22 春を告げる風(3)
「エディーク!」
頭を垂れたままのエディークに、アデリアはさらに驚いて立ち上がった。
しかしその肩は、いつの間にか後ろに来ていたバラムに押さえられて動けない。有無も言わさぬ力を受けて、仕方なく再びすとんと座った。
それでもなお不満を訴えようと長兄とエディークを交互に見る。そんな妹に、バラムは冷ややかだがどこか優しい眼差しを落とした。
ポリアナがそっと夫を促す。バッシュは仰々しい咳払いをした。
「陛下や、お国元のご意向はどうなっているのだ?」
「カルバン領主である兄からは、この通り許可を得ています。陛下からも、辞職については咎めないとのお言葉を頂戴することができました」
エディークは二通の書状を取り出して差し出す。
それを受け取ってざっと読んだバッシュは、領主らしい難しい顔をした。そしてアデリアの肩に手を置いている息子に目を向けた。
「バラム。我が息子よ。ここはどう返事をするべきかな?」
「私としては、遅きに失したとしか思えません」
「さすが我が息子だ。気が合うな。実は私もそう思っている。……しかし、アデリアはエディーク殿と話をしたいようだな」
「当然です!」
アデリアはつい大きな声を出してしまった。
長兄の手が肩に乗っていなかったら、また立ち上がっていただろう。
そうしなかったのは、立ち上がりそうになった瞬間に、肩をとんとんと指先で叩かれたからだ。それで少し我に返った。
ふうっと息を吐き、アデリアはエディークを見る。
エディークは頭を垂れたままだ。
視線を下げ、バッシュの返答を待っている。
バッシュは妻に目配せをした。ポリアナは笑顔でうなずく。表情を改めたバッシュは、領主らしい堂々たる動きで立ち上がった。奥方ポリアナもそれに合わせて立っていた。
「エディーク殿。我らは貴公のことは、以前からアデリアの婚約者と思ってきましたぞ。カルバン家との縁組はこの上ないと思っているし、ご当主からも一筆いただいたのなら不安はない。国王陛下にしても……恩賞の返上も避けられそうだ。ならば、断る理由はないな」
「お父様!」
「ただし、アデリアを納得させるように。我らは少しここで話し合うことがあるゆえ、そうだな、書物室が空いていたはずだ。ゆっくり話をしてきなさい」
「……わかりました。では、書物室に参りましょう」
アデリアは立ち上がった。
今度はバラムも邪魔しなかった。肩から離した手を頭に移して、ふわりと広がる黒髪を優しくなでつける。
アデリアは長兄を見上げてにっこりと笑った。
バラムも軽く頷き返してくれた。
それに後押しされて、アデリアは真っ直ぐにエディークを見た。
見慣れない貴族的な姿にも、もう気後れはしない。
目が合うと心臓が跳ね上がるが、それでも群青色の左目を見上げることができた。
姿勢を戻したエディークは、口元に微笑みを漂わせる。そしてすたすたと早足で部屋を出るアデリアの後を、ゆっくりとした歩みで追って行った。
アデリアにとっても、書物室は久しぶりだった。
新しくやって来た司書は、どうやらきれい好きらしい。以前と変わらず隅々まで清掃が行き届いていた。
アデリアがやって来た時に顔を出した壮年の司書は、侍女たちの目配せを受けてそそくさとどこかへ出て行った。
「それで、どういうことなの?」
アデリアはくるりと振り返り、懐かしむように周囲を見回していたエディークを睨みつけるように見上げた。
「士官の職を返上したなんて、いったいどういうこと? それに、私に……その、求婚ってどういうつもりなの?」
「そのままですよ。奥方様からの手紙を読んで、高い地位を追うよりあなたのおそばにいる方がいいと悟りました」
「エディーク、真面目に答えてよ!」
「真面目にお答えしています。王宮で権力に近寄るより、あなたのおそばで堅実な騎士領主を務める方が圧倒的に魅力的だと思っただけです」
「だから……そんな冗談は……」
