4 悲劇と物語(2)
廊下に出ると、アデリアはふうっと息を吐いた。
張り詰めた同情の空気から解放されて、やっとゆっくりと考えることができた。ひやりとした空気が心地よい。
時々通り抜ける風を頰に感じながら、いつもの歩調で歩いていく。そして独り言のようにつぶやいた。
「結婚したら、お互いのことを知ることができると思っていたわ。結局、何も知ることはできないままになってしまったのね」
「お嬢様……」
後ろを歩く侍女がおろおろと声をかけてくる。
優しい侍女たちを安心させるために微笑みかけるが、頭の中では婚約者の死について考えていた。だが考えても、どうにかなることではない。
「何と言うか……いろいろ仕方がないわよね」
そうつぶやくと、一緒にため息がもれた。
侍女たちは何か慰めようと一生懸命になっている。でも侍女たち自身が泣きそうになっていて、声が全く出ないようだ。アデリアはもう一度笑みを向け、それから頭を振って書物室へと向かおうとした。
しかし廊下を曲がったところで足を止めた。曲がった先の廊下で深刻そうに立ち話をしていた人物たちは、アデリアに気づくとゆっくりと壁から離れた。
一人は黒髪、もう一人は赤みの強い茶色の髪だ。顔立ちはどことなく似通っているが、表情は正反対に近い。アデリアの兄たちだ。
アデリアが慌てて礼をすると、長兄バラムがまず口を開いた。
「アデリア。父上の部屋からだな?」
「はい、バラムお兄様。メイリックお兄様はお戻りになっていたのですね」
「パドーン家からの使者の護衛のために、一緒に戻ってきたのだよ。それより……大丈夫か?」
すぐ前に立った二番目の兄メイリックは、腰を屈めて覗き込んできた。
女性として平均より少し小さめなアデリアに比べ、三人の兄は背が高い。一番背の低いメイリックでもアデリアよりはるかに高い。
そんな二人にそばに立たれるとかなり圧迫感を感じるが、比較的馴染みのあるメイリックが心配そうな顔をしているから怖くはない。
「私は大丈夫です。でも、お母様はショックを受けているようでした」
「ああ、まあ母上のことなら大丈夫だろう。そうだろう、兄上」
「そうだな。あの人はすぐに立ち直る。だが……」
メイリックより少し離れて立っていたバラムは、わずかに首を動かす。
鋭い水色の目が、同じ色の妹の目を見つめる。思わず背筋を伸ばしてしまうアデリアに、いつも通りの感情を抑えた顔で言葉を続けた。
「フェリック殿のことは残念だった。そなたとうまくやっていけそうな男だと思っていたのだが」
「バラムお兄様がそう思ったのなら、立派な方だったのでしょうね」
「立派かどうかは知らないな。しかし、戦死を惜しいと思える男ではあった」
淡々と言うと、ふと口を閉じる。
それからアデリアの頭に手を載せて、軽く撫でた。
「惜しい男ではあったが、比類なしというほどでもない。あの程度の男なら他にもいる。一緒に馬を見てくれる男もいるだろう」
アデリアは思わず長兄を見上げた。
冷たいようで、バラムは思っていた以上にアデリアのことも見ているようだ。次期領主ならばこのくらいの目配りは当然なのかもしれないが、最近は時々、こういう言葉をかけてくれるようになった気がする。
アデリアが十七歳になって、顔を合わせる機会が増えたからかもしれない。
年が離れていることもあって、バラムは基本的には構ってくれない。しかし嫌われているわけではないようだ。
それが嬉しくて、アデリアが思わず微笑む。
非常に珍しいことに、バラムは笑い返してくれた。
同じ髪の色と目の色の兄の笑顔は、意外に優しく見えた。
アデリアはぽかんと見上げてしまう。この場に居合わせたメイリックも、母親似の華やかな容姿が台無しになるほど驚いた顔をしていた。
そんなメイリックの表情が気に障ったのか、バラムはすぐに笑みを消した。アデリアの頭に触れていた手も外し、まっすぐに立ち直していた。
「そういえば、どこかへ行く途中だったか?」
「は、はい。書物室へ……」
「引き止めて悪かったな。もう行きなさい」
「……はい。失礼いたします」
アデリアは何度も瞬きをして背筋を伸ばす。
冷ややかな声にまた緊張してしまったが、メイリックの心配そうな笑顔を受けて少し気分が楽になった。
王国と王を支えているのは、恭順を示した大領主たちだ。
広大な領地を持つ彼らは貴族領主と呼ばれている。
貴族領主たちは大領主として領土を治め、独立した軍事力を有する。そして有事には領軍と呼ばれる私有軍を国王のために差し出すことになっている。また平時でも、国王直属の王国軍の軍備は貴族たちが負担していた。その代わりに領内の独立を認められており、領主とその一族は小王国のように領地を治めていた。
また、貴族は一族から騎士を出すことが習わしとなっている。これは貴族たちが戦士階級だった昔から変わらない。
もちろん一族以外からも有能な騎士を集めていて、召し抱えるかわりに一代限りの小領地を俸禄として与えていた。
