5 悲劇と物語(3)
椅子に腰掛けたアデリアは、背筋をピンと伸ばしたまま、いかにも冴えない風体の司書を見ていた。
この司書の男とは最近はよく顔を合わせている。デラウェス家の書物室で働くようになったのは最近のはずだ。
アデリアは一時期、亡くなった祖父の部屋の棚に並ぶ風土記ばかりを読み、書物室には行っていない時期があった。だから正確には知らないが、少なくとも一年前に騎士たちを迎えるために領主館中を確認して歩いた時にはまだいなかったと思う。
勤続一年未満なら新参の使用人だ。なのに古参の使用人にも一目置かれているようなところがあって、気がつくと領主館に馴染んでいた。
しかし……何度見てもちぐはぐな男だ。
背は高いようだし、体つきもしっかりしていて、とにかくとても大きい人だ。
なのに彼は髪をボサボサに伸ばしたままで、頬にも無精ヒゲなのか伸ばしている途中なのか判断に困るようなヒゲがあった。
背中はいつ見ても丸めている。その上、もっと腹回りの大きな人に合うような大きすぎる制服を着て、それを簡素なベルトでぎゅっと締めている。たっぷりと余った布地のせいで、痩せているのか太っているのかもよくわからない。
敢えて口に出すことはしないが、もっと体にあった服をきて、背筋を伸ばし、髪をきちんと結うか切るかすればすっきりするだろうにと、いつも気になってしまう。
その丸まった背中が一層丸くなり、司書は一冊の絵物語を手にとった。
表紙には白百合の絵が大きく入っている。その上に、美しい飾り文字で『白百合に誓う愛』と綴られていた。
その表紙を見て、侍女たちはほっとしつつも困った顔をしていた。
「こういう恋物語は侍女の方々の方が詳しいと思いますが、お嬢様がお読みになったとすればこれではないかと。……侍女殿たちのご様子を見ると、これで間違いないようですね」
「ありがとう。読んでみるわ」
いつもゆっくりと歩く司書は、今日も足を引きずるようにゆっくり歩いて絵物語を差し出した。すぐそばに立っているのに、見上げても顔立ちは定かではない。
髪とヒゲが邪魔だった。もっと覗き込めば見えるのだろうが、アデリアとしてはそこまで無理を強いるつもりはない。
それより、表紙に何となく見覚えがある絵物語の方が気になっていたので、さっそく開いて読み始めた。
絵物語は文字に強くない女性を意識して作られているから、一頁めくる度に美しい絵がある。それに年若い少女でも読み進められる簡単な文体で、劇的な恋物語が展開していく。そこまではアデリアの記憶通りだ。
とある貴族の令嬢が、一度だけ顔を合わせた若き騎士と婚約する。しかしその騎士は戦死してしまい、令嬢は泣き暮らす。
どうやら、この話を読んだ当時の幼いアデリアは、恋物語には全く興味がなかったようだ。適当に読み飛ばしていたらしく、全く覚えていなかった設定があった。
「……そうなのね、一目惚れだったのね」
パラパラとめくりながら、アデリアは詰まらなそうにつぶやいた。
「だから、このご令嬢は泣き暮らすのね。同じ状況なのに涙が出ないのは、私がおかしいからかと思ったわ」
「アデリアお嬢様」
控えていたぼさぼさ髮の司書は姿勢を正した。何事かと目を上げると、相変わらず背中は丸かったが、それなりに見栄えのする恭しい礼をした。
「婚約者様がお亡くなりになったと聞いています。どうか気を落とされませぬよう」
「いやだわ、もうあなたにまで伝わっているの? でもお心遣いありがとう」
アデリアはそう言ったが、手に持っていた絵物語に目を落とすとため息をついた。
「お嬢様?」
「私、本当に涙が出ないの。お父様もお母様も、気落ちするなとおっしゃるけれど、困ってしまうくらい少しも悲しくないのよ。確かに、また婚約者がいなくなったと思うと残念と思うわよ? でもそれは残念であって、悲しいではない。涙が出ることではないの。一回見ただけの綺麗な馬が死んだと聞いた時と同じというか、むしろそちらの方がもっと悲しい気がするわ」
「はぁ……」
司書は困ったように伸びた髪に触れている。
それはそうだろう。婚約者と馬を同列で語るようなおかしな領主の末娘の愚痴など、すすんで聞きたい人はいない。
これ以上つまらない愚痴をこぼして、相手を困らせてはいけない。もう部屋に戻った方がいいだろう。そう考えて立ち上がると、ぼさぼさ髮の司書はテーブルに置いたままだった絵物語を差し出した。
「お嬢様はこの話を最後まで読んでいないのではないでしょうか。覚えていないことも多いようですし、気分転換にお持ちください」
