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第4話-2 あなたのつくった、おにぎり。

 

 


「お先に失礼します」

「うん、お疲れ。今日は高校の友だちと会うんだっけ?」

「はい。雪南のお迎えは、夏子さんに頼んであるので。晩ご飯までには帰りますね」

「たまにはのんびりしてくるといいよ。最近、いろいろとあったしね」

「ありがとうございます」


 更衣室で着替えながら、小さく溜息を吐き出す。


(ごめんなさい)


 わたしは嘘をついた。


 高校の友だちに会いに行くのではない。

 わたしが行こうとしているのは……会える筈がないと解っていつつも、知典が勤めていただろう中学校だった。

 自転車でぎりぎり行ける距離だと知り、どうしても行ってみたくなったのだ。



 背の高い緑色のフェンスで囲まれた、どこにでもあるような中学校。

 一本の道路を隔てた先に遊歩道が続いている。


 わたしは遊歩道の入り口の隅に自転車を置いて、散策してみることにした。

 すぐ側を制服姿の子どもたちが笑いながら通り過ぎて行く。男の子と女の子。付き合っているのか、友だちなのかわからないけれど、距離感がぎこちなく映った。

 くすっと笑みが零れる。


(知典と、わたしみたいな後ろ姿)


 そこに後ろから走ってきた男子の集団が、笑って話しかけている。

 賑やかな光景。

 きっと女の子の隣にいる彼は、人気者なのだろう。


(あんな頃も、あったのに)


 目を細めて眺めていると。


「風夏」


 鋼のような冷たく硬い声がわたしを呼んだ。

 思わずびくっと体が硬直する。


「……!」

「迎えに来たぞ」


 目の前に立っていたのは、ポロシャツ姿の夫だった。


 一気に血の気が引いていく。

 尾けられていたのだろうか。そうとしか考えられなかった。


「この前は悪かったな。俺も、久しぶりの日本で、気持ちが焦っていたみたいだ。たまにはふたりきりで、落ち着いたところで食事でもどうだ?」


 夫の口角は上がっている。

 無理やり笑顔をつくっているように見えて、ぞっとする。


「い、いやです」

「どうして。雪南が産まれてから、夫婦水入らずの時間なんてとれなかっただろう? きっと、俺たちがこうなったのはそれが原因なんだよ」

「ち……違う……」


 わたしは拳をきつく握りしめる。


「考えていたの。いつから、だったのか。結婚してから、貴方はすっかり変わってしまった。わたしを視界に入れなくなっていた。だって、わたしがいつ指輪を外したか、貴方は気づいていなかーー」

「人が下手に出てやっているのに、その態度は何だ!」


 大声に体が縮こまってしまう。反射的に。刷り込まれた恐怖感。


 周りに知っている人間がいないからなのだろう。

 夫は容赦なく大声を浴びせかける。


「〜〜! 〜〜! 〜〜!」


 わたしは俯いて目を閉じる。

 こうなってしまったらやり過ごすしかないのだ。自分の感情を押し殺して。ただひたすらに時が過ぎるのを、夫の激情が収まるのを、待つしかない……。


(そうしないと、わたしが耐えられない)


 ーーそのときだった。


 わたしと夫の間に誰かが割って入ってきたのは。

 そして力強くわたしの手を取って、全速力で走り出したのはーー!


 ちらっと振り返ると、夫が呆気にとられた表情になっていた。


「……こっち、非常口だから」


 フェンスに囲まれた非常口から中に入ってふたりで前のめりになりながらもぎりぎりのところで体勢を立て直す。コンクリートの壁によりかかる。


 助けてくれたのは、知典だった。


「ありがとう、知典くん」


 彼は俯いて深呼吸を繰り返してから、空を仰いだ。


「……久しぶりに全力疾走した」

「走らせてごめん」

「いや、いいんだ。中学の頃を思い出してなんか楽しかった。それよりもさっきの男は」


 わたしは小さく頷いた。


「情けないよね。黙って家を出て、逃げて、まだちゃんと立ち向かえないんだ。わたしが弱いから」

「……俺も」


 そのままお互い黙り込む。


 部活のかけ声が、わたしたちとは関係ない世界で、高らかに響いている。


 ぽつりと、知典の言葉が地面に落ちた。


「念願の教師になったのに、30を手前にして、自分の幼さとか甘さとか、思い知らされることばっかりで。立ち向かうこともできずに、留まっていたんだ」

「……うん」

「俺はいつまで経っても、俺なんだよな。って、何言ってんだろうな」

「……うん」


 顔を見合わせることなく、なんだかおかしくなって、ふたりで笑った。

 ひとしきり笑い合った後に知典が持っていたビニール袋を高く掲げる。


「情けない話。実はずっと休職していたんだけど、今日、人が訪ねてきて。その人と話してたら、ようやく逃げてちゃいけないんだなって思えたんだ。久しぶりに炊飯器を洗って、米を炊いたよ。おにぎりをつくって、あるところへ、お供えにしようと思って歩いていたところだったんだけど」


 そこから出てきたのはラップにくるまれた塩むすびだった。


 お供え。

 それは例の教え子に、だろうか?


「きっと、風夏ともう会うことはないだろうから、あげる。……俺がおにぎりを握れたのも、そのひとと、風夏のおかげだから」

「いいの?」

「うん。2個あるから。1個はそこで俺が食べようと思ってたんだ」


 受け取ると、まだほのかに温かかった。


「ありがとう」


 ラップを剥がす。

 白く、つやつやとしているご飯。

 恐る恐る口に運ぶ。


(……かたい)


 きっと力強く握りしめたんだろう。

 ご飯の粒が潰れて、ねちゃっとした食感になっていた。

 振られた塩も一箇所にかたまっていて、しょっぱすぎるところと味のないところがある。


(だけど)


「おいしいよ」


 気がつかない間に、涙が頬を伝っていた。


「……おいしい」


 指先が、ほんのり温かくなっていた。

 力が湧いてくる、というのは大げさな表現かもしれないけれど。

 わたしは夢中で知典のつくったおにぎりを食べた。


 そして、両手を合わせる。


「ごちそうさま」

「行くのか?」


 うん、と頷くと、知典は立ち上がって、右手を出してきた。

わたしも立ち上がり、それに応じて握手を交わそうとするとーーぐいっと引き寄せられて、知典がわたしの耳元で囁く。


「お互い、がんばろうな」


 記憶に残る、力強い知典の声と同じだった。

 骨張った体にはしっかりとした熱がある。

 わたしたちは生きているのだ。

 わたしたちは、ーー


 どきどきすることもなく、そのとき、わかった。


(同志だ)


 逃げるのも、留まるのも、選ぶのは自分次第だけど。

 最後には立ち向かっていくことを、今、誓い合ったのだと。


 そして、本当に、二度と会うことはないのだろうと、感じていた……。

 

 


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