第九幕 デカルト
退場したソーカルの代わりは、アダム・スミスだった。取り立てて目立つタイプではない。自分の欲望に従って生きるべしという信条の彼女は、そのとおり欲望に従って気ままに生きているようだが、あまり誰かと衝突する場面を見たことはない。
ただ……。
「アリス。アダム・スミスといえば、あれですよね」
「あれ……ああ、あれですか。いつも言っている奴ですね。最後には……」
「そう。「神の見えざる手が何とかしてくれる」」
……そう。アダム・スミスを語る上ではそれを外せない。彼女の言説を借りて説明すればこうだ。
「自分の欲望に忠実に従うべきなのよ。全体のことなんか考える必要はないの。各自が自分の自由な意志に従って行動すれば、結局は全体が最良になるの。そういう風に働いているのよ、神の見えざる手がね」
彼女がそう言うのは私は何度か見ていた。
「わー、スミスちゃん。見せてくれるの? 神の見えざる手ー」
新しく迎えた対戦相手ににこやかに言うソシュール。
「……んー? それは無理だって」
アダム・スミスは顔の前で手をぶんぶんと振った。
「どうして? 使わないの?」
「使うっていうか私がコントロールしてる訳じゃないし。でも力は働いてると思うよもちろん。ただほら、神の「見えざる」手だから。見えないわけよ」
あ、そっかーと笑うソシュールと一休。
「ま、お手柔らかに頼むわ」
うんよろしくー、とソシュール。相変わらず女子会ムードは変わりそうもなかった。
*
「おかしいわ……」
「……?」
眠気と戦っていた私の耳に、つぶやく声が聞こえた。
「……?」
私は隣を見る。アリスは船をこいでいた。
もうしばらく実況を放棄してしまっていた。劇的な展開が見られなかったからだ。時刻はもう深夜二時近い。
私は麻雀卓のほうを見た。今つぶやいたのは……?
「なにがおかしいの? デカルト」
アダム・スミスがそう言った。……デカルトの言葉だったのか。
「あのね、スミスちゃん」
「……うん?」
「変なことを言ってると思わないで聞いて欲しいんだけど……」
「ん~?」
「これ、私の知ってる麻雀と違う気がする」
……。
…………。
「不自然な役が一杯あるような気がするの」
……私はこの気弱な少女を思わずしげしげと見てしまった。
……これは驚いた。
気づきかけている?
「違うって……何がどう違うの?」
一休が尋ねる。
「えっと……例えばそう、さっきソシュールちゃんが上がった役、大家族物語。あれって……メジャーな役?」
「え……まあ、普通知ってる役だと思うけど」
聞かれて頭を傾げる一休。
「その前の、病めるツバメ、も?」
「うん。あんまり狙う人いないけどね……」
「サディスティック・シュガーは? 長三三六は?」
「いやぁ……どっちもけしてローカルルールじゃないと思うよ」
もちろん全てソシュールのオリジナルだ。私は自分の中の受信記録でそれを確認している。今夜だけでソシュールは何回世界を書き換えるつもりなんだ。
「うーん、だよね……。私の記憶でもそうなの。だから私の考え違いかもしれない」
「あ、もしかしてデカルト、もうおねむなんじゃないの? 眠くて役も忘れかけちゃってんでしょ」
茶化すアダム。
「え、そうなのデカルトちゃん、無理しないほうがいいよ~」
ソシュールが心配する。
「ち、違うよ。私どっちかっていうと夜更かし型だもん。まだ全然平気。でも、違うの、なんかこう、変な役が多いなっていうか、麻雀ってこんなゲームだったのかなって……」
「もー、デカルトってば。自分が負け続けてるからってそういうこと言い出す? ツイてないこともあるってば。気にしない気にしない」
一休がそう言った。
ダメだ。このメンバーでは。真理を追求するタイプがデカルトしかいない。気弱な彼女だけではこれ以上戦えないだろう。私は流されてしまうデカルトの姿を予感していた。
「あんたもプロタゴラスみたいにこんな役知らないーなんて言い出す訳?」
