第2話 甘い卵焼き
雪南は、いちごのかたちをした髪飾りがお気に入りだ。
クリアピンクで本物と同じ大きさをしていて、濃いピンク色のゴムに通されている。髪の毛をふたつに分けて左右共にそのヘアゴムで結んでもらうのをいたく気に入っているらしい。
雪南は、うどんが好きだ。
自分専用のお椀に入れられた分は必ず完食してお代わりをねだる。トッピングは要らないようで、キャラクターもののかまぼこを載せるとかえって文句を言ってくる。
わたしの大事な雪南。
夏産まれだけど、雪という字を入れたいと言われて、名前をつけた。
奥二重だけど睫毛がくるんとカールしていてとってもかわいい瞳をしている。肌はもちもちすべすべで、髪の毛はちょっと癖があるけれど許容範囲内だと思う。
赤ちゃんの頃のなんともいえない甘い匂いが本当に好きで、嗅ぐと癒やされた。あぁ、だから世の中の母親は自分の子どもを愛せるんだななんて思ったりもした。
だんだん自我が発達してきて大人顔負けの発言をすることもあるし、中身が伴っていない場合も多かったりする。わたし自身に余裕がないときは苛々をぶつけそうになることもあるけれど、この子がいるから乗り越えられたこともたくさんあるのは紛れもない事実だ。
なんてことを、ブランケットにくるまってすやすやと寝息をたてている雪南を眺めながら考えていた。
知典と偶然の再会を果たしてから1週間が過ぎた。
わたしは何も変わらずに日々の生活をこなしている。
「どう?」
夏子さんが部屋を覗いてきた。
「うん、熱は下がってきた。下痢もなくなった。今日いっぱい寝れば明日は元気になると思う」
「風ちゃん、見ておくから気分転換に散歩でもしてきたら? 病院に行く以外、こもりっきりだったでしょ」
「ありがとう」
わたしは苦笑いで返す。
「目が醒めてわたしがいなかったら泣きわめくと思うし」
「ばか。あんたが根詰めすぎて倒れてもいけないでしょ。お駄賃あげるから甘いものでも買ってきなさい」
・
久しぶりの、ひとりの時間。
後ろ髪を引かれる思いで家の外に出た。
(雪南に、ヨーグルトでも買ってってあげようかな)
(……あ)
不意に、足が止まる。
道路の向こう側の公園のベンチに、知典らしき男性の背中が見えた。
わたしは横断歩道を渡って公園に近づく。
彼はスマホゲームで遊んでいる中学生たちを眺めているようだった。
「知典くん」
知典が振り向く。
暗い影を湛えた、生気のない表情。
「お礼を言いたくて」
ぼそぼそと呟いた。
「この前は、ありがとう」
「そんな。別に、いいのに」
「久しぶりのまともな食事だったんだ」
やはりきちんとご飯を食べていないようだった。
「だけど、罰が当たるかもしれない」
知典は、骨ばった掌をじっと見つめた。
どちらかというと中学生の頃の知典は、ぽっちゃりとした体型だった筈。
成長期を経たとはいえここまでやつれるものなのだろうか。
別々の高校に進学して自然消滅した淡い初恋の行方。
わたし自身、追おうとしなかったから、どうしてこんなことになっているのかさっぱり分からない。
「風夏は料理が上手になったのに、俺は何も変わらないままだ」
わたしに話しかけているのではない。知典は自分自身に言い聞かせているのだ。
ふらふらと立ち上がると彼はどこへともなく歩いて行ってしまった。
残ったのは、説明のできないもやもやとした感情だけ。
・
それからわたしは、お弁当を持ち歩くことにした。
お弁当といっても、小さなおにぎりと、卵焼きと、からあげとかウインナーのようなたんぱく質だけ。
もし知典に会えたら渡そう。
会えなかったら、小腹が空いたときに食べよう。
次会うときには知典の話を聞いてあげたい。
ふたりの間に流れた空白の時間を知りたいと思っていた。
「まま、おやつたべたい」
自転車の後部座席から雪南が訴える。
「おうちに帰ったら、夏子さんのスイートポテトがあるよ」
「やだ。いまたべたいの」
「うーん……あ」
かばんのなかの小さいお弁当。
ちょうど公園も見えてきたところだ。
(どうせ今日もいないだろうし)
「ちょっと寄り道しようか?」
「する!」
「おにぎり食べる?」
「たべる!」
(やっぱり、いないかぁ)
ベンチにふたりで並んで座る。ウエットティッシュで雪南の手を拭いてあげてから、おにぎりを渡してあげた。
