デラウェスの騎士たち(1)
この話は番外編です。
本編連載中に書けなかった話を番外編の形式にしています。
時間的には14(散歩の日和)と15(回復と手紙)の間、季節は夏になる少し前くらいとお考えいただければ幸いです。
書物室の前に立ったアデリアは、中に入ろうとしては足を止めていた。
扉口から足を一歩踏み入れたかと思うと、すぐに廊下に出る。それを何度も繰り返している。
森では若葉が茂る季節で、廊下にも乾いたさわやかな風が吹き抜けている。まだ汗ばむほど暑くはないし、真冬のように手足が冷えることもない。だから後ろに控える侍女たちにとって、待つことは苦にはならない季節だ。
しかし、アデリアが扉口で迷っている時間はすでにずいぶん長くなっていた。侍女たちはお互いに顔を見合わせ、目で無言の会話をし、やがてネリアが思い切って声をかけた。
「あの、お嬢様?」
「……やっぱり今日はやめます。部屋に戻りましょう」
侍女の声にわずかに肩を動かしたアデリアは、突然くるりと向きを変えた。驚く侍女たちの間を抜けて、ずいぶん前にやって来た方向へと廊下を歩き始めた。
慌てた侍女たちがその後を追おうとした時、書物室から背の高い男が顔を出した。
「アデリアお嬢様」
穏やかな声で呼ばれ、アデリアはぴたりと足を止めた。
ちらりと振り返った侍女たちは、ほっとした顔で笑顔を浮かべてすぐに廊下の端に寄る。そんな若い侍女たちに軽い目礼を送り、司書の制服を着た男はゆっくりとアデリアのところまで歩いた。
「アデリアお嬢様。書物室に御用があったのではありませんか?」
「……近くに来たから、寄ってみようかと思っただけよ。でも時間がないから、またにするわ」
「それにしては、ずいぶんと迷っておられたようですが」
背を向けたままのアデリアを見ながら、エディークは首を傾げる。
アデリアはすぐには答えず、廊下の向こうを見据えながら黙り込んでいた。こういう反応はアデリアにしては珍しい。だからエディークは辛抱強く待った。
しばらく沈黙が続いた。やがてアデリアは、ふうっとため息をついて振り返った。しかし決まりが悪いらしい。なおも少し目をさまよわせていたが、やがて大きく呼吸をしてエディークの顔を見上げた。
長い前髪のせいで、傷跡のある顔は半分以上隠れていた。
抑制の取れた立ち姿だ。しかしアデリアには、彼が笑いをこらえているのを感じ取った。
「……もしかして、私がいることに気付いていたの?」
「習慣上、人の気配には敏感ですので」
「そうよね。あなたは騎士だったんですもの。気付かないわけがなかったわね。だったらもっと早く声をかければよかったのに」
「何か、お迷いになる理由があるのだろうと思っていました」
「そこまでお見通しだったのね」
またため息をつき、アデリアは廊下の窓へと寄って外を眺めた。
周囲の草地は鮮やかな若葉の色に染まっていた。
鳥や虫たちが飛び回っているが、周囲はおおむね静かだ。無駄に長々と悩んでしまっている間にずいぶんと時間が過ぎてしまったが、街道の方面の空気はまだ落ち着いている。この様子なら、まだ間に合うだろう。
「私、エディークを散歩に誘おうと思って来たのよ」
「それは光栄です」
アデリアが散歩に誘ってくるのは、春から二ヶ月ほど続いている。
だからエディークは特に迷うことはない。始めからそのつもりで予定を立てているし、周囲もそんなものだと思っている。
だがアデリアは落ち着きなく目を左右へと動かした。正面に立つエディークがそれを見逃すわけがなく、先ほどまでの行動を思い出してわずかに眉を動かした。
「何かありましたか?」
「いいえ、何かあるというか、今日はその、普段はあまり行かない場所なのよ。……今日、マイズお兄様がお帰りになるって知っているわよね?」
「はい、伺っています」
「その事でお願いがあるの。……兵舎まで一緒に行ってくれるかしら?」
外を見ながらためらいがちに言う。しかしアデリアは、すぐにエディークに向き直って慌てて付け足した。
「つまりね、マイズお兄様が王都からお戻りになる時は、いつも兵舎の前までお迎えに行くようにしているのよ。でも今日は、お父様もお母様も来客の対応中でしょう? もちろんバラムお兄様もとてもお忙しそうだから、ご一緒してくださいとは言いにくくて。それでももしかしたらって迷っている間に、お兄様はお出掛けになってしまったのよ」
