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第4話-1 あなたのつくった、おにぎり。

 

 

 こんこん、と扉がノックされて、入ってきたのは叔父だった。


「体調はどうだい?」

「すみません……」

「あ、いいんだよ。寝てておくれ」


 優しく促されるままにわたしはベッドに身を沈める。


「雪南は寝てくれましたか?」

「うん。夏子さんが見てるから、大丈夫。大丈夫」


(情けない……)


 泣いているのを気づかれないように腕で顔を隠した。

 夫からのメールを受け取った晩、わたしは高熱を出してそのまま寝込んでしまったのだ。


「弁護士さんから返事もあったよ。また、どのように対応していくか話し合いましょうって。僕としても、時間だけを費やしているこの状況はよくないと思うんだ」


 はい、と小さく頷く。

 そもそも夫が離婚に応じてくれないから、どうしようもないのだけど。


 わたしは自分の掌をじっと見つめた。

 結婚指輪を外したのはいつだったろうか。


 話しかけても返ってこない。……おはようも、おかえりも。

 メールを読んでもらえない。……雪南に熱があるって言っても、会社の飲み会を優先される。

 気に入らないことがあると大声を上げられる。

 ……つくったご飯を、棄てられた。


 歩み寄ろうと努力したけど、結局、何も変わらなかった。

 どんどん気持ちがすり減っていった。


 昔はそんなんじゃなかったのに。

 そんなひとだなんて思わなかったのに。

 ――だから大丈夫。

 こちらから働きかければ、いつか必ず元に戻る。優しかったあのひとに。

 そう、自分に言い聞かせてきた。


 張り詰めた糸が切れたのは一瞬のことだった。


『こんなもの食えるか!』


 わたしの心はあのとき流しに捨てられた。

 頭が真っ白になって何も考えられなくなって、そのときはなんとかやり過ごして、夫が寝たのを見計らって、逃げ出した。

 雪南と一緒に。


(指輪、どこに置いてきたんだろう。すごくお気に入りだったのにな)


 きらきらとしたあの気持ちも。

 一体、どこへ消えてしまったのか。


 体の奥、心のどこかがちくりと痛んだ。


「風ちゃん、何か食べられそうなら、お粥持ってくるけどどうする?」

「いえ……大丈夫です」

「わかった。いつでも言ってね。おやすみ」

「おやすみなさい」


 部屋から出て行こうとした叔父が、ふと動きを止めて、わたしを見つめてきた。

 少し困ったような、なんとも形容しがたい表情。

 何かを言いたげな雰囲気に、わたしは首を傾げる。


「本当は言おうかどうか迷ってたんだけど、伝えておくね。夏子さんに言われてインターネットで調べてみたんだけど……。前島くん、市内の中学校の先生だったんだ。生徒の子がいじめで亡くなってしまってから休職しているようなんだよ」


『人を殺してしまったんだ』


 不意に、知典の暗い声が脳内に蘇る。


『人を殺してしまったんだ』


「夏子さんを責めないであげてね。風ちゃんに対してよくない影響があったらいけないって、ものすごく心配していたんだ。彼も彼で大変みたいだから、僕としても、風ちゃんは前島くんにもう会わない方がいいと思ってる」


 わたしの掌は気づかない内に小刻みに震えていた。

 何も言えないでいることに心情を察したのか、叔父は小さく頭を下げた。


「ごめんよ。おやすみなさい」


 残されたわたしは、掌にぽとりと雫が落ちたのを見て、自分が泣いていることに気づく。


 彼が中学生だった頃。

 少しぽっちゃりとしている、いつでも笑顔の姿ばかりが思い浮かぶ。


 再会した姿とは対照的な姿。

 そこに、知典の痛みを想像するのはあまりにも容易すぎた。


(きっと、心がすり切れるまで、闘ったんだよね)


