8 司書の過去(1)
婚約者を失って一ヶ月。アデリアは特にやることもなかったので、毎日書物室に通っていた。
本来の興味のままに旅行記や風土記も読んだが、侍女たちがやたらと絵物語を勧めてくるので、半ば押し切られるように次々と絵物語を読んでいた。
アデリアは以前から、領主館の書物室の充実ぶりは知っていた。しかしよくもこれほどの絵物語が揃っていたものだと、毎日読みながら感心している。おかげでアデリアはすっかり絵物語に詳しくなってしまった。
それなのに、まだ読むものがある。特に今日は侍女たちが張り切っていて、アデリアの前のテーブルには小山のように積み上げられていた。
いったい何冊あるのだろう。
半ば呆然と見ていると、奥から出てきた人物も驚いたようだった。
「今日はまた多いですね。すべて絵物語ですか?」
「そうなのよ。親類の屋敷から取り寄せたものが昨日届いたんでしょう? それでオリガが張り切って、こんなにたくさん……」
呆れ気味らしい声に振り返ったアデリアは、そこで言葉を失った。
声を聞いているはずなのに、そこに立っているのが誰なのかわからなかった。しばらく悩んで、ようやく見慣れないその男が司書であると気づいた。
目をあげても、ぼさぼさの金髪のために表情はよくわからないのはいつも通りだ。
しかし、顔色はもちろん輪郭さえ不明にしていたヒゲが、きれいさっぱりとなくなっていた。昨日も一昨日も会っているはずなのに、以前の姿が全く思い出せないくらいにきれいに剃っている。
無秩序に伸びていたヒゲがなくなると、司書は若く見えた。アデリアが無意識に予想していた年齢よりはるかに若い。父親と同じくらいかと思っていたのに、もっと若く見えた。
さすがに長兄バラムよりは上だろう。
しかし、まさか四十歳より下とは思っていなかったので、アデリアは完全に動揺してしまった。
「司書殿は、あの、ええっと、おヒゲを剃ったのね」
なんとかそう言葉をかける。
しかし司書も、アデリアの反応を平然と流す余裕はないようだ。侍女たちまで目を丸くして見ているから落ち着かないのだろう。何度も咳払いをしていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「……奥方様からヒゲは剃るように言われまして。剃刀を使うのは久しぶりだったので手間取りました」
「まあ、お母様が? いったい何を思いついたのかしら。急に変なことを言い出してごめんなさいね。でもすっきりしていてお似合いだと思うわよ」
心許なさそうにヒゲのない頬を触るのが可笑しくて、アデリアは思わず微笑んだ。そしてさらに言葉を続けようとして、しかし次の瞬間、笑みを強張らせて口を閉じた。
肌がむき出しになった頬に、はっきりとわかる傷跡があった。
アデリアが気づいた傷跡は一つではない。薄い傷跡は幾つもある。
その中で右頬の跡はかなり深い傷だったのだろう。肌が不自然にひきつれ、周囲とは異質になっている。裂傷の跡は目元へと伸びていて、その傷跡がどこまで続いているかは長い前髪のせいでわからなかった。
「あの、もしかして……」
アデリアはどこまで聞いていいものかと迷い、口ごもる。
ぼさぼさ髮の司書は、アデリアの視線と表情で察したようだ。口元に苦笑らしきものを浮かべた。頬や顎に触れていた手もゆっくりと下ろして、さり気なく立ち位置を変えた。右側の傷跡が見えにくいようにしたのだと、アデリアは後で気づいた。
「見苦しいものが目立ってしまいましたか」
「……お母様ったら、きっと何も考えていないわ。傷跡を隠すためのヒゲだったのなら、また伸ばしていいわよ。お母様には私から言っておきますから」
「ああ、いえ、私は目立ってもかまわないのですが、女性には見苦しすぎるかと思いまして。恐ろしげでいるより、むさくるしい方がましだろうと言われて伸ばしていただけです」