「冗談ではありませんよ。お嬢様がご病気かもしれないと思ったら、すぐにここに戻りたくなったのです。陛下に辞職を申し出て、実家の兄にデラウェスのご令嬢に求婚してもいいかと手紙でお伺いをし、返事も待たずにそのままここに来てしまいました。……さすがに馬でここまで駆けてくるのは無謀でしたが」
エディークは苦笑した。
一方アデリアは、最初の勢いを失って目を泳がせる。何度も瞬きをし、深呼吸をして落ち着こうとしていた。
「でも……スタインシーズ家との縁談は……?」
「ご領主から聞いていませんでしたか? 仕官はしましたが、縁談は最初からお断りしていました」
「……あなたの話は聞かないようにしていたから、知らなかったわ」
「そうですか。王都ではかなり有名になっていましたよ。かつては誉れ高き上級騎士隊長だったカルバン家の三番目が、年若い令嬢を見初めてただの腑抜けに成り果てている、と」
「腑抜けなんて、そんな、早く訂正しなければあなたの名誉に関わるわ!」
「訂正するつもりはありません。噂は辛辣だが事実ですから」
自嘲気味に言いながら、エディークはわずかに口元を歪める。
だが目はアデリアを見つめていた。
群青色の目にまっすぐに見つめられ、アデリアはますます息苦しくなった。
でも……鋭い目に熱のような感情がこもっていくのを、その目が自分を見つめてくれるのを、ずっと見ていたいと思った。
「申し上げたはずです。私の心はお嬢様の元にある。あなたを得るためなら、出世も名誉も騎士の誇りすら捨てられる。今の私はそういう見苦しい男です。……それとも私のような年寄りはお嫌いですか?」
「そんなこと、私は……」
言葉に詰まったアデリアは一瞬目を彷徨わせ、そっとエディークを見上げた。
嫌いなわけがない。
エディークのことを年寄りなんて思ったことはない。
素顔を知らない頃に、父親くらいの年齢と誤解していたことがあっただけだ。ただ、ずっと年上の大人だと思っていた。年齢を言うなら、アデリアが子供すぎるのだ。美人ではないし、特別に聡明なわけでもない。身体つきとか仕草とか教養とか、全てにおいて女性として魅力的な方ではないとわかっている。
デラウェス家だって特別裕福な貴族ではない。だから持参金もたいしたことはないし、用意されている東の小領地は少し豊かなだけの田舎だ。
エディークのことを、嫌いなわけがない。
穏やかな口調は心地よい。弾けるような大きな笑い声もずっと聞いていたい。意外に器用な大きくて硬い手も、ひどい傷跡が残る顔も、見上げるほどの大きな体も、時々強い光をたたえる青い目も、嫌いではない。嫌えるわけがない。
……ずっと、ずっと好きだった。
ふいに、頬の違和感に気付いた。
アデリアは慌ててエディークに背を向けた。顔に触れると、指先は濡れていた。
涙だ。目から涙が流れていた。
正面にある絵物語の棚を眺めるふりをしながら、指で涙を拭う。
ハンカチはどこだっただろう。今日に限って持っていない。両親に呼ばれるまで刺繍をしていたから、テーブルに置いてきてしまった。侍女たちも近くにはいない。控えている侍女に合図を送るには、エディークがいる方を見なければいけない。それはだめだ。
少し混乱しながら咳払いをする。声には影響はないようだ。涙を拭いながら頬に手を当てると、とても熱くなっている気がした。
「……エディークは貴族のご三男でしょう? 司書ではなくなったのだから、私に敬語は使う必要はないわ」
「敬語は習慣のようなものですが……気になるのなら改めていきましょう」
「改めるべきよ。だってあなたは、私と……私と、結婚、してくれるのでしょう?」
ピンと伸びた背中とは裏腹に、アデリアの声は消えてしまいそうになった。しかも震えている。それが恥ずかしくて、アデリアは背を向けたまま俯いてしまった。
ふわふわと波打つ長い黒髪を見ていたエディークは、軽く首を傾げた。口元に笑みを浮かべ、ゆっくりとアデリアの前へと回り込んでいった。