『俺、教師になるのが夢なんだ』

『今みたいに皆でわいわい騒げるクラスにしたい』

『盛岡先生みたいな立派な先生になりたいんだ』


 そうだ。

 どうして忘れていたんだろう。

 知典はずっと、大人になったら教師になりたいって言っていたじゃないか。


「お互い……うまくいかないね」


 大人になったら夢が叶うと思っていて、実際にその通りになった筈なのに。

 うまくいかないことばかりで。

 出口さえ見えない。


(会いたい、な)


 知典ともう一度会えたら、もう一度だけ言葉を交わすことができたら。


(わたしは、彼に何を伝えられるだろうか?)



 ――事件が起きたのは翌日のことだった。



「……え?」


 目の前で、若い保育士が泣きそうになっていて、年配の保育士は真っ青な顔をしていた。

 一気に血の気が引いていく。意識が遠のきそうになったけれどかろうじて踏みとどまった。


「い、今、なんて……」

「本当に申し訳ありません。伝達がきちんとできていなかったようで、雪南ちゃんは、その……旦那さんと一緒に帰られてしまって」

「私が把握をしていなかったのが悪いんです……すみません……」


 わたしはスマホを確認する。

 夫からは何も連絡が来ていない。


(どうしよう)


 スマホを持つ右手は震えていたけれど、左手で押さえて、迷ったけれど……電話をかけた。


『はい』


 久しぶりに聞く夫の声。無機質な、温度のない音。


「風夏です……今、どこにいるの。雪南は?」

『父親が海外出張から帰ってきて久しぶりに娘と会えて喜んでいるのに、その言い方は何だ』

「ねぇ、どこにいるの」

『家に決まっているだろう。お前が勝手に出て行ったマンションだよ』


 通話は一方的に途切れた。


(どうすればいいの)


 ――それでも気づけばマンションの前まで来ていた。


 オートロックの入り口で、震えながら部屋番号と暗証番号を押す。自動ドアが開く。エレベーターに乗り込んで、5階のボタンを押した。

 動悸はどんどん速く苦しくなっている。


(雪南……!)


 ずっと持っていた鍵で、扉を開ける。


「おかえり」

「ままー! おかえりなさい!」


 ぱたぱたと、無邪気に雪南が駆け寄ってくる。

 その後ろに、立っていた。


「突っ立ってないで中に入ったらどうなんだ? 相変わらず、とろい奴だな」


 ……能面の夫が。


「はいら、ない。雪南、叔父さん家に帰ろう」


 雪南を引き寄せて、夫と向き合うかたちになる。

 対峙、とは呼べない、弱々しいわたし。


「あの夫婦のところに世話になっているのか。自活もできない癖に、別れたいだなんて考えが甘すぎる。お前は一人では生きていけないんだ。諦めろ。帰ってこい。お前は一生俺の妻として生きるんだ」


 畳みかけるように夫は言葉で殴りつけてくる。

 侮蔑の視線が突き刺さる。

 全身を痛みが走り、感覚が麻痺しそうになる。


 夫への恐怖心に、支配されそうになる。


(どうしよう)


(言葉が、出ない)


(体が動かない)


「……ままー?」


 はっと我に返ると、雪南が瞳を大きくしてわたしを見上げていた。


(そうだ、わたしは何の為に逃げ出したんだ)


「雪南、帰ろう」


 手を握って踵を返す。


「逃げるのか」


 わたしは振り向かない。


「……逃げます」


 また殴られる前に、雪南が反応する前に、わたしは部屋の外へ出る。

 体裁を気にする夫のことだ。自宅のすぐ外で怒鳴ってくることはない筈。


 扉が無事に閉まる。


(雪南を守る為、だ……)


 心臓の鼓動は速いままだし、今にも涙は流れそうだし、頭のなかはほぼ真っ白だけど。


 自分は間違っていない。

 そう言い聞かせないと、とてもじゃないけど立っていられなかった。

 

 

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