第3話 きゅうりの浅漬け
「思い出したよ。知典くんね。あんたが中三のときに、一緒に花火大会へ行った子だ」
夏子さんはリズミカルに玉ねぎを刻んでいる。
わたしは隣で、豆腐と若布とだし汁の入った鍋に味噌を溶いていた。
「よくそんなこと思い出せたね」
「あんたの着付けをしてあげたのはあたしだよ? 薄紫色の、ピンクの金魚柄の浴衣ね。母親のお下がりはいやだって駄々こねて、百貨店に買いに行ったじゃないか」
「あ……あぁ」
その記憶力に脱帽というか、苦笑いで返すしかない。
「あの浴衣、まだ実家にあるんでしょ」
「たぶん」
「まぁともかく、あんまり軽率な行動に出るんじゃないよ。寿命が縮むわ」
夏子さんはわたしを見ずに話し続ける。
玉ねぎのみじん切りは、生のまま、挽肉と塩の練られたボウルに投入された。
「この家に住んでいる以上は、あんたの監督責任はあたしたちにあるんだから。あんたと雪南を守る為に、あたしたちは最善を尽くさなきゃならないの」
玉ねぎに続いて、牛乳でしとらせたパン粉も入る。
「あっ、塩胡椒とナツメグ入れ忘れた。とってちょうだい」
思いきり肉だねを捏ねながら、夏子さんは言う。
「あの男には指一本触れさせやしない」
・
食卓に並んだのは、ハンバーグと、ポテトサラダと、きのこたっぷりの炊き込みご飯と、豆腐と若布のお味噌汁。
雪南はフォークとスプーンを手に持って、今か今かと待ち構えている。
帰ってきた途端、熱はすっかり引いてしまい、ハンバーグを食べたいと駄々をこねたのだ。
そして知典はお誕生日席で、両手を膝の上に置いたまま萎縮していた。
「ただいま~。あれっ、お客さん?」
ちぐはぐな雰囲気のダイニングに、叔父が明るい声と共に現れる。
「あたしの客人だよ。茂さんも早く着替えてきてちょうだい」
「おっ。随分と若いお客さんだねぇ。りょうかいりょうかい」
叔父は鼻歌を口ずさみながら自室へと消えていった。
「あんた、ビールは飲む?」
両腕を組んで、眉間に皺を寄せたままの夏子さん。
前触れもなく話しかけられた知典はさらに硬直する。
「い、いえ」
「そう。じゃああたしと茂さんの分だけでいいね」
「着替えてきたぞー。早速食べようか!」
わたしは雪南の隣に座る。夏子さんはわたしの向かい。
部屋着になった叔父は夏子さんの隣。
「いただきまーす!」
叔父と雪南の大声が響き渡る。
「君、緊張しなくてもいいんだよ? 名前は?」
「前島知典といいます。あの、突然、すみません」
「前島くんね。大丈夫、大丈夫。夏子さんはよく人を連れてくるからね! それよりもうちのが作ったハンバーグを食べてみてくれ。玉ねぎがしゃきしゃきしていて、僕はレストランのものよりもこっちが好きなんだ」
「は、はい」
(緊張するのはこっちだよ……)
わたしは心のなかでだけ溜息をついた。
(どうして夏子さんは知典くんを家に招いたんだろう。わたしが変な行動をとっていないか確認したかったのかな)
というかそれ以外にないだろう。
(わたしだって自分が軽率ではなかったかと訊かれたら、イエスとは言えないけど……)
「ポテトサラダにはつぶしたゆで卵が入っているんだよ」
「は、はい」
叔父は楽しそうに食事の解説を続けている。
「ままー、ちょうだい」
はっと我に返ると、雪南が虎視眈々とわたしのハンバーグを狙っていた。
口の周りをソース塗れにしている。
「あぁあ、もう、雪南ったら」
濡れたガーゼで口もとを拭ってやる。
「ままー。はんばーぐー」
「ちょっと待ちなさい。他のも食べてから」
「ほかのもたべるから、ちょうだい?」
熱が下がってくれたのはいいけれど、元気すぎる。
気になることが多すぎて落ち着かない。
わたしもご飯を口に運ぶけれど、ちっとも味が分からない。
結局、わたしの分のハンバーグも、半分以上雪南の胃に入ってしまった。
・
リビングでは叔父がテレビを観ながら3本目のビールを飲んでいる。
雪南はソファで寝てしまった。
外まで見送ることはできないので、玄関先で、わたしと夏子さんは知典と向き合う。
知典が深く頭を下げた。
「本当に、ごちそうさまでした。お世話になりました」
「あんた、ちっとも食べなかったじゃないか。そんなガリガリに痩せ細っているけど、普段からまともな食事はしてるのかい?」
「あまり……」
「だと思った。ほら、これ持って行きな」
