カルバンから来た騎士(1)
この話は番外編です。
時間的には、本編の最終話の翌日から始まります。全三話です。
その日は朝から乾いた風と明るい日差しに満ちていた。
空気は冷たいが、太陽の光がたっぷりと降り注いでいるから心地のいい天気だ。開け放った窓からは、小鳥たちのさえずりが聞こえている。
こんな日は、屋外で過ごすと気持ちがいいだろう。
なのに、アデリアは窓に背を向けて自室にこもっている。なにもこんな日にしなくても、と侍女たちが目配せしあう中で、脇目も振らずに刺繍に取り組んでいた。
「あの、お嬢様」
「……何かしら、ネリア」
「今日は散策日和でございますよ」
「きょ、今日は刺繍がしたい気分なの。途中になっていたこれが、どうしても気になっていて」
「そうですか?」
侍女たちは顔を見合わせる。
ネリアに肘で突かれ、オリガが恐る恐る口を開いた。
「あのですね、実はその……」
なおもためらうオリガに、ネリアは今度は強めに肘で突いた。
一瞬顔をしかめ、すぐに咳払いをして姿勢を正したオリガは、目線をそらしながら言葉を続けた。
「その……エディーク様は、今朝早くにご出発なさいました」
「……えっ?」
アデリアは愕然と顔を上げた。
その拍子に刺繍用の針がぷすりと布に深く刺さり、アデリアは慌てて針を抜いた。しかしその手元も狂ってしまい、鋭い先端が左手の指に浅く刺さった。
「あっ」
「お嬢様、布はこちらに」
侍女たちの反応は早かった。
すぐに刺繍をしていた布と針を受け取り、ぷくりと血が盛り上がる指にハンカチを巻いてきゅっと締めた。
「他にお怪我はありませんか?」
「ええ。ちょっと刺さっただけよ。でも……出発ってどういう事?」
「やっぱりご存知なかったのですね。エディーク様は今朝早くに、騎士領主として赴任する予定の地へ向かわれました」
「……そんなこと、聞いていないわ」
「昨日の夜に急に決まったそうでございますよ。正式な婚約の前に、現地を視察して確かめてもらうため、ということになっていますが。でも実際は……、ねぇ?」
「ええ、実際は……、と思いますよ?」
二人の侍女たちはクスクスと笑い合う。
なすがままに傷の手当てをされていたアデリアは、ようやく我に返ったように座り直した。ハンカチを巻いた指を少し動かして軽い痛みだけなのを確かめる。それから軽く咳払いをした。
「えっと、その、エディークは一人で行ったの?」
「いいえ、バラム様とご一緒です。他には家令様と、護衛としてメイリック様も同行しているそうですわ」
「そうだったのね。そう言えば今日はバラムお兄様をお見かけしていなかったわ。……でも実際はって事は、本当の理由が他にあるの?」
「はい、それはもちろん! まだご存知ではないと思いますが、昨日、お嬢様がお部屋にお戻りになった後、本当に大変だったそうですよ」
「奥方様付きの侍女たちが詳細を教えてくれましたわ。メイリック様が、こう、エディーク様の胸倉を掴んでっ!」
「それは大変な剣幕だったそうですよ! 領主様が呆れ顔で止めようとなさっていたら、今度はテーブルに、ザクっ!と短剣が突き立てられてっ! もう室内の空気が凍りつくようだったそうです!」
「……よくわからないけれど、エディークに対してと言うと、それはもしかして……」
アデリアは視線をそらした。
頰が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。
昨日。
アデリアはエディーク・カルバンから求婚された。
両親は受諾を示し、次期領主であるバラムも異議を唱えなかった。アデリア自身も承諾を伝えた。
そしてその後に、接吻を受けた。
アデリアは両手を熱くなった頰に当てて首を振った。
その手もすぐに離してしまう。
昨日頰に触れたエディークの手が、もっと大きくて硬かったことを思い出してしまったのだ。
何度も触れてきた唇とか、抱き寄せられた身体の大きさとか、耳元で聞こえた低いささやきとか、振り払っても蘇ってしまって落ち着かない。
アデリアはもう一度首を振る。
今は、次兄メイリックが怒っていた理由だ。
あの時、いろんな人に見られていた。侍女たちはもちろん、他にも人がいたはずだ。当然のようにメイリックにも報告がいったのだろう。
「……でも、だからと言って、メイリックお兄様も剣を持ち出すのはよくないと思うわ」
「お嬢様、テーブルに短剣を突き立てたのはメイリック様ではございませんよ。バラム様です!」
「…………えっ?」
「逆上していたメイリック様はもちろん、駆けつけていたご親族の皆様まで、一気に静かになったそうですよ! さすがバラム様ですっ!」
「お嬢様はお気づきではなかったと思いますが、昨日はバラム様もいらっしゃいました。だからきっと、バラム様は昨日の今日でエディーク様を外へとお連れしたんだと思いますよ。お気の毒とは思いますけれど、やっぱりお嬢様への態度は、ご結婚までは節度を守っていただかねばなりませんからねっ!」