「おにぎりおにぎり、ゆーのおにぎり」
おやつを食べたいと言ったのは忘れてしまったのか、雪南はうれしそうにおにぎりをくるんでいたラップを剥がす。
「いただきます」
口をもぐもぐと動かす雪南。
「こうくんのままはね、おにぎりにからあげをいれるんだって。ままは、おにぎりはおにぎり、からあげはからあげ。どうして?」
「どうしてだろうね」
「ゆー、きょう、こうくんのおよめさんになるってきめたんだ」
「こうくんと約束したの?」
「うん。おうちはゆうえんちなの」
「それはすごい」
(いつから)
楽しそうにしている雪南の横顔を眺めながら考える。
(結婚というのは具体的なものになって、現実的になって、破綻してしまうんだろう)
……いや、全員が全員、破綻する訳じゃないか。
「ういんなーとたまごやきもたべるね」
「はい、どうぞ」
願わくば、この子はわたしのようになってほしくない。
・
それから数日経って、わたしはついに知典へお弁当を渡す機会に恵まれた。
歯医者に行く為に半休をとった日の、会社からの帰り道。
今にも消え入りそうなスーツ姿の男を見つけて小走りで駆け寄った。
「食べて」
ベンチに座ったままの知典は、虚を突かれたような表情でわたしを見上げる。
「この前会ったときからあのときのお弁当のリベンジをしたかったの」
「……ありがとう」
「隣、座るね?」
ベンチで隣同士に座る。
「水族館、思い出すなぁ。ここ数年行ってないけど。動物園はしょっちゅう行くんだよ? 入場料が全然違うの。動物園は、すっごく安い」
横目で確認すると、知典はもそもそと卵焼きを食べてくれていた。
「……俺は、どちらも、仕事で行ってた」
「そうなんだ。どんな仕事をしてるの?」
「……。卵焼き、美味しいよ」
答える気はないということか。
(どうすれば)
彼に近づけるんだろう。
今さら恋愛感情が湧いてくることはないけれど、こんな状態の彼と出会ってほっとける訳がないのに。
足元を見つめる。
知典は砂にまみれた黒い革靴。わたしはくたびれた黒いパンプス。
こんなかたちで再会するなんて思わなかった。
(せめてもう1回だけ訊いてみよう)
顔を上げたそのときだった、
「ままー!!!!!」
聞こえる筈のない叫びが届いたのは。
「雪南!?」
雪南がわたし目がけて走ってくる。そのままお腹にとびついてきた。
「ど、どうしたのっ?」
「おねつ」
見上げたおでこにシートが貼られていた。
「え、ちょっと待って、お迎え……」
「風ちゃん」
後から現れたのは夏子さんだった。
いつも以上に眉間に皺を寄せている。怒っている。
「その男は誰だい? あんた、変な隙を見せちゃいけないのは解ってるでしょ」
わたしは後ろを向く。
知典が呆気にとられたようにかたまっていた。
「あ! ここでねてたひと? げんきになった?」
わたしにしがみついたまま雪南が言う。
「違うの夏子さん。あの、中学のとき付き合ってた、知典くん……覚えてるかな。夏子さんも会ったことあるでしょ? 雪南が言ったようにここで行き倒れてたの」
夏子さんは舐め回すように知典を観察する。肉食獣のような、猛禽類のような、鋭い視線。
やがて、記憶と一致した部分を見いだしたようだった。
「あぁ……あの、生徒会をやってた子?」
「そうそう。見かけて、心配になって、お弁当をつくってあげたの」
「ふぅん、見かけて、ねぇ」
「ねーぇ、まま、たまごやきあますぎ」
「ちょっと雪南!?」
何が何だか分からない。
夏子さんはいぶかしげで、知典は状況を理解できず硬直していて、雪南はお弁当の卵焼きを食べている。
「……ママ?」
やっと知典から言葉が零れ落ちた。
「ごめん、隠しているつもりはなかったんだけど。雪南」
「ゆきなです! よんさいです! ねぇままー」
「分かったからちょっと待って。それはおにいさんが食べている途中なのよ?」
「でもおいしくない」
「ちょっと。何てこと言うの、熱で味覚がおかしくなってるんじゃ……」
雪南はわたしにしがみつき離れない。
たしかに火照っている。家に帰ったら寝かせてあげないと。
夏子さんが迎えに行ってくれてよかった。
「とりあえず話は家に帰ってからだよ。知典くん、あんたも来なさい」
そして夏子さんには、誰ひとりとして逆らえないのだった。