厩舎と令嬢(2)
領主一族用の厩舎は、いつもは静かな場所だ。
しかし今日はどこか慌ただしい空気が残っていて、厩舎番の少年たちが片付けに追われている。
少年たちに軽く声をかけてから、アデリアは小柄な馬の前に立った。
「この子が私の馬よ。おとなしくて賢い子なの」
「美しい馬ですね」
「お母様がこだわっていろいろ探してくれたのよ。でもこの子は、毛並みの美しさ以上に乗りやすいの」
そう説明しながら、アデリアは柵に手をかけた。
栗毛に淡い金色のたてがみの小柄な馬は、ゆっくりとアデリアに近付いてきた。少し不安がっているようだ。
初めて見るエディークがいるせいらしい。
用心深くやってきた馬は、そろりとアデリアの手に鼻先を寄せた。その間も、耳は神経質そうに動いていて、エディークをじっと見ている。
「普段は、もう少し人懐っこい子なんだけど」
「お気になさらず。警戒心が強い馬なのでしょう。悪いことではありません」
エディークはそう言って、ゆっくりとアデリアと並ぶように柵の前に立った。馬が警戒を示す。しかしエディークは静かに微笑んだ。
「むしろ、用心深いのはお嬢様の馬としては良いことです。お嬢様の身の安全を守ろうとしてくれますからね」
落ち着いた声だった。
ただ静かなだけではない。安定した精神をそのまま現しているようだ。それにとても優しい。
一瞬、アデリアはその声に聞き入っていたようだ。馬が動いたことで我に返った。警戒していた馬が、エディークに一歩近付いている。でもまだ警戒を続けている様子があった。
「お嬢様、馬の名前をお聞きしていいですか?」
「ベルよ」
「良い名前ですね。……ベル、おいで」
エディークは馬に向き直って名前を呼ぶ。その声の優しさに誘われるように、馬はそろりと顔を寄せた。
「よしよし。いい子だ」
その頭を慣れた様子で撫でると、馬は安心したように柵いっぱいに身を寄せてきた。いつもの人懐っこさが戻ってきたようだ。その首を撫でながら、エディークは馬の全身に目を配った。
「小柄ですが、体つきはしっかりしていますね。早く走るより、長く走り続ける方が得意そうだ」
「ええ、そうなのよ! きれいな毛並みばかりが目立つけれど、とても疲れ知らずなの。ゆっくりならどこまでも走ってくれるわ。私の技術が追いつかないくらいよ」
「そうですか。実に良い馬を選ばれましたね」
馬を撫でながら、エディークはアデリアに顔を向けた。
青い左目は、いつになく優しく見えた。微笑んでいるからかもしれない。司書としてのわきまえた微笑みとはどこか違う気がして、アデリアは思わず目を奪われてしまう。
これが本来の表情なのかもしれない。
見慣れないけれど、こんなエディークを見ているのはとても心地好い。いつまでも見ていたいような……と考えて、慌ててそれを振り払った。
「……向こうに、バラムお兄様の馬がいるわ」
エディークが厩舎の奥へと目を向ける。
もう一度、アデリアの馬の首を優しく撫でてから、大型の黒い馬がいるところへと向かった。
アデリアも一緒に向かう。
そっと目を上げると、エディークは先ほどとはまた違う笑みを浮かべていた。
「これは良い馬ですね。軍馬の素養を持ちつつも、極めて落ち着いている。……陛下の馬を思い出します」
独り言のようにつぶやいて、とても楽しそうに馬を見ている。でもアデリアは、何気なく口にしたであろう言葉に興味を引かれ、しばらく迷ってから思い切って聞いてみた。
「あの……エディークは、国王陛下の馬を知っているの?」
「はい。陛下の護衛を任されることが多かったので」
なんでもないように答え、エディークはふとアデリアを見る。
その青い目がわずかに大きくなり、ゆっくりと視線が逸れていく。口元も一瞬歪んだ。
なんだか、厩舎に来る前に見た顔に似ている。
そう考えたアデリアは、自分が馬の方へと大きく身を乗り出していたことに気が付いた。