「そ、そうじゃないの。変なこと言ってるのはわかってるんだけど、私もちゃんと知ってる役なの」
「何が言いたいの?」
「で、でも……私、思うんだ。私の記憶だって当てになんかならないって。昔から知ってる気がしてるだけかもしれない」
「えっと……よくわかんない。要するに、知ってる役だけどそれは本当は無いんじゃないかって言いたいの? それって、ゲシュタルト崩壊ってことじゃないの? そこまで疑ってるとキリが無いと思うんだけど……。大体、疑いたくなる理由は何よ」
「だ、だって変じゃない? なんで大家族物語なんて日本語の役があるの?」
「それを言ったら風見鶏だってそうだし、先生が狙ってた大車輪とか、さっき私が上がった東北新幹線だってそうじゃん。ローカル役だけどさ」
一休が言う。
「……でもでも、ほら例えばサディスティックシュガーとかも……英語の役なんて変だよ」
「じゃ、リーチはどうなんのよ。ドラだって語源はドラゴンなんでしょ。英語よ?」
「……うん……」
「緑一色だって元はオール・グリーン、アメリカ生まれの英語の役よ。あとは何だっけ、ゴールデン・ゲート・ブリッジとか……」
ダメだ、デカルトが一休にやり込められてしまっている。
「で、でもね……私もうまく言えないんだけど」
言いかけたデカルトをアダムが制する。
「まあまあ、デカルト、そもそもさ、麻雀の役はこうじゃなきゃいけないっていう基準も無いんだから、現に存在する役をさして正しいだの間違ってるだの言っても話にならないって」
そこでアリスが珍しく卓上の会話に参加した。
「そうですよデカルト、アダムの言うとおり、あるものはあるものとして受け入れたほうが現実的ではないかと思いますよ」
さすがアリスは現実主義者だ。最も今は、その現実を信用できないのだが。
「んー。そうかもしれないんだけど……どうしても拭えないの。見えているものがあてにならないっていうか……。知っていることがあてにならないっていうか……」
デカルトがまだ頑張っている。珍しいな、と思った。誰も味方にならず、自分の記憶すら信用できないというのにどうしてねばれるのか……。いつもの気弱さとイメージが一致しない。私は少しデカルトの評価を変えていた。実は案外芯の強い子なのかもしれない。
私はつい、本当はそんなことをするつもりはなかったのに、口を挟んでしまった。
「デカルト……。もしも仮に、本来の麻雀には無い筈の役があるかのように見えているのだと、そういう幻覚が全員に働いているのだとしたら、それを確かめる方法はありますか?」
「……………………」
デカルトは宙を見つめた。
「……無い」
そう、無い。人間の限界だ。
「なら……、諦めてください」
私はそう言った。
だがデカルトは、首を縦には振らなかった。
「……それはできないよ。たとえ方法が思いつかなくとも、私は真理にたどり着きたい。だから……疑うことはやめない」
デカルトが意志を示した。
ザザッ……。
ん? 今……。
「デカルト。じゃあどうしたらいい訳?」
アダムが困った顔で言った。
「……一つ、試したいことがあるの。面倒なことだってのはわかってる。でも協力して欲しいの」
「どんなことよ」
「みんなが知っている役をこの紙に書いて」
デカルトが娯楽室の棚から白い紙を取り出した。
みんな、言われた通りに紙に思いつく限りの役を書いていく。平和、タンヤオ、リーチ、対対和といった基本的なものから国士無双、清老頭といった役満まで……。私は書き出されたそれを見ながら、約三分の二がソシュールが今夜新しく作った役であることに気づいてゾッとした。
「いい? 書けた? そうしたらこの紙のよけいな余白の部分は切り取ってしまうわ。これでもしも新しく役が増えたりしたら、この紙に変に行間が詰まったところが出たりする筈。それから、役に番号を振る。途中に追加されたりしないように。そしてこの紙をこれから壁に貼っておくから、みんな、役を上がる時には必ず、この紙に書いてある役かどうか確認してから上がってね」
