カルバンから来た騎士(3)
「メイリックお兄様。急に投げないで!」
「受け取り損ねるようなら、追い出したかったんだがな」
「ひどいわ。怪我をしたかもしれないのに!」
「エディーク殿なら一緒に落馬することはあっても、おまえを怪我させることはない」
メイリックは真顔で言い切った。変なところで信頼しているらしい。
アデリアは不満を訴えるように長兄を見た。しかしバラムは冷ややかな顔のままメイリックを見やっただけで、何も言わない。
すぐに妹とエディークに目を戻し、ちらりと太陽を見上げた。
「アデリアは軍馬を走らせてみたいと言っていたな。ちょうどいい機会だ。領主館の周りを走ってもらえ」
「あの、バラムお兄様?」
「そなたにも予定はあるだろう。エディークも疲れているかもしれないから、走るのは一周だけだ。それ以上は許さない」
それだけを言うと、バラムは自分の馬に乗った。
メイリックも騎乗した。しかし視線はエディークに据えたままだ。
「……黙認するのは一周する間だけだぞ。ゆっくり歩くのもだめだ。全速力で一周する間だけは目をつぶってやる」
それだけ言い捨てて、メイリックは先に馬を走らせる兄たちを追っていった。
乱れた髪をなでつけながら呆然と見送ったアデリアは、ようやく落ち着きを取り戻してため息をついた。
「いったいどういうことなのかしら。エディークはわかった?」
「もちろんです。つまり……領主館を一周する間だけは、二人だけでいることを許していただいたのですよ」
アデリアはエディークを見上げた。黒い幅広の眼帯の下で、隻眼の騎士は苦笑していた。こう言う顔をしていると、年上の大人の落ち着きを感じる。
そんなことを考えながらふと目を動かすと、彼の手が後遺症のある足を撫でていることにも気づいた。
「足が痛むの?」
「痛みがないといえば嘘になりますが、酷くはありません。とっさに忘れてしまうくらいのものです」
「本当に? でも今日はもう半日くらい馬に乗っているのでしょう? 早く休んだ方がいいわ。私、降りるわね。誰か、踏み台を……」
「アデリア」
侍女を振り返ろうとした時に名を呼ばれて、アデリアは口を閉じた。
それから敬称なしで呼ばれたと今さら気づいて、頰が熱くなった。
横座りしているから、眼帯をしていない左側の顔がよく見えた。こめかみの傷跡も、目尻の垂れた目元も、金色のまつげもよく見えた。
エディークは微笑んだ。目尻に浅くしわが生じる笑みはいつも通りに優しくて穏やかで、でもそれを裏切るように目の光は強い。その落差にどきりとする。きっと顔はますます赤くなっただろう。
エディークは目を逸らしてくれなかった。
目をそらすことも許してくれなかった。
間近から目を覗き込みながら、黙り込んだアデリアの手を持ち上げて指先に口付けた。その間も目を逸らさない。アデリアが手を引こうとしても、柔らかく握って阻んだ。
アデリアが少し息苦しく感じた時に、やっと目を少し伏せた。
ほっとしたのも束の間、目を上げたエディークが小さく笑いながらまだ指輪をはめていない左手の薬指に軽い口付けをして、おもむろに爪先で軽く馬の腹を蹴った。
軍馬の一歩は大きい。
アデリアは揺れを理由にエディークから顔を逸らした。握り込まれていた手も、あっさりと自由になった。
そのことにほっとする。
でも、どこかで残念な気がした。
大きく揺れて横座りした片方の肩がエディークの体に当たる。肩に感じる布越しの体温は不思議に心地良い。
「アデリア」
「……な、なにかしら?」
「以前、軍馬の速さを体験してみたいとおっしゃっていましたね。もう誰かの軍馬に乗せてもらいましたか?」
「いいえ。一度だけお兄様に頼んでみたけれど、気候が安定するまで待てと言われてしまったの」
「なるほど。それであの言葉か。……私の馬なら、領主館の一周はあっという間だ。しかし私もまだ体は万全ではありませんから、今日は長くは走れません。さすがにバラム殿は抜かりがない」
「バラムお兄様がどうかしたの?」
「あの方はあなたに甘いが、それだけではないということですよ。……万が一に備えて、しっかり鞍を持っていてください」
エディークは苦笑しながらそう言うと、アデリアの腰に軽く手を添えた。
たったそれだけなのに、ついびくりと震えてしまった。子供じみた動揺に気付かれていないことを祈ったのに、背後から笑いの気配がする。誤魔化すように背筋を伸ばすと、突然腰に回った手で強く引き寄せられた。
肩だけでなく、腕も耳もぴったりと広い胸に押し当たる。
頰が熱い。
心臓が高鳴りすぎて苦しくらいに感じた時、背中に感じていた手が動いて頭をするりと撫でた。
大きな手は温かった。
アデリアは肩の力を少し抜いていた。それを待っていたように、軍馬はさらに大きく駆け始めていた。軽い駆け足はすぐに歩幅の大きな疾走となる。蹄が地面を蹴るたびにぐんと風景が後ろへと流れていき、アデリアの体はエディークの体に押し付けられた。
強い風を感じて思わず身を縮めると、腰を支えていたエディークの左腕が包み込むように動いた。乱れる髪を撫で付けられた気がして目をあげると、間近にある顔が覗き込むように見ていた。
「大丈夫ですか」
耳元で声が聞こえるのは、疾走中の馬上だからだ。
いつもより大きな声は、風と蹄の音の中でもはっきりと聞き取れた。
「怖くありませんか?」
「大丈夫よ!」
アデリアは叫び返した。
その声は無事に伝わったようで、エディークは微笑んだ。