「そう言えば、ご存知ですか? 騎士というものはかなり独占欲が強いのです。自分の馬や剣を他人に貸すことをよしとしないものは多い。しかも我々貴族は、もともとが戦士階級ですからね。その傾向がさらに強いようですよ」
「……そ、そうなの?」
「もちろん私にも独占欲はありますし、熱中するとのめり込む貴族騎士的なところがある」
足を止めたエディークは、正面からアデリアを見下ろす。
手にしたハンカチでアデリアの顔を拭う。驚いたように大きく見開いた目を覗き込み、涙が止まっていることを確かめて少しほっとした顔をした。
それから、騎士や使用人ではありえないような、唇の端を歪める癖の強い笑みを浮かべた。
「今後何があっても、あなたを手放すつもりはありません。どうかお覚悟を。……アデリア」
見慣れない笑みを見上げ、言葉の意味を考える。
ぽかんと目と口を丸くしていたアデリアは、じわじわと理解して真っ赤になって顔を背けた。そのまま早足で扉口へと向かった。
それを見て、エディークはまた笑った。今度はアデリアがよく知る優しい笑顔だった。
書物室を出た二人は黙々と歩いた。
無言なのは、アデリアが拒絶するように背を向けて歩き続けるからだ。エディークの方はとても楽しそうにしている。
その後を、侍女たちは笑いを堪えながら少し離れて従っていた。
やがて、書物室からの最初の角まで来た。
アデリアが角を曲がる直前、後ろを歩くエディークはふと侍女たちを振り返った。若い侍女たちをちらりと見やり、さらにその後ろに目を向ける。それにつられて、二人の侍女は足を止めて振り返った。何かあったのかと、もと来た書物室への廊下を見回した。
アデリアは後ろの様子に気付いていなかった。前だけを見ながら歩き続け、廊下の角を曲がった。何気なく聞いていた背後の足音も、すぐに続いて角を曲がったようだった。
次の瞬間、アデリアは腕を引かれた。
ぐいっと引っ張られた体は壁に押し付けられていた。大きな手がアデリアの頬を挟み込む。そのまま上向きにされ、驚きの声をあげようとして……エディークの口付けにふさがれた。
静かな侍女たちの足音が、廊下の角に近づく。
エディークの唇が何度も触れて、離れる。やっと遠くに離れたと思ったら、顔を傾けてさらに深く口付けされた。
侍女たちの衣擦れが聞こえた。
もうすぐ角を曲がってくるだろう。見られてしまう。
完全に混乱していたアデリアは、やっとその事に気付いた。慌ててエディークの大きな体を押しのけようと手に力を込めた。
エディークはあっさりと離れてくれた。
頬に触れていた手も離れた。しかし彼の親指は名残を惜しむように唇に触れる。
少し前の口付けを思い出して、思わず身を固くする。そんなアデリアに優しく微笑み、今度は乱れた前髪を撫で上げて額に軽く接吻した。
「……ま、まあ! 失礼しました!」
角の向こうから現れた侍女たちは、慌てて一歩下がって目を逸らした。
ちらりとそれに目をやったエディークは、アデリアに悪戯っぽく笑いかけ、長く垂らした癖のある黒髪に触れて、指を潜らせるように絡ませた。
「始めはどうしようかと思いましたが、今は奥方様に感謝していますよ」
「……その言葉、すぐに後悔することになると思うわよ」
「それはこわいな。でも、とりあえずは……」
エディークはまた顔を寄せる。
意図を察して慌てて顔をそむけながら押しのけようとしたが、頬に唇がかすめていた。
「皆が見ているわ!」
「誰も気にしませんよ」
「私は気にします! ……ちょっと、ねえ、エディーク、聞いているの!」
「もちろんですよ、アデリア。あなたの言葉は全て聞いています」
どんどんと胸や肩を叩くアデリアに、エディークは笑いながら応じた。
あやすように軽く抱きしめると、アデリアの動きが一瞬止まった。その隙に真っ赤な頬をもう一度両手で包み込んで、ゆっくりと口付けをする。
乾いた柔らかな春の風が、二人の髪をふわりと吹き乱して去っていった。
本編はこれで終わりです。ありがとうございました。