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カルバンから来た騎士(2)

 

 

 

「エディーク殿。貴公は家令と一緒にゆっくり参られよ。我らは一足先に行く」


 それだけエディークに言うと、バラムは軽く馬を腹を蹴る。

 馬はすっと脚を速めた。あっという間に先頭のメイリックに並び、追い抜いた。

 メイリックは馳け抜く長兄ににやりと笑いかけてから、警護の騎士に手で合図をして半数を引き連れて追っていく。残った警護の騎士は隊列を変えて、エディークと家令を守る形になった。


「あの若さが羨ましいですな。昔はともかく、今の私はもういい年齢ですので、馬での旅はあまり得意ではありません。ゆっくりで申し訳ない」

「いいえ。長距離移動の後ゆえに、無理が効かないのは私の方ですから」


 馬上でのんびりと笑う家令に、エディークは苦笑を返す。

 それから残っている警護の騎士の数を確認した。

 実質的に家令のための護衛のようだ。騎乗している限り、エディークも戦力と見なすということなのだろう。

 アデリアへの気持ちを抑えるのを止めたために、デラウェスでの信頼は揺らいでしまったかと思ったが、一応以前通りの信頼は得たままでいるらしい。

 そのことにほっとする。同時に、騎士として誇らしいのに妙に居心地の悪さを感じて苦笑いをしてしまった。


「ふむ、やはりお嬢様にお迎えいただけましたか」


 複雑な思いを抱えるエディークをちらりと見た家令は、ふと何気なさそうにつぶやいた。

 独り言のふりをしていたが、馬を並べたエディークが振り向くと待っていたように前方へ注意を促すように目配せをした。

 促されるままに前方に目を向けると、街道から領主館に至る道が登っていく丘が見えた。

 その丘の上に、馬を連れた小柄な女性がいる。

 近くに侍女らしき女性がやはり馬を連れて控えているから、乗馬の口実で迎えに来たのだろう。


 アデリアだ。

 丘の頂上で待っていたデラウェス家の令嬢は、領主の息子たちが丘を駆け上ってくるのを背筋を伸ばした美しい立ち姿で迎えた。

 馬を止めて降り立った長兄へは、丁寧な礼をした。

 まだ遠いからよく見えないが、きっと緊張した顔をしているだろう。それでも兄たちの無事の帰還への喜びを隠しきれずに、笑顔がすぐに戻ったはずだ。

 メイリックに対しては、長兄へのものより少しくつろいだ笑顔を向けているだろう。

 馬を歩かせながらエディークが微笑んだ時、バラムが妹の頭に触れた。

 びくりと姿勢を正すアデリアに何かを言いながら、風で乱れる長い髪を撫で付けていた。


「おやおや、お嬢様は、まだバラム様への態度は硬いようですな」

「確かにいつもお硬いようでしたが……最近はそうでもないのではありませんか?」


 エディークはそう言って前方を指し示した。

 眉をわずかに動かした家令は、目の上に手をかざして目を凝らした。

 緊張で身を固くしていたアデリアは、ふわりと微笑んでいた。そして兄の手を捕まえるように腕の辺りに触れていた。

 思いがけない行動をした妹をどう見たのか、バラムはまた何か声をかけたようだ。一瞬の間の後、アデリアはぱっと兄から手を離した。

 それから、エディークたちの方へとおずおずと振り返った。

 少しずつ近づいている今、何かをためらっている様子がよくわかる。ちらちらと兄を見上げる顔は、なぜか赤い。

 どうしたのだろう。それに、アデリアを前に押し出そうとしているメイリックの行動もよくわからない。

 エディークが内心で首を傾げながら前髪をかきあげた時、アデリアは口元に両手を添えて大きく息を吸った。


「……エディーク!」


 細い声が、エディークの名前を呼んだ。

 メイリックがからかうように妹の肩に手を置いて、何かを言っている。

 アデリアは恨めしそうに次兄を振り返り、それからさらに大きな声で呼んだ。


「エディーク!」


 今度は遠くまでよく通る声だった。

 馬たちは聞き慣れた声に耳を動かし、騎士たちは笑いを噛み殺しながらお互いに目配せをする。丘の上を吹く風が、癖のある長い黒髪をふわりと広げていた。

 家令はエディークのどこか強張った顔に気付くと、いつもは厳しい顔を笑みで崩した。


「お嬢様がお呼びですよ。年寄りの守りは騎士たちに押し付けて、早く行って差し上げてください」

「しかし」

「まあ、もう一度か二度、大きな声で名前を呼んでいただきたい気持ちはわかりますが。ほら、お嬢様はあんなに真っ赤になっておいでだ」


 家令に言われるまでもなく、アデリアの赤い顔は見えている。

 慣れない大きな声を出した上に、兄たちの視線を背に感じ、いたたまれないようだ。

 その目は、しかし丘を登り始めたエディークを見ていた。

 エディークは無意識のうちに手綱を握り直した。それだけで主人の心を感じ取ったのか、たくましい軍馬はわずかに脚を早めて家令より少し前に出る。

 それに気付いたのだろう。アデリアは恥じらいを忘れたように手を大きく振った。


 丘の上を見ながら、エディークは愛馬の腹を蹴った。

 ただ丘を登るだけにしては激しすぎる指示に、しかし軍馬は不満を示すことなく楽しげに坂道を駆け上がった。始めは軽やかだった足取りは、前方に敵兵を見出した時のように荒々しく激しくなっていく。