「しかし、バラム様なら間もなくお戻りになる予定だったのでは?」
「それでは間に合わないのよ! マイズお兄様が領主館に到着する前に、いつものように兵舎までお迎えに行って差し上げたいの。そうでなければ、遠い王都からお戻りになるマイズお兄様ががっかりしてしまうわ。でも……私と侍女だけでは少し行きにくい場所でしょう?」
「確かに兵舎は、ご婦人方だけでは行きづらいでしょうね。私でよければお供いたします」
「ありがとう。でも……本当は嫌よね?」
そっと見上げながら、アデリアはエディークの顔色を探る。
長い前髪の隙間から見える青い左眼は、いつも通り穏やかだ。わずかに驚いたような表情をしているのは、アデリアの言葉の意味を探っているからだろうか。
何度も迷ってから、アデリアはそっと言葉を続けた。
「エディークは……今まで兵舎に近づいていないって聞いているわ」
「それは、今の私には用のない場所だからです」
エディークは微笑んだ。でもその笑みは、一瞬遅れなかっただろうか。
アデリアにはそれが気になってしまう。
エディークは騎士だった人だ。それもただの騎士ではない。手練れ揃いの王国軍の中でも、精鋭と言われる上級騎士だった。負傷のための退役だから、輝かしかった人生から多くのものを失っている。現役の騎士を見るのは心穏やかではないのではないかとか、やはり彼に頼んではいけなかったのではないかなどと考えしまう。
そんな心の内が、顔に出てしまったのだろう。エディークは少し困ったように苦笑した。
「お嬢様に心配していただいているのはわかりますが、私は騎士に固執しているわけではありませんよ」
「でも」
「今はもう、騎士に戻りたいとは思っていません。馬に乗ることだけは諦めきれていませんが、私の目標はそれだけです」
静かな声だった。
何でもないのだと伝えるように微笑んでいる。
アデリアがよく知っている司書の顔だ。物静かで落ち着いていて、知的で礼儀正しくて。
しかしエディークは騎士なのだ。
軍馬を見た時、彼は渇望を隠さなかった。
だから、現役の騎士たちが気軽に笑いあうあの空間では、もっと渇望を覚えるのではないか。羨望ならまだいい。でも、もし……二度と手が届かないものを思い出してしまったら。穏やかな笑顔が曇るのは見たくなかった。
アデリアはそっと拳を握りしめた。
きっと考えすぎだ。そう自分をたしなめる。
今は、末兄マイズを迎えにいくことが最優先だ。そしてその口実で、エディークと少し遠くまで歩くのだ。
ゆっくりと息を吐いたアデリアは手から力を抜いた。爪の後が残る手のひらにちらりと目を落とし、それからエディークを見上げて微笑んだ。
「……エディーク、これからすぐに行けるかしら?」
「片付けのためのお時間を少し頂ければ」
「ええ、もちろんよ。でも申し訳ないけれど、できれば急いでもらえる? 私が迷っている間にギリギリになってしまったのよ」
「かしこまりました。すぐに戻ってまいります」
エディークは小さく笑いながら、丁寧な礼をする。
とてもきれいな礼だった。
しかし再び顔を上げてアデリアと目が合うと、わずかに眉を動かした。作り笑いの下に残っている迷いを見抜いたように、おもむろにアデリアの頭にふわりと手を置いた。
手のひらが触れたのはたぶん一瞬だ。ほんの一瞬だけ、大きな手が頭に乗り、癖のある黒髪の上を軽く滑り、すぐに離れていった。驚いて目を見開くアデリアに笑顔を向け、何事もなかったのように書物室へと戻っていく。
アデリアの兄たちがよくするような手付きだった。エディークも弟たちに同じように接してきたのだろう。
彼にとっては、年の離れた妹とか、年齢的にいてもおかしくない娘とか、あるいは馬などと接しているのと同じなのだ。不安を見せる馬を落ち着かせる時もあんな風に優しい目をして首を撫でていたではないか。
だから……こんなに動揺する必要はない。
残されたアデリアは、エディークが戻ってくるまでに落ち着こうと目を閉じて深呼吸をする。しかし動悸はしばらく落ち着かなかった。