7 令嬢と奥方(2)
「アデリア。ここにいたのね」
柔らかな声がして、長い衣装の裾をさばきながら誰かが書物室に入ってきた。司書と入れ替わりのように入ってきたのは、アデリアの母ポリアナだった。
デラウェスの奥方であるポリアナは、いつ見ても若々しい。実年齢を正確に推測できないほどだ。そしてとても美しい。
この母親に似ていればもう少し美人に生まれただろうにと、何度となく繰り返していることを考える。
もちろん、父親であるバッシュは立派な領主だ。悪い顔立ちではないと思っているし、父親似の長兄バラムや末兄マイズは若い女性たちにもてている。
しかし残念ながら、女の顔に直すと美女とは言えない。
アデリアは自分の顔は嫌いではない。でも鏡を見るたびに、もう少し何とかならなかったのかと思うのだ。
今日のポリアナは、その美しい顔を疲れたように曇らせていた。母を迎えるために立ち上がった末娘に座るように言うと、ふうっとため息をついて隣に座った。
「お部屋にいないから驚いたわ。本を読みにいらしたの?」
「いいえ、今日は何日か前に持ち出していた絵物語を返しにきただけですわ」
「まあ、そうだったのね」
母親は憂いのこもった目を絵物語に向けた。その途端、きれいな緑色の目が大きくなり、じわりと涙が浮かんだ。
「お母様?」
「かわいそうなアデリア。あなたにも必ず、エディークのような素晴らしい殿方が現れますからね。いいえ、この母が必ず探し出してあげます」
「……エディーク?」
母が突然出してきた名前に、アデリアは一瞬考え込む。
その背後で、侍女たちがこっそりと咳払いをした。何事かと目を向けると、若い侍女たちは絵物語へと目配せをした。アデリアもつられてそちらへ目を向けて、やっと思い出した。
エディークというのは『白百合に誓う愛』に出てくる人物の名前だ。悲劇の令嬢を見守り続けた美男貴族がそういう名前だった。
乙女たちの夢を形にしたような、どこまでも美しくて優しくて献身的な人物だった。
しかし表紙を一瞥しただけでその名前が簡単に出てくるとは、どうやらポリアナもこの絵物語の愛読者だったらしい。ちなみに、戦死した騎士の名前はジャイズと言う。
思い込みの激しい母のことだ。婚約者を失った娘が悲しみにくれて、同じ境遇の令嬢イレーナに共感しているとでも考えているかもしれない。いや、絶対にそう誤解しているだろう。
アデリアは少し慌ててしまった。
ポリアナは優しい女性だが、少々思い込みが激しい。狩りを始めると熱中しすぎる三番目の兄とそっくりだ。普段はおっとりと振る舞っているから実害がないが、縁談となると領主夫人の得意分野ではないか。
暴走する前に母親の気持ちを逸らさなければならない。アデリアは急いで話題を探した。
だが書物室中に目を向けても、こういう時に限って思いつかない。隣室への扉口にまで目が行って、そこでようやく話題を見つけた。
「あの、お母様も書物室にはよくいらっしゃるの?」
「いまは滅多に来ないけれど、昔はよく絵物語を読みに来ていたわ。こっそり貸し出してもらったりもしたわね」
「最近はいらっしゃっていないのなら、あの司書の方はご存知ないのでしょうね」
「司書?」
ポリアナは優しげに首を傾げた。
その表情を見る限り、アデリアの縁談から興味をそらすことに成功したようだ。密かにほっとしつつ、アデリアはいかにも残念そうな顔をした。
「私は最近、また書物室に来るようになりました。なのに、いつも顔を合わせている司書の方の名前を知らないままなのです。もしかしたら最初に名乗ってくれたのかと思ったけれど、全く覚えがなくて。それで今日、思い切って尋ねてみたのですが……」
「あら、もしかしてその人、あなたに問われたのに名乗らなかったの?」
「今まで通りに司書と呼んでいい、と言われてしまいました。でも、最近は愚痴まで聞いてもらっているのに、名前を知らないままなんて落ち着きません」
「……まあ、そうなの」
ポリアナは首を少し傾けたまま、じいっとアデリアを見つめた。娘の表情に何かを見つけたようだ。
それから、頬に手を当ててゆっくりと口を開いた。
「私が知っている司書というと、お年を召したご老人だわ。騎士出身で、お年のわりに今でも頼もしいお姿をしているわ。肩書きは司書長だったはずよ。でもあなたが言う司書というのは、そんなご老人ではないようね?」
「老人……ではないと思います。髪はまだ全体がきれいな金色ですから。髪の色は明るくて美しいのに、顔がよく見えないくらいにぼさぼさに伸ばしている人ですわ。それに、体に全然あっていない大きい制服を着ていますね。姿勢はいつも悪いし、歩き方も足を引きずるような動きで。あ、でも、礼をする姿はちょっときれいだったわ。いろいろ変わった人だから、何だか気になって」
「……司書は現役を引退する年齢の方がなることが多いけれど、そこまで年はとっていないようね。それで、アデリアはその人のことが気になっているのね?」
「ええ、そうですね。よく顔を合わせているから、お名前くらいは知りたいと思っています」
「そうですか。わかりました。大丈夫よ、司書になる人なら身元はしっかりしているはずです。だからわたくしにお任せなさい!」
ポリアナはいつもはおっとりした奥方だ。
だが今日のポリアナは違った。唐突に立ち上がると、娘の手を握りしめた。
「その人のことは、すぐに探り出してあげますからね。あなたはいつも通りにその人とお話をしていなさいね。でもそうね、これは私の想像だけど……その人とはお話が合っているのではないかしら?」
「ええっと、話が合うというか、私が一方的に愚痴をこぼしているというか……」
「まあ、その方は愚痴も黙ってきいてくれるのね?」
ポリアナはますます笑顔を深くして、娘の手を振り回すほどの勢いで握る。その勢いにアデリアは驚いて、とりあえず頷いた。
すると、ポリアナはさらに嬉しそうに笑い、娘の手をもう一度ぎゅっと握りしめた。
「お、お母様?」
「かわいいアデリア。その人と一緒にいて、息が詰まることはある?」
「え? そういえば司書というお仕事柄のせいか、押し付けがましいところはありませんね。だから息苦しい感じはない……と思います」
「そうなの、そうなのね。それはそれは、まあまあ!」
上機嫌の奥方は末娘の体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
唐突な行動に、アデリアは驚いて言葉が出てこない。そんな末娘をもう一度抱きしめると、ポリアナは軽やかに扉口へと向かった。
それから振り返り、改めて少女のような明るい笑顔を見せた。
「アデリア。お母様はあなたの味方ですからね。年は近い方がいいと思っていたけれど、そうね、アデリアには少し落ち着いた方もいいかもしれませんわね。うっかりしていたわ!」
「あの、いったい何のお話でしょうか?」
「うふふ。ではまた、後ほどゆっくりお話をしましょうね」
ひらひらと手を振ったポリアナは、来た時と別人のような軽やかな足取りで書物室を出て行く。控えていた侍女たちもアデリアに一礼をして従って行った。
「お母様ったら、どうなさったのかしら」
呆然と見送りながら、アデリアは思わずつぶやいていた。
振り返って侍女たちを見たが、彼女たちも唐突な奥方の行動について行けていないらしい。
恋物語に詳しければ、ポリアナが何を思いついたのかに気づいたかもしれない。しかしアデリアは、絵物語を真剣に読んでいなかったくらいに興味を持っていなかった。
もしこの時に気がついてポリアナの後を追っていれば、あるいは違う未来があったかもしれない。