 軍馬の疾走で家令たちはあっという間に背後に離れ、道の先の丘の頂上が迫っていく。

 小柄な令嬢は笑っていた。

 羞恥ではなく、再会の喜びのために頬を染めていた。

 風がまた長い黒髪を吹き乱した。草の香りに満ちた風の中に、甘い香りがわずかに混じっていた。

 アデリアの肌にすり込まれた香油の香りだった。馴染んでいるためにたぶん本人は気付かなくなっているだろう。そのくらいにほのかな香りだ。だがその香りはアデリアの影ように付き従って、去った後も足跡のようにしばし残る。


 書物室ではよくこの香りを嗅いでいた。

 デラウェスに来て間もない頃、領主の令嬢は軽やかな足音とともに書物室を訪れ、令嬢らしくない本を所望しては去っていった。ごく控えめな柔らかな香りは、手がよく動かない苛立ちを和らげてくれたものだ。

 名前を問われた頃は、本のためというより、誰にも言えない愚痴をつぶやくために来ていたと思う。

 笑顔とともにかすかな香りを残して去る年若い令嬢は、微笑ましいほど若々しかった。妙齢の女性というより子供と思っていた。それが気がつくと、若く魅力的な女性に見えてきた。

 初めて笑顔に目を奪われたのは、いつだったか。

 甘い香りをまとわせた華奢な体を見下ろしながら、己の腕の中に閉じ込めてしまいたいと何度考えただろう。司書にあるまじき衝動にどれほど戸惑ったか。


 再び足を踏み入れた王宮の日々は、戦場とは異なる緊張感と充実感があった。国王の信頼と部下たちからの敬意に満足しながら、しかし何かが物足りなかった。血の臭いの中で命を賭ける実戦の中でしか生きていけないような、人としては狂ってしまった存在なのかと危ぶんだ。

 その一方で、腑抜けと笑われても苦笑しか出てこなかった時には、騎士としての資質以前に、自分が老いてしまったのかとも考えた。


 結論としては、どちらも間違いだった。

 アデリアの笑顔を永遠に失うかもしれないと恐怖したあの時、手紙を手に立ち上がった時には王宮を去ることを決めていた。躊躇はなかった。

 代わりに、ずっと忘れていた憧れを思い出している。

 祖父や父を見て、土地と領民を守る領主に憧れた過去を思い出した。三男として生まれた意味を理解した幼い頃に捨て去り、もはや未練はないと思っていた憧れが、今は手に届くところにある。デラウェスの人々は昔ながらの戦闘貴族で、未開の地はまだ広がっている。騎士領主として生きるのなら、農地を拓きながら剣を取ることになるのだ。



 微かな香りが風に運ばれ、鼻腔をくすぐった。

 この甘い香りは冷静な思考を縛り、荒々しい衝動が理性を揺さぶる。

 一瞬、エディークは手綱をぎゅっと握りしめた。しかしすぐに目を伏せてゆっくりと息を吐いた。再び目を開けた時には冷静さが戻っていて、馬に速度を落とす指示を出す。軍馬はやや不満そうに首を動かしたが、従順に脚を緩めた。

 馬を止める場所を探して目を動かした時、アデリアの背後に立っていたメイリックが突然妹を抱き上げた。

 驚くアデリアを渋い顔で見やり、それから小柄な体をエディークに向けて高々と掲げた。


「えっ? メイリックお兄様?」

「口はしっかり閉じていろ。……早く受け取りに来ないと、アデリアを投げ渡すぞ!」


 慌てる妹には優しく言うが、エディークには厳しい口調で言い放つ。そしてメイリックは抱えた妹を荷物のように大きく振った。

 呆気にとられたものの、エディークはすぐに意図を悟った。慌ただしく馬の腹を蹴り、再び愛馬に疾走を命じる。その馬上で片手を手綱から離し、鞍に固定している剣の位置を動かした。

 それを見ながら、メイリックはもう一度アデリアの体を大きく振った。



 ◇ ◇ ◇



「はやく受け取れ!」


 次兄の言葉は理解し難かった。

 でも大きく振られただけと思った体が、ふわっと浮かんだ現実よりは理解できた。

 兄の手が離れていた。本当に投げたらしい。

 急激な浮遊感に、背中がぞわりとした。口を閉じていろと言われたから、悲鳴を押し殺してしっかりと口を閉じていたものの、理性より恐怖が勝りそうになる。

 そんなアデリアの視界の端に、軍馬と金色の髪が見えた。遠くへと放り投げられたのかと思ったけれど、軽く投げ上げただけだったと理解したのは、体がしっかりと抱きとめられてからだった。


「アデリア」


 名を呼ばれ、体を引き寄せられていた。思わず手を伸ばすと、大きな体に触れた。すでに馬は足を止めていたようで、予想したような衝撃はなかった。でも無理な体勢でアデリアを受け止めたのか、エディークの体は鞍上でぐらりと傾いた。

 幸い、馬から落ちるほどではないようだ。

 ゆっくりと座り直したエディークは、大きく息を吐いた。

 頼もしい軍馬は平然としていて、ただ主人を助けるようにバランスを取った。


「お怪我はありませんか?」

「ええ。大丈夫よ」


 アデリアはほっとしながら答えたが、エディークにしがみついたままだと気づいて慌てて体を少し起こした。

 エディークはアデリアを軽く持ち上げて座らせた。

 やっと安定して息を吐き、アデリアはメイリックを振り返って睨みつけた。

 

 

 

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