第1話 冷めた肉じゃが
「お先に失礼します」
「うん、お疲れ。また後でね」
事務所のいちばん奥の席に座っている所長が顔を上げた。
所長といっても同居中の叔父だ。のんびりとした気質の持ち主で、怒られたことは一度もない。今だって大きくて四角い眼鏡を外して、あくびをしている。
わたしは時短勤務の身なので先に退勤するけれど、叔父は今日も夜遅くまで働くのだろう。
「そういえば夏子さんが牛乳買ってきてって」
「分かりました」
夏子さんというのは叔父の妻、つまり叔母だ。わたしの母の姉にあたる。
壁にかかっている時計をちらりと見た。今日は少し遅くなってしまった。雪南を迎えに行ったついでにコンビニに寄ろうと決めて、事務所から出る。
狭い更衣室で制服からさっと着替えて、緩んでいた髪の毛を束ねなおした。ロッカーの扉につけられた小さな鏡に映るわたしの顔は、眉毛がハの字に下がって、老けこんでいた。
鏡の隣には小さな写真を柄物のマスキングテープで貼ってある。雪南が4歳の誕生日を迎えた日に撮った天使のような笑顔。わたしの宝物だ。
早足で駐輪場へ向かう。
風がほんの少し強い。木枯らし、というにはまだ早いものの、だいぶ秋も深まってきた。
(今年中にはすべて終わるといいんだけど)
小さく溜息を吐き出す。
そして大きく自転車のペダルを踏み込んだ。
・
託児所へ雪南を迎えに行き、自転車の後ろで延々と今日あったことを報告してくる愛娘に相づちを打ちながら、帰る。
わたしの毎日のルーティンワーク。
「くろねこさーん、ごはんたべたー?」
立派な家の塀に飾られている黒猫の置物へ話しかけるのは、雪南のルーティンワーク。
「まま、おうちかえったら、ゆーとおままごとね! ゆーがままだからね」
「はいはい」
そんな、いつもと変わらない日常。
……その筈だった。
「まま、あのひと、へん」
よく遊ぶ公園の脇を通りかかったとき、雪南が驚いたように叫んだ。
変質者?
雪南に何か危害がもたらされてはいけない、ときつく視線を向けると、ベンチで男がうずくまっていた。
「だいじょうぶかなぁ」
呑気そうな雪南。
わたしはその男を注視して、……声にならない声をあげる。
(もしかして)
その男は、浮浪者というには身なりが整っていた。
どちらかといえば昼寝をしているサラリーマンのような、でも、どこか違和感がある。その原因はひどくやせ細っているから、だけではなかった。
(もしかして)
「大丈夫だと思うよ。おうちに帰るよ」
「はーい」
動揺を悟られる訳にはいかない。
ただ、男の傍を通りすぎるとき、姿をじっと見ずにはいられなかった。
・
帰宅すると、玄関で割烹着姿の夏子さんがつり目をさらに上げて待ち構えていた。この、叔父と真逆の性格の持ち主は、見た目の通り物言いもきつく、歯に衣着せない。
子どもの頃からお世話になっていなければ、わたしだって苦手意識を持っていたと思う。
「ちょっと風ちゃん! 牛乳は?」
「あ。ごめん、慌てて忘れちゃった」
「もう、しょうがないんだから」
「すぐコンビニに行ってくるから」
「よろしくね。さぁ、ゆーちゃん、夏子さんと遊ぼうか」
「うん!!!」
通園かばんを廊下に引きずりながら雪南は叔母についていく。鼻歌を歌って、ごきげんのようだ。きっと今日託児所で教えてもらったのだろう歌は、あとで何回も繰り返し聴くことになるだろう。
(……そうだ)
・
ちょっとくらいなら、という気持ちで、牛乳パックの入ったビニール袋を手にわたしは公園まで戻った。
男はまだうずくまっていた。さっきサラリーマンだと感じたのは、スーツを着ていたからだった。
痩せこけた、男……。
普通に考えても、話しかけるなんて危ないことなのに。
心臓の鼓動が速くなるにつれて、口が勝手に動いていた。
「ともの、り、くん?」
男は名前に反応したかのようにゆっくりと顔を上げる。
その瞳は暗く澱んでいて、光がない。虚ろに動き、わたしを視界に捉える。
無精髭の生えた口元が弱々しく動いた。
「……風夏」
表情も風貌も記憶のなかの知典とはまるで別人だったけれど、声は、確かに——わたしの初恋の相手だった。
驚きは震えとなって音に乗る。
「知典くんなの? ど、どうしてこんなところで」
「……会えないかなと、思って」
生気を失いかけた表情のまま、知典は弱々しく答えた。
「風夏に」
そのとき、恐らく彼の意志とは無関係に、大きな音が彼の言葉を遮った。
ぐう。
明らかにお腹の音。
「……そうだちょっと待ってて」
わたしは急いで自転車に飛び乗る。
・
「遅かったじゃないの。どうしたの?」
「夏子さんごめんなさいっ。もう一回出てくるっ」
