厩舎と令嬢(1)
この話は、本編の14話『散歩の日和(2)』と15話『回復と手紙(1)』の間、番外編『デラウェスの騎士たち』の前の頃のお話です。
全2話。
領主館の廊下の小窓から外を見ながら、アデリアはため息をついた。
視線の先では、立派な馬車が出発を待っていた。
馬車の周辺には、領軍の制服を着た騎士たちが揃っている。
アデリアが見ている間にデラウェス領主である父バッシュが姿を現し、一部の警戒中の騎士以外は一斉に敬礼をした。
これから、バッシュは視察に出かける。
領主として新たな農地を見て回るついでに、東部から訪れた商人たちと面会する予定だと聞いている。
しかし、父バッシュが馬車に乗り込むのを見ながら、アデリアはまたため息をついてしまった。
「お嬢様。どうしましたか?」
声をかけてきたのは、エディークだ。一緒に廊下を歩いていたと思ったら突然足を止めて、そのままじっと外を見ているから不審に思ったようだ。
アデリアはもう一度ため息をついてから、エディークに向き直った。
「ごめんなさい。散歩の行き先を変更しなければいけないわ」
「私は全く構いませんが、何かありましたか?」
「領軍用の厩舎に行くつもりだったのに、間に合わなかったの。今日はメイリックお兄様の馬を近くから見せてもらおうと思っていたのに」
領軍騎士の馬がいる厩舎は二つある。
一つは兵舎に隣接する厩舎。街道警備任務を行う騎士たちの馬は、日常的にはこちらにいる。
もう一つは領主館のそばにある厩舎。今日のように、領主たちの護衛をするときなどに、馬を待機させている。
エディークを誘おうと思っていたのは、領主館側の厩舎だ。今朝、次兄メイリックが領主館にいたから、メイリックの馬を見ることができそうだと楽しみにしていた。
しかしその馬は、馬車のすぐ横にいた。もちろん武装したメイリックを乗せている。
「お父様の護衛は、メイリックお兄様の隊だったのね。メイリックお兄様の馬はとてもきれいだから、エディークにも見て欲しかったのよ」
「そうでしたか。しかし機会はまだいくらでもあるかと」
「……確かにそうね。メイリックお兄様はずっとデラウェスにいるんですもの。でも、今日の散歩はどこに行こうかしら。領軍の厩舎はきっと空っぽよ」
ため息を吐いたアデリアは、悲しげにうつむいた。
エディークは、少し驚いたような顔でわずかに目を大きくした。しかしすぐに目を逸らす。
少し離れたところに控えていた侍女たちが、アデリアとエディークを見比べて、くすくすと笑い出した。どうしたのかとアデリアが顔を向けても、侍女たちはすまし顔で目を逸らしてしまう。
周囲に何も変わったことはない。
首を傾げたアデリアに、エディークはちらりと目を向け、しかしすぐにまた目を逸らして咳払いをした。
「……エディーク?」
「失礼しました。なんと言うか、いつもは落ち着いていらっしゃるが、お嬢様は時々……」
エディークは言葉を濁す。
なんだか珍しい雰囲気になっている気がして、アデリアは首を傾げた。
「言いかけて途中で止めるなんて、気になってしまうわよ」
「いえ、それは……」
エディークはまた言い淀んだ。
しかしアデリアがじっと見上げているから、逃げられないと悟ったのだろう。さっきより大きめの咳払いをした。
「……失礼ながら、今のお嬢様は、年相応に素直に見えます」
「年相応?」
「ご立派な淑女とはいえ、まだ十代なのだなと」
「つまり、子供っぽいということ?」
「ご無礼を申し上げました」
エディークは深々と頭を下げた。
まるで忠誠を誓う騎士そのものだ。そのくらい美しい身のこなしではあったけれど……それにしては顔を深く伏せすぎている。
よく見ると、エディークの肩はわずかに動いている。さっきも目を合わせようとはしなかったし、咳払いも不自然だった。それでいて、アデリアの言葉も否定していない。
「……もしかして、笑っているの?」
エディークは答えない。
深く頭を下げ、顔も伏せたままだ。
アデリアは眉をひそめた。顔を上げないエディークを見つめ、すぐそばへ行ってそろりとしゃがんだ。
「お、お嬢様?!」
予想外の行動に、侍女たちが慌てる。
しかしアデリアはしゃがんだ姿でエディークを見上げた。
下から見上げると、エディークの顔がよく見える。思った通り、エディークの口元には笑みがあった。
「やっぱり笑っているじゃない!」
「いえ、これは……」
「正直に言いなさい。子供っぽいから笑ったのね?」
「……お嬢様は、馬が本当にお好きなのだなと思いました」
「つまり、子供っぽいと思ったのでしょう?」
「違いますよ。確かに年相応に感情豊かですが、子供には見えない。とても微笑ましいお姿です」
エディークは降参したように伏せていた顔を上げる。
まだしゃがんでいるアデリアに手を差し出し、今度ははっきりと笑った。
「お嬢様と馬の話ができるのは、とても光栄に思います」
「本当に? ……でも、今日は馬を見ることができないのよ。残念だわ」
「ご領主様が出かけたのなら、バラム様はお残りになるのではありませんか?」
領主が不在の時は、代理を務める人物が領主館にいなければならない。
母ポリアナの時もあるけれど、最近は長兄バラムが次期領主としてその役割を担うことが増えている。
アデリアは目を輝かせてうなずいた。
「そうね、バラムお兄様の馬は厩舎にいるかもしれないわね!」
「遠くから拝見しただけですが、バラム様の馬もとても良い馬だと思いました」
「ええ、そうよ。メイリックお兄様の馬は葦毛で華やかだけれど、バラムお兄様の馬は真っ黒で、前脚の先だけが白いのよ。……でも、まだ近くで見たことはまだないわ」
「では良い機会ではないでしょうか。お嬢様の馬も紹介していただけますか?」
「もちろんよ!」
アデリアは微笑んだ。
その笑顔のまま、差し出されたエディークの手にほっそりとした手を重ねる。重ねてから、エディークの体の負担になるのではないかと気付いたけれど、大きな手はしっかりとアデリアの手を握り込み、くいっと引っ張る。
自力で立ちあがろうと動きかけていた体は、あっさりと立ち上がることができた。
「……そういえば、司書長はエディークのことを力持ちだと言っていたわね」
「以前ほどではありませんが、お嬢様はとてもお軽いので」
エディークは笑う。
いつもの穏やかな微笑みではなく、どこかマイズを思わせるような表情だ。
これがマイズなら、直後にからかわれる。
だから習慣で、つい身構えてしまった。もちろん、エディークはマイズよりずっと落ち着いた大人で、領主の娘であるアデリアには敬意を示してくれる。
それでも、おそるおそる見上げると、エディークがまた目をそらした。口元を隠すように手を当てている。
もしかして、また笑いそうになっているのだろうか。
やっと思い当たり、アデリアは思わず瞬きをした。笑いを堪えているエディークは、なんだか雰囲気が変わっている。いつもは落ち着いた印象なのに、父バッシュやその同世代の男性たちとは全く違う。どちらかといえば兄たちに近い気がして、実際にそのくらいの年齢なのだと思い出す。
ずっと年の離れた人だと思っていたけれど、もしかしたらそんなに大人すぎる人ではないのかもしれない。
なぜか、そんなことが頭をよぎった。
「……厩舎に向かいましょう」
くるりと向きを変え、領主一族用の厩舎へと歩き出す。
途中でこっそり振り返ると、エディークはくつろいだ顔で微笑んでいた。