「……もしかして、私、また子供みたいになっていたかしら」
「好奇心が旺盛であることは、お嬢様の良いところかと」
エディークの言葉は否定ではなかった。それに、まだ目を逸らしている。
やはり笑いを堪えているのだろう。
しかし咳払いをしたエディークは、今度はすぐにアデリアへと向き直った。
「王都についてはあまり興味はお持ちでないようでしたが、陛下の馬には興味があるようですね」
「あの……そうみたい」
真っ赤になったアデリアは、目を伏せながらこっそりと白状する。
エディークはまた微笑んだ。
「華やかな場のことは詳しくありませんが、王族の皆様の馬についてなら、多少はお話しできるかもしれません」
「本当に?!」
アデリアは思わず顔を上げる。
その嬉しそうな顔を見つめ、エディークは笑顔でうなずいた。
「機密以外になりますが、それでもよろしければ」
それから、何かを見つけたようにアデリアの頭部へと手を伸ばす。
しかしその手は、途中でぴたりと止まる。
アデリアが不思議そうに見ている前で、なぜか窓へと視線を向けた。
「どうかしたの?」
「……いいえ、なんでもありません。干し草がついていますよ」
落ち着いた口調でそう言って、アデリアの黒髪に絡まっていた干し草の欠片をつまみ取る。
まるで兄たちのように自然な動きだ。だからエディークがもう一度窓へと目を向けても、アデリアは特に気にしなかった。
◇
「バラム様。中に入らないのですか?」
「……気が変わった。部屋に戻る」
厩舎の前で足を止めていたバラムは、くるりと体の向きを変えた。
屋敷へと戻るすらりとした長身は、乗馬服を着ている。
そして、慌てて後を追う若い従者も乗馬用の服装だった。
「あの、馬での外出はどうなったのでしょうか?」
「今日は中止だ。部屋で本を読もう」
バラムは淡々とそう言って、ふと振り返った。
付き従っているのは、若い従者の他に、護衛の騎士も二人いる。バラムは眉をわずかに動かし、一瞬だけ表情を緩めた。
「せっかくそなたたちも用意したのに、悪かったな」
「我ら騎士は馬にも乗ることが前提ですので構いませんが……バラム様は、乗馬を楽しみにしていたのではありませんか?」
次期当主であるバラムは、いつも多忙だ。
しかし、今日はたまたま日中の予定が空いた。
父バッシュが視察に出掛ける日は、バラムは屋敷に待機することが多いものだ。ただ、今日は領主夫人である母ポリアナが「たまには羽を伸ばしていらっしゃい」と代理を買って出てくれた。
だから、久しぶりに馬の遠乗りをしようと予定していたし、バラムもとても楽しみにしていた様子があったのに、取りやめにするらしい。
騎士たちはチラッと視線を交わし、歩きながら厩舎を振り返った。
「……その、アデリアお嬢様は馬に夢中でしたね」
「そうだな」
「確かに、以前からバラム様の馬に興味をお持ちだったようですが……よろしいのですか?」
「妹の馬好きは、今に始まった事ではない」
「いえ、そうではなく……」
苦笑を浮かべた騎士たちは、もう一度お互いに顔を見合わせた。
「……例の、エディーク殿と一緒だったようですが」
「厩舎には他にも人がいた。ゆえに、問題はない」
「それはそうですが。……バラム様がよしとなさるのなら、我らも見なかったことにいたしましょう」
「少々、距離が近いように思いましたが、エディーク殿は軽はずみな人間ではないようですから、まあ大丈夫でしょう」
騎士たちの言葉は、ほとんど独り言のようだった。
若い従者は、恐る恐るバラムの表情を探る。
黒髪に水色の目の次期領主は、冷徹な顔をほとんど崩さず、しかしかすかな笑みを浮かべていた。
——次期領主バラムは、歳の離れた妹を大切に思っているらしい。
普段から薄々察していたことを、従者は改めて実感する。だから、それ以上のことを思い悩むことはやめることにした。
番外編『厩舎と令嬢』 (終)