「持ち出していいの?」
「今はここに来る若いお嬢様方はいらっしゃいませんから。読み終わりましたらお知らせください。取りに伺います」
「またここに来たいから、知らせないわよ。この場所は静かだから好きなの」
「そうですか。ではお待ちしております」
司書は丁寧な礼をした。
先ほどの礼もそうだったが、この男は見た目のわりにきれいな礼をする。
アデリアは一瞬それが気になったが、壁際で控えていた侍女が絵物語を受け取りに進み出たので、それ以上こだわるのをやめた。
部屋で読む『白百合に誓う愛』という題名の絵物語は、初めて読んだかのような新鮮さがあった。
アデリアは読み進めながら、昔の自分は本当に興味がなかったのだなと感心してしまった
あらすじは記憶とあっていた。
一回しか会ったことのない婚約者の死によって始まる悲劇。ここまでは記憶の通りだ。だが書物室で知ったように、二人は一目惚れ同士だったらしい。それで婚約者の死を知って嘆き悲しみ、部屋にこもって泣き暮らした。
しかしその後の展開は、笑ってしまうほど記憶になかった。もしかしたら、前半だけで飽きていたのかもしれない。
全く未知の展開に、アデリアは思わず読み耽っていた。
「お嬢様、そろそろお休みになるお時間です」
一度通して読み終えて、もう一度読み返していたアデリアが顔を上げると、侍女が困った顔をしていた。部屋を見回すと、いつの間にか暗くなっていた。その中でアデリアの周囲だけ蝋燭の炎が明るく照らしていた。
高価な蝋燭を少しくらい浪費しても、両親はなんとも思わないだろう。婚約者を失った今なら、昼間のような明るさにしても、それで心が癒えるのならと笑って許してくれるだろう。
だが少しも落ち込んでいないアデリアとしては、流石に心苦しい。
慌てて絵物語を閉じて立ち上がった。
「もうこんなに遅くなっていたのね。燭台の火は一つだけでいいわ。あとは消してちょうだい」
「かしこまりました」
侍女は壁際に控えていたもう一人の侍女に合図をして、手早く部屋を暗くしていく。
それが終わると、アデリアの就寝の準備を始めた。
「ねえ、オリガはあの絵物語は読んだことはある?」
着替えを手伝い、癖のある黒髪を丁寧に梳る侍女に尋ねると、その年齢の近い若い侍女は、ちらりとテーブルの上にある絵物語を見てからにっこりと笑った。
「『白百合に誓う愛』でございますね? もちろん読んだことがございます。素敵なお話ですよね」
「……昔読んだはずだったのに、私は全然覚えていなかったわ」
「まあ、そうなのですか? 最初の別れのところで、本当に目が腫れるまで泣きましたわ。最後の素敵な貴族さまに嫁いでいくまで読み終えて、しばらく私まで幸せいっぱいでした。ねえ、ネリア」
「ええ、私もそうでした。それと、二回目の恋の出会いの場面、覚えてしまうほど読みましたわ。白百合を見て泣いていたお姫様に、ハンカチを差し出しながら見とれてしまうあの場面は素敵でした」
「私もそこは好き! もう一度会いたくて、雨が降ってもやってくるのよね!」
「いいわよね。風邪をひいて熱を出しても会いに来て。熱に気づいた令嬢様が解熱の薬を渡した時に手が触れて、その熱さと握る手の強さに戸惑うのよね!」
若い侍女たちは頬を染め目を輝かせて語り合う。仕事のことを一時的に忘れて笑いあう姿は楽しそうだ。
それを見ながら、アデリアはふと首をかしげていた。
「ねえ、ネリア。オリガ。恋ってそんなに簡単にできるものなの? 最初は一目惚れしたのに、次はまったく違うタイプの人と恋をしているわよ?」
「それぞれ素敵な方だから、それでいいんです」
「一回しか会っていないなんて、どんな人かまったくわからないのよ?」
「物語だからいいんです」
「名前も知らない人が毎日のようにウロウロするなんて、危険と思わないの?」
「見るからにお貴族様なお方だからいいんですよ。物語ですし」
「……物語ならいいの? そういうものかしら?」
「はい、そういうものです。現実にはあんな素敵な殿方はいませんから。戦場でも婚約者を想う凛々しい騎士様に、傷心の女性を優しく見守りながら一途に愛してくれる美男の貴族様。二人の殿方に愛されるなんて、考えただけでうっとりですわ」
侍女たちの目や口調は熱い。
アデリアはまだ納得できなかったが、彼女たちの熱意に押されて口を挟めない。話としては予想外の展開で面白くはあったし、おとなしく寝台に入ることにした。