デカルトは真剣な顔で他の三人を見た。
「これで、私達の知らない間に役が増えたり、記憶が書き換えられても気付けるかもしれない」
「……あのさデカルト……そこまでしなくても」
「そうだよ……面倒じゃん」
アダム・スミスと一休が声をあげた。
「ううん、私はいいよ。協力する。デカルトちゃんが真剣なんだもん、私は協力したいな」
「あ、ありがとうソシュールちゃん」
ソシュールがにこりと笑った。私は皮肉なものだと思った。新しい役を造り続けている真犯人が、真っ先に協力すると言っている。
「デカルト」
だが、解説のアリスがとがめた。そして、首を横に振る。
「賢明なあなたが気づかない筈がない。そんな面倒なことをしたところで、相手は全てをごまかしてしまえる幻覚です。新しい役は何の不自然さもなくその紙に追加されるでしょう。余白が無ければ紙は大きくなるでしょう。番号が飛んでいないかのように振り直されるでしょう。皆、その紙にあるかどうか確認したつもりにされるでしょう。私たちの記憶だってあてにならないのだから、何も確かめられませんよ」
アリストテレスはもう一度首を横に振った。
「無意味です。その紙からは結局は、何もわからない。何一つ、確かめることはできない」
「…………それは違うよ、アリス」
デカルトのいつになく強い口調。
「私という、疑いを持った存在がいるということだけはわかる」
デカルトはそう言った。
「疑う私の意志。それを世界に示すわ」
ああそうだ。私は今更にそのことに気がつく。
いつだって彼女は、その眼に強い光を宿していたのだ。
ザザッ……。
ザッ……。
ザザザザザザザザザザザ……。
ノイズが激しく私の頭をかき乱す。そしてそれが止んだ時。
デカルトの背後の壁に貼られた紙。そこにはもう、「風見鶏」の文字がなかった。「病めるツバメ」も「哲学一直線」も「太陽と心のワルツ」も「サディスティックシュガー」も「天声人語」も「レインボー三段」も「三九夢」も!
ソシュールの作り出した役がすべて、消えていた。
「…………わかりました」
アリスが頷いた。
「いいでしょう。ここからしばらく、そのルールでいきましょう。みんな、役が壁の紙にあるかどうか確認してから上がるように」
「はーい」
「しょうがないなー」
私は、そんなみんなの様子を見て何も言えずにいた。
信じられない……。
世界が元に戻った。
「どうしたんですか? バークリー…………え、ちょっとあなた、本当にどうしたんです!?」
慌てふためいたアリスの言葉に、私は自分が涙を流していたのに気がついた。
「えぅ、何でもないです」
しまった。しゃっくりが出た。
「だ、大丈夫ですか……? 疲れたのなら少し休んだ方が。長丁場ですから」
アリスが気遣ってくれる。だが私は思う。疲れる? とんでもない。こんな凄いものを見たんだもの。
「大丈夫です。アリス。やっぱりスゴいですね、この学園の生徒たちは」
「はぁ……何ですか突然」
「何でもありません」
私はほほえんで前をむいた。
やってくれるじゃない……デカルト。受信を拒否する意志を示すことで、神の放送の改竄を防げるなんて。こんなこと、全てを疑うあなただからこそ可能だったこと。
私は少しだけデカルトに嫉妬していた。
そしてそれから数時間。朝日が登る頃。圧倒的な点差が覆され、ソシュールの持ち点が底をついた。飛ばされたソシュールが笑顔で握手をしながら部屋を去っていくのを私は何とも言えない顔で見ていた。
そして同時に。
ゲーム開始からずっと参加し続け、十二時間を戦い続けたデカルトの疲労が限界を迎えた。彼女はフラフラになりながら、その圧倒的な得点を味方に引き継いで、場を後にした。
結局、あの壁に貼られた役のリストは、彼女が去るまで貼って置かれ皆がそれを確認しはしたものの、異変は見つからなかった。デカルトの疑う意志が実を結んだことは、私を除いて誰も知らない。
現在紅組は四人が退場し、残り五人。白組は三人が退場し残り六人。ゲームは後半戦を迎えようとしていた。