侍女たちは楽しそうに笑いあう。
でもアデリアは反論する気力もない。何より、長兄に見られていたという事が一番気恥ずかしい。
予想もしないことばかりを聞かされたアデリアは、目を伏せて黙り込むしかなかった。
◇ ◇ ◇
デラウェスの領主館は、百年前から時間が止まっているように見える。
特に王都から伸びる街道からやってくると、開けた平和な農耕地から王国創立期へと時間をさかのぼって行くようで目眩を感じる。
その昔、デラウェスは国境だった。
農地があったから街ができたのではなく、国境の守りとなる砦を作ったことで街が生まれた。
農耕地帯として開拓が進んだのは、国境が動いたことで戦火が遠のいて水路を作る余裕が出来てからだった。だからデラウェスでは農地は他領に比べると少ない。手をかければ可能性がある土地があるのに、それはまだ可能性を秘めた状態のままだ。ちょうど五十年前の王国の農耕地のように。
戦火の及びやすい国境領主でなくなれば、税や軍事費負担への優遇は消滅する。
そうなると、領内の農産物の量が領主家の力を直接左右することになる。
結果、農地が少ないデラウェスの国力は上がりきらず、王宮では半ば名を忘れられた地方領主となっていた。あるいは、軽い嘲笑を伴って語られる田舎領主だ。
もちろん、それは正しい評価ではない。
街道を進むエディークは、堅固な砦風の領主館を遠くに望みながら馬を歩かせていた。
建増しや改築で美しい姿となっているが、基本的なところでは砦のままだ。周囲の風景と一体となって、そこだけ国境領主の時代のままに見える。
二年ほど前に、初めてデラウェス領主館を見たときは鬱屈した気持ちを忘れて見入っていた。自由に動かない体の事も痛みの苦しみも忘れ、馬車の窓から身を乗り出すように見た。
そして、領主の一族と接して確信した。
デラウェスは平和な田舎ではあるが、落ち目の地方領主ではない。
今なお戦士としての誇りと気質を守り受け継いだ、古風で大領主らしい大領主だ。
国王が療養地としてデラウェスの名を挙げたのは、偶然だったのかもしれない。
他家の貴族に名前が知られておらず、王都から離れた田舎で、エディーク・カルバンという男をよく知らない。体に癒えることのない傷を負い、これまでの人生を諦めることを強いられた男を隠すのに最も適した場所。
たまたま王宮にその地の領主がいたから、国王が思い出しただけかもしれない。
それが国王の気まぐれだったにしろ、エディークは国王に感謝していた。
少なくない傷痍兵の一人として扱われたことで、常に己に課していた気負いから解放された。体が癒えるとともに心の安寧を取り戻し、人々の笑顔と信用を得る穏やかな人生もいいかもしれないと思えるようになった。
昔ながらの貴族の匂いを濃厚に漂わせる領主一族を遠くに見ながら、静かに一生を終えるのも悪くないとも考えた。
だが、結局は自分は騎士だった。
生きる場所が戦場から離れ、血と革の臭いの代わりに土と水の匂いが身近になろうと、エディーク・カルバンという男は騎士だった。
古き時代の貴族そのもののように、馬に乗り、剣を振るい、民を守ることを生きがいにする愚かな生き物でしかないのだ。
エディークはわずかに苦笑を浮かべ、手綱から手を離して太腿に手を置いた。
王都から馬を駆けさせた無謀の代償か、今もまだ時々痛みがあるが、移動に半日をかけるゆっくりとした行程なら無理にはならない。視察した小領地で数日滞在したこともあって、体の調子は悪くなかった。
少しずつ近づく領主館から目を離し、エディークは周りを見た。
隣で馬を進めているのは、デラウェスの次期領主バラム。年齢はまだ若いが、極めて冷静な判断ができる人物だ。彼を見ているとエディークは祖父を思い出す。カルバンの繁栄の基礎を作った祖父は、貴族領主としては病弱な人だったらしいが、老いてなお冴え渡った頭脳とどこか冷えた目は、今でも強烈な記憶として残っている。
バラムも、祖父と同じようにデラウェスを守り伸ばしていくだろう。
しかし……「義兄」としてはどうなのだろうか。
未来の義兄の年齢が自分より六歳も下というのは、なかなか複雑なものだ。
もう一度苦笑を浮かべたエディークは、一行の先頭にいる騎士が振り返ったのに気づいた。
赤みの強い髪と美麗な容姿を持ったその騎士も、エディークの義兄となる人物だ。王国軍に属しているもう一人の義兄ともども、その若々しく真っ直ぐな気質はまぶしいくらいだ。
いや、貴族らしい気質は好ましいのだ。だがあまりにも若い。自分がどれだけ若い令嬢に求婚したかを思い知らされて、顔を合わせるたびに心臓に悪い。
振り返ったメイリックは、目が合ったエディークをジロリと睨みつけた。しかし珍しいことに、すぐに目をそらした。
どうやらバラムに合図を送ったようだ。
それを見て、バラムはすぐに手綱を持ち直した。