「私はそんなに気にしないけれど、そうね、人によっては怖がってしまうのかもしれないわね。でも、それは刀傷よね? その、とても深そうな傷跡もあるわ」
司書の顔色を伺いながら問いかける。
アデリアの言葉を聞き、司書は指先で頬の傷跡に触れた。
「……これは目まで続いています。見てしまうと、男でもいい気分にはならないでしょう。この髪型はそれを目立たないようにするためです。奥方様には髪も切れと言われてしまいましたが、この領主館には女性も多いですからね。お言葉に背くつもりはないのですが、迷いがあってこのままにしております」
「そういう事情があるのに、髪まで切れと言ったの? 本当にお母様ったら。でも私も、あなたの髪は気になっていたのよね。書物室にいる人にしては……少しどうかと思うの」
「お嬢様もそうおっしゃるのでしたら、やはりもっと早く何とかすべきでしたか」
苦笑したまま、司書はぼさぼさの自分の髪を指でつまんだ。
アデリアはその姿を見ていたが、そっと身を乗り出した。
「あの……髪を結ぶとか切るとかしても、ひどい傷跡だけでもうまく隠せると思うのよ。同じような傷のある方はどうしていらっしゃるかとか、他の領主館ではどうしているかとか、お兄様方やうちの騎士たちに聞いてみてもいいかしら?」
アデリアがそう言って返事を待つが、司書はヒゲのなくなった頬を触れながら黙っている。これは余計なお節介だったかとアデリアは慌ててしまい、やや早口で言葉を続けた。
「や、やっぱり気が乗らないわよね。ヒゲがなくなっただけでもずいぶんさっぱりしたから、私はそのままでもいいと思うわ。今までずっと見慣れているし、お父様も認めていらっしゃるようですし。今の姿なら、お母様もきっと納得してくださると思うわ」
「……いえ、私は髪を切っても構わないのですよ。ただ、さすがにこの傷は……お嬢様の目に触れることがあっていいものかと……」
「構いません。アデリアに見せてあげなさい」
突然、扉の方から聞き慣れた声が割って入ってきた。
アデリアは驚いて振り返る。ゆったりと書物室に入ってくる母ポリアナを見て、さらに驚いた。しかし美しい母親は、領主の奥方らしい威厳のある顔のまま司書の前に立ち、ヒゲのなくなった顔を見上げてにっこりと笑った。
「少しすっきりしたわね。でもお顔のヒゲだけでなく、髪も何とかするように言ったはずですよ」
「陛下よりこの姿を命じられておりますので、どうかご容赦を」
「あら、いくら国王陛下から命じられていても、今は当家の家臣なのでしょう? 当家にも傷痍軍人はいます。領主の娘であるアデリアも、騎士の現実を知っておく必要がありますから、一度見せてあげなさい」
「え? 私? 現実を見よというのはその通りと思いますが、本人が望まないのなら無理強いはよくないと思いますわ」
突然のことに、アデリアはやや慌てて母と司書の間に割って入る。
強引な母をたしなめつつ、実は他のことが気になっていた。
司書は今、国王から命じられたと言った。貴族領主とはいえ、デラウェス家は中位程度。王宮では特別高い地位ではない。そんな田舎貴族の、ささやかな書物室に勤める男と国王に、どんな接点があるのだろうか。
そこが気になってしまったアデリアは戸惑うばかりだ。もっと戸惑っているであろう司書は、しかし領主の奥方の命令には逆らえない。天井を見上げ、押し殺したため息をついたようだった。
やがて改めてアデリアに向き直り、姿勢を正した。
「この傷のある右側の目は見えません。医師に回復は不可能だと言われています。そのくらいの傷だということをご覚悟ください。傷跡はここから……額まで続いています」
姿勢を正しても少し背を丸めている男は、大きな頬の傷跡を指差し、その指を額のあたりまで動かした。
そしてアデリアが頷いたのを見てから、顔を隠している金髪を両手でかき上げた。