文句を言いたげな夏子さんを置いて台所へ入ると、牛乳を冷蔵庫にしまう。
ガスコンロに置かれたままの片手鍋から、肉じゃがを使い捨て用タッパーに詰め込む。割り箸と一緒に、さっきまで牛乳の入っていたビニール袋に入れた。戸棚からタッパーをもうひとつ取り出して、昨日の残りの白ご飯も入れる。
「風ちゃん?!」
「すぐ戻るから」
・
公園に戻ると、知典はまだベンチにいた。
「はい。食べて」
知典が呆気にとられた表情になる。この数分でいちばん人間らしい表情。恐る恐るわたしからビニール袋を受け取ると、丁寧な仕草でタッパーの蓋を開けた。
無造作に詰められた肉じゃが。
「風夏がつくったの?」
「そうだよ。記念すべき初デートで、すっごくまずいお弁当をつくってきた風夏さんとは思えない美味しさだから食べてみて」
「あぁ……」
記憶を辿るようにして知典が頷く。
かつてのわたし。水族館で、人生初のデート。意気込んでお弁当をつくろうとしたものの、完成したのはひどく残念な出来のものだった。
焦げた味の濃すぎるからあげ、変な臭いのするきんぴら、甘すぎる卵焼きとほうれん草のごま和え。それから強く握りすぎたせいでかたいおにぎり。
「急いで持ってきたから温めてないけど、冷めて味が染み染みになってるから美味しいよ。コツは、お野菜を確実に柔らかくしたいから、最初に電子レンジでチンして柔らかくすることと、めんつゆの素で適当に味を調整すること! めんつゆ様々なんだけどね」
「……いただきます」
ぼんやりと肉じゃがを見つめて、知典が両手を合わせる。
箸を割って、そして、ゆっくりとじゃがいもと豚肉を口に運んだ。
「おいしい」
咀嚼しながら、知典がぼそっと呟く。
わたしは胸をなで下ろして、改めて彼の姿を見た。
今にも倒れてしまいそうな……記憶の中の知典とは別人すぎて、認識できたのが自分でも不思議なくらいだ。
『風夏!』
そもそも、はつらつとした彼の姿しか記憶にないのだ。
中学生のときの彼はきらきらと輝く笑顔の持ち主だった。
いつでも明るくて、皆の輪の中心にいた知典。時に子犬のように可愛くて、時に狼のように激しく逆境に立ち向かっていた姿を、わたしは好きになった……。
「タッパーもお箸も捨てていいから。ゆっくり食べてね」
「……ありがとう」
「わたしは家に戻らなきゃいけないけど、久しぶりに会えてよかった」
「俺も」
知典はようやく笑みを浮かべた。
どこかあどけなさの残る、わたしの知っている口元。
「風夏に会いたかった。ありがとう、ごちそうさま」
その『ありがとう』に、お互いの歩んできた道のりという見えない壁を感じて、胸が痛んだ。
わたしたちは、もう、お互いの人生に関わっていない、赤の他人なのだ……。
・
「あ、まま! もうっ。どこいってたの? ゆーとおままごとは!」
雪南が頬を膨らませて、わたしの脛を叩く。
「ごめんごめん。お風呂でね」
「ぜったいだよ」
「風夏、手伝ってー」
台所から夏子さんがわたしを呼ぶ。
「はーい」
夏子さんに呼ばれて台所へ入ろうとしてわたしは息を飲んだ。
『こんなもの食えるか!』
いる筈のない人間の背中の幻が、音が、襲いかかる。
真っ先に流しに捨てられたのは肉じゃがだった。仕事で上司に怒られたという苛立ちは、わたしのつくった晩ご飯にぶつけられた。一口食べて夫は立ち上がると食事をすべて流しへ投げ入れた。わたしの心と一緒に、捨てた。棄てたのだ。
(あのときの肉じゃが、自信作だったな……)
知典の『ごちそうさま』という言葉が、『ありがとう』という微笑みが。
ひどく自分から遠いものだったから、思い出してしまった……。
「……風夏?」
幻はさっと一瞬で消える。
振り向いたのは夏子さんだ。
「どうしたの。顔、真っ青。ちょっと座ってなさい」
「……うん」
わたしはふらふらとよろめきながら居間に戻る。雪南が小さな人形を相手におままごとをしていた。
「ごはん、おいしい?」
「ままがいっしょうけんめいつくったから、おいしいよ」
「ありがとう」
「ごちそうさま」
わたしがいることに気づき、雪南が顔を上げる。
大きな瞳がきらきらと輝いた。
「はい! たくさんたべてね」
木でできた野菜のおもちゃが詰めこまれたおままごと用の器を手渡される。
「いただきます」
「おかわりもあるからね。もぐもぐもぐ、おいしーい。ほら、ままもおいしいっていって」
「うん、おいしいね」
「はい。ではおかわりをあげましょう」
雪南は器に野菜のおもちゃを追加してくる。何回も、何回も。
(おいしいって言ってもらえるって、幸せなこと、だったね……)
わたしは雪南に気づかれないように、涙を手の甲で拭った。