカムやアダムの癖、サイコロの出目や牌の配り方を全て計算に入れて、西の牌が四人に一個ずつ行き渡る確率が高くなるように仕向けた、ということらしいです」
パスカル先生はいつもと同じように穏やかに微笑んでいたが、急にその笑みに凄みが感じられてくる。
「……くっ。でも四分の1じゃないですか! 運任せです!」
オッカムが噛み付くが、先生はどこ吹く風だ。
「ええ。その通り。うまくいくのは四回に一回。……だから、四回目なのよ」
「四回目……?」
「あなたが五回連続で上がった当たりから、毎回これを仕掛けてたの。丁度いいタイミングで狙い通りになったわね」
パスカル先生は嬉しそうだ。
「ひ、卑怯です! 全然熱心になってない振りして!」
くすっと先生は笑った。
「卑怯だなんて。オッカム。ポーカーフェイスはギャンブルの基本でしょ?」
思わず私は声が上ずる。
「お……おそるべしパスカル先生! すべては先生の手のひらの上!」
「くっ……」
オッカムが下唇を噛んだ。
「でもパスカル先生、八連荘が途切れただけで、何も変わってません。先生のその、確率論? でしたっけ。そんなもの、所詮計算じゃないですか。人間の心は確率じゃ語れません」
「いいえ、語れます」
即答だった。
「先生……意志を持たないサイコロには有用かもしれませんが、人の意志に確率論を適用しようだなんて物事を無駄に複雑にするだけです。勝つ麻雀に確率の計算なんて必要ありません。無駄をそぎ落とす。それが全てです。後は神の領域。人間がいくら考えてもわからない領域があるんです。それを教えてあげます」
オッカムはむきになっているようだった。だが先生は可愛いものだと嘲笑っていた。。
「悲しいわ。先生、最初の授業で言ったでしょう? わからないものをわからないで終わらせない。考えるからこそ、人間は大宇宙よりも偉大なのよ」
「不尊です。人間はわからないものをわかろうとして、結局は無駄に概念を増やしただけです。ありもしないものをあると考えて何かをわかった気になっている。しまいにはそれら元々無いものを対象に考える学問まで創り出してしまいました。無駄の極致! 何のことだかわかります? 数学ですよ、先生の担当している」
オッカムは先生を指さす。だがくすりと先生は笑う。
「オッカム。数学苦手なのよね?」
「わ……私は無駄な学問が嫌いなんです! 数学が人生のどんな役に立ちますか? 数学なんて無駄の極みです! 一体、数学が対象にしているものって、どこに存在するんです? どこに、数なんてものがあるんですか? どこに直線が、どこに正円があるんですか? 現実には存在しないものです。全て机上の空論じゃないですか」
だがパスカル先生は優しく言った。
「オッカム。諦めることはないわ。数学はあなたを諦めないもの。覚えておきなさい。数学はモデル化の学問。考えることができないと諦めていたものを、考えられるようにする力なの。確率論はね、それまでの人間が、ただ「どっちになるかわからない」で終わらせていたものを、思考の対象にすることに成功したのよ」
「そんなの、無駄な……」
「その無駄にあなたは敗れる。人の心が計算できないなんてそれこそ傲慢。人の思考まで組み入れた確率論の真髄、見せてあげましょう」
「い、言ってて下さい。またすぐに私の独擅場になります」
だが、そのオッカムの言葉は残念ながら現実にはならなかった。