エディークは前を向き、愛馬にさらなる疾走を命じる。たくましい軍馬はアデリアの体重を感じていないように、領主館を囲む草地を駆け抜けた。
あまりの速さに、アデリアはエディークの体と鞍にしがみついていた。でも半周を過ぎた頃には、周りに目を向ける余裕が出てきた。見慣れない高さでの疾走に、やがてアデリアは高揚していた。
怖くはない。
緊張もとけた。
エディークが馬を止めて見下ろした時には、驚いた顔をされるくらい笑っていた。
「楽しかった! とても楽しかったわ!」
「……それはよかった」
興奮気味なアデリアを見ながら、エディークはなぜかため息をついた。
その顔を見上げながら、もしかして騒ぎ過ぎただろうかとアデリアは不安になってしまった。
「エディーク、私、何か良くない事をしてしまったのかしら?」
「いいえ。……実は、私はとても緊張していたのですよ。今の私はとっさの反応が遅れる。馬が脚を取られたら、駆けるのが速すぎたら、あなたの気分が悪くなってしまったら。そんなことを考えて、初陣の時よりも緊張したかもしれない。なのにあなたは、本当に楽しそうな顔をしている」
エディークはまたため息をついた。
今度は先ほどよりも長くて深い気がする。アデリアは少し慌てながら背筋を伸ばした。
「エディーク、あの、ごめんなさい」
「謝る必要はありません。むしろ嬉しいのですよ。それだけ私を信頼してくれているのでしょう?」
「当然よ。エディークと一緒なら何も怖くないわ」
アデリアはやや申し訳なさそうに、でも誇らしそうにエディークを見上げた。
その目がふと動き、真剣な目の動きに合わせるように指を鮮やかな金髪に伸ばした。
「白い髪があるわ」
「そうですか」
「きれいな金髪と思っていたけれど、よく見ると、白髪もあるのね。気付かなかったわ」
「負傷の折に増えたようです」
「そうなのね。でも……エディークの髪は好きよ。きれいな金髪も、こっそり混じったこの真っ白な髪も」
アデリアはそう言って微笑み、もっと白髪を探すようにエディークの髪に指を通していく。
傷跡のあるこめかみにも触れて、その生え際をまじまじと見つめながら指を髪の中に入れた。
「叔父様方ならこの辺りに集まっていたりするから、探したらもっと見つかるのかしら。でも、そうね、今の金色もきれいと思うけれど、真っ白になっても色が混じっていてもきれいでしょうね。エディークは立派な大人だし、騎士領主ともなるとそれなりの貫禄も必要だから……」
「……アデリア」
髪を触りながら言葉を続けるアデリアを、エディークはため息交じりに遮った。
先ほどと違って、その顔は不機嫌なように見える。アデリアは目を瞬かせて口を閉じた。さらにもう一度ため息をついた顔は、不機嫌と言うより困惑に近いようにも見えて戸惑った。
エディークの青い左目は空や草地をさまよっていた。さらに領主館へと動いた。
しかしそちらからはすぐに目をそらし、馬を動かして背を向けた。
「あまり、私を信用しないでいただきたい」
「え?」
「……節度を守れと釘を刺されている身としては、居心地が悪い」
手綱を離した右手が、髪に触れていた細い手に触れた。
はっと我に返ったアデリアが体を離そうとした。でもその前に腰を支えていた左手が黒髪に触れ、柔らかな癖毛の中に手を差し込んでうなじを探った。
後頭部を大きな手が覆い、もう一方の手が顎をくいと上向かせる。
驚いたアデリアが身構える前に、すっと顔を寄せる。鼻の頭が頰に触れ、やや粗い吐息が耳をくすぐった。
「……!」
「節度は守ります」
体を強張らせたアデリアの頰と髪を大きな手が撫でた。心地よさに少し力が抜ける。
その頰に唇が当たった。
こめかみにも、額にも、鼻先にも唇が優しく触れていく。
頰に長めの前髪が揺れかかった。
少し、くすぐったい。
目を閉じたアデリアは、いつの間にか微笑んでいた。その笑みを刻んだ唇にふわりと柔らかなものが触れ、しばらくの後に離れていった。
顔にかかっていた髪も離れた。
エディークの体温も離れてしまった。暖かな光を浴びているのに、急に肌寒く感じる。思わず身を寄せたくなったけれど、指先に金髪が触れたところで我に返り、アデリアは慌てて手を引っ込めた。
その動きを目で追ったエディークは、もう一度額に口付けをしてからため息をついた。
「……これでは、またどこかへの視察に連れ出されるかもしれないな」
「視察?」
「あなたに触れ過ぎたかもしれない」
何度か瞬きをしていたアデリアは、はっとしたように領主館へと振り向いた。
あからさまにこちらを見ている人影はないけれど、長兄バラムの執務室の窓辺に誰かが立っている気がする。
カーテンだったらいいのに。
急に恥ずかしくなり、思わずエディークの体の影に隠れようとした。
何かに隠れたい一心で、目の前の肩に額を押し付けた。
一方エディークは、間近にある耳に目を落とした。
耳とうなじが赤く染まっていくのを見つめていたが、やがて無理矢理に目をそらして軽く馬の腹を蹴った。
軍馬は人間たちの様子は気にしていないようだ。ただ耳を小さく動かして、指示通りに歩き始める。
心構えができておらずに大きく揺れたアデリアの体を、エディークは包み込むように抱き締めた。
馬はゆったりと歩いた。
そのまま歩き続けて、領主館をもう一周してしまったことにアデリアが気付いたのは、憮然としたメイリックの手で馬から抱き下ろされた後だった。
番外編 「カルバンから来た騎士」 (終)