夏子さんはいつの間に用意したのか、紙袋を差し出す。
「さっきの残りをおにぎりにしたやつと、電子レンジで温めれば食べられるおかずだよ。あとはきゅうりの浅漬け。さっき出し忘れたから、ついでに入れといた」
「いえ、そんな」
「勘違いしないでほしいんだ。あたしも風夏もおせっかいなだけなんだよ。あんたが、あんたという人間だから招いた訳じゃない」
「ちょっと夏子さん」
「風ちゃんは黙ってなさい。この子は今、大事な時期なんだ。不利になるようなことはさせたくないんだ、分かるね?」
……口調も態度も険しい夏子さん。
わたしは俯くしかなかった。
少しの沈黙のあと、落ち着いた、知典の声がした。
「迷惑をおかけしてすみません。少しの間ですが、楽しかったです。風夏、君がちゃんと母親になっている姿を見て、僕は微笑ましかったよ」
「……知典、くん?」
顔を上げたときにはもう彼の姿はなかった。
・
ひとりでお皿を洗って片づけていると、どんどん、やるせない気持ちに覆われていく。
乾いた布巾で水気を拭き取り、食器棚に戻す。
そして余った調味料やタッパーは冷蔵庫に戻す。
「……あ。夏子さん、浅漬けも入れてたって言ってたな……」
いつもと違うレシピでつくったからまだ味見していない、きゅうりの浅漬け。
わたしはタッパーを開けて囓ってみた。
「しょ、しょっぱい!?」
(しまった……!)
咄嗟に口から吐き出していた。
明らかに塩の量が多い。失敗作だ。
こんなものを同梱してしまったなんて……。
血の気が引いていく。
(また、あのときみたいに)
あのとき?
それはいつのことだろう。
中学校のときのお弁当のこと?
……それとも、蘇るのは。
『お前は本当に料理が下手だな! 妻失格だ。呆れて物も言えない』
動悸が激しくなる。
いてもたってもいられずにわたしは家を飛び出した。
(まだ近くにいる筈……!)
というか近くにいてほしかった。口に入れてほしくなかった。
「知典くん!」
そして追いついたのは、やはり公園だった。ベンチに座って俯いていた。
「風夏……? どうして」
「ごめん、きゅうりの浅漬け、返して」
「きゅうり?」
「夏子さんの紙袋」
きょとんとしたまま、知典が視線を紙袋に移す。
「これ?」
「そう。失敗作……」
わたしの形相があまりにも必死だからか、知典は、遠慮がちにタッパーを開けてみせた。
そこにはきゅうりの浅漬けが入っている。
事もあろうに、知典はそれを口に入れてみせた。
ぼり、ぼり。
「美味しいよ? 大丈夫だよ?」
「うそ……」
わたしも一切れ口に含む。痺れるような感覚。しょっぱすぎる。
「なんで」
瞳から勝手に涙が溢れていた。
「なんで、平気なの」
(たまごやきあますぎ)
(おいしくない)
昼間の雪南の声が脳裏に響く。
「もしかして、味覚が」
「……ごめん」
知典は申し訳なさそうにタッパーを紙袋に戻して、わたしに差し出した。
「その通りだ。僕は今、味覚を失っているんだ。何を食べても、砂を噛んでいるような、違和感だけが口に残る。半年くらい、ずっとそうなんだ。何を食べても美味しくなくて。吐き出したくなる。
どんな感覚が『美味しい』だったのか、思い出せなくて。
そんなとき、思い浮かんだのが、風夏がいつも美味しそうにご飯を食べている顔だったんだ……。風夏に会えば、思い出せるかなと考えたけど」
ゆっくりと、知典はベンチから立ち上がった。
今にも消えそうな弱々しい背中。痛々しい背中。
わたしの知らない、初恋の彼の『今』。
「思い出せなかったし、君に迷惑をかけた。心から申し訳なく思う」
「……なんで」
わたしの全身は小刻みに震えていた。
その先にある言葉を拒否したい、そんな予感がしたから。
だけど。
「精神的なものだと言われたよ。僕は、人を殺してしまったんだ。だから、君と僕は、やっぱりもう会わない方がいい。
……さようなら」
もう追いかけることはできなかった。
残された紙袋と、わたし。
「ひとを……ころした……?」
殺人犯? そんな、まさか。
だとしたら大々的に報道されていて、知らない筈がないだろう。
(知典くん……なんで、どうして)
何も考えられないでいるとスマホの画面が光った。
『1週間後に帰国する。今度こそきちんと話し合おう。ただし俺の主張は変わらない。離婚は認めない』