それらとは別に、半分独立した小領主が存在する。
世襲する小領主で、有事には配下を引き連れて貴族領主の私軍に加わる。そのため領主は騎士領主と呼ばれ、必ず実戦に出る騎士でなければならないと定められていた。
地位的には一代小領主より安定しているが、後継者となる騎士がいなければ領主不在として大領主に返還されることもあった。
アデリアの父バッシュ・デラウェスは、大領主である貴族領主の一人だ。
建国当時と比べると勢いはないが、それでも領主の館は広大だ。もちろんただ大きいだけでなく、権威の象徴でなければならない。だから田舎貴族とはいえ、領主館には書物室と呼ばれる贅沢な部屋があった。
書物室は、その名の通り書物のための部屋だ。
書物が高価で希少だった時代のものから最近の最高級の装丁を施したものまで、部屋の中央の大きな棚に並べている。その棚の他にも、広い部屋の壁際にはぎっしりと書物が収めた棚が並んでいて、その高さは高い天井まで及んでいるところもある。
明るさを得るために、窓は大きくて明るい。
椅子も上質のものをゆったりと置いていて、燭台も実用的というより装飾的なものばかり。広い空間と豪奢な調度の部屋だから、来客をもてなす場所としても利用されている。
しかしアデリアは、そんな豪奢な雰囲気を味わうつもりで訪れたのではない。
普段なら各地から集められた書物を読むのだが、今日に限ってはそんな実用的な棚の前も素通りする。
書物室の隅に、この領主館の歴代の夫人たちが集めた絵物語が収められている。
その周辺は穏やかな色合いでまとめられ、燭台も豪華一点張りのものではない。窓枠も金箔を貼ったようなまばゆいものではなく、すっきりとした木枠でやや古風な造りだ。絵物語に多い少し前の時代の雰囲気で、それが女性に非常に受けている。
アデリアも幼い頃に、よくここに連れられてきていた。
棚に並ぶ絵物語は、美しい絵と簡易な文章によって構成されている。
本来は勉強の苦手な女性たちに文字を教える目的があったようが、今では娯楽として定着した。内容は少女たちを夢中にさせるような恋物語ばかりで、年端もいかない少女から嫁ぐ直前の令嬢まで、従姉妹たちは夢中になって読んでいた。
しかし幼いアデリアは、そんな恋物語より祖父が寝物語に読んでくれた風土記の方が好きだった。そのために文字を覚え、難しい文章も読めるようになったのに、お節介な従姉妹たちは無理矢理ここに座らせて、絵物語を一緒に読む羽目になったものだ。
そんな従姉妹も、今はもう嫁いでこの領主館にはいない。
兄たちが結婚して子供をもうけるのはもう少し先だろう。やがて生まれる子供たちが文字を読めるようになるまで、この一画はしばらく静寂の空間であり続ける。
アデリアはその静けさを楽しむように、足音を立てないようにゆっくりと歩いた。そして絵物語を収めた棚の前で足を止めて、手にとってパラパラと目を通していった。
「アデリアお嬢様。何かお探しですか?」
背後から穏やかそうな声がした。
振り返るまでもなく、アデリアはその声を知っていた。声をかけて来ることも予想していた。だから突然の声にも慌てない。領主の末娘にふさわしい姿を保ってまっすぐに背筋を伸ばした。
しかしその令嬢らしい作り顔には、顔馴染みへの気安さから、ほんの少しだけ柔らかな素の笑みが混ざっていた。
「お邪魔しているわ。司書殿」
アデリアの笑みを受けて、少し離れたところに立つ司書の制服を着た男が頭を少し下げる軽い礼をした。そして、アデリアの手元へと目を落とした。
「お嬢様にしては珍しいものをお読みなのですね。他にも探しものがあればお手伝いしますよ」
「そうね、手伝ってもらおうかしら。昔読んだ絵物語を探したいのに、タイトルを忘れてしまったのよ」
「大体のあらすじを伺えばわかるかもしれません」
低めの落ち着いた声にそう言われ、アデリアはほっとする。本当はどこから手をつければいいのか困っていたのだ。
アデリアはかなりうろ覚えなあらすじを言い並べた。
「最終的にはどうなったか覚えていないけれど、貴族令嬢の悲恋ものだったと思うわ。一度しか会ったことのない婚約者がいたのだけど、死んでしまって。主人公は泣き暮らしていたと思うのよ」
それを聞いた司書の男はわずかに身じろぎをした。壁際に控えている侍女たちも息を飲んだようだった。
しかし司書は何も言わず、アデリアに椅子を勧めて棚へと歩いていった。
「恐れながら、本当にそういう話をお探しなのでしょうか」
「ええ、そうよ。おかしいかしら」
「いいえ。ですが……一度しか会ったことのない婚約者の訃報を受けて泣き暮らすご令嬢、ですか?」
「急に思い出して、主人公はどんな風に泣いていたのか気になったの」
「はあ、そうですか」
司書はやや硬い声で相槌を打った。
困惑しているようだ。
そしてボサボサの金髪を目元から少しだけかきあげて、棚の前で腰を屈めた。