21 春を告げる風(2)
刺繍針を手にしながら、アデリアはそっと欠伸をした。
欠伸の原因は睡眠不足だ。あまり眠れないまま朝を迎えたのは、すでに五日目となっていた。
エディークが突然戻ってきたのは、もう五日前のことだ。
あの日から、アデリアは寝台に入ってもよく眠れないままの日々を過ごしていた。眠ろうとしても、いろいろなことが頭の中で渦巻いて寝付けないのだ。
こうして明るい部屋に座り、窓から吹き抜ける春らしい乾いた心地よい風を感じていても、積み重なった眠気はなかなか消えてくれない。
「……ねえ、オリガ」
「はい、なんでしょうか? お嬢様」
「日を改めるって、普通はどのくらい後のことなのかしら。あれから、もう五日も経っているのに……いいえ、なんでもないわ」
侍女たちがくすくすと笑い始めたので、アデリアは慌てて首を振って口を閉じた。そしてため息をついて、針を持ち直した。
しかし先ほどから刺繍の模様は少しも増えていなかった。
諦めて針と刺繍中の布を片付けようとしている時に、アデリアは両親の部屋に呼ばれた。
欠伸を噛み殺しながら両親の私室へ向かったアデリアは、室内に長兄バラムもいることに気づいて慌てて背筋を伸ばした。
末娘に椅子を勧め、バッシュはバラムにちらりと視線を向けてから口を開いた。
「アデリアに聞きたいことがある。エディークのことだが……」
父バッシュの言葉に、アデリアは表情を変えないように気をつけながら瞬きをした。
眠気が、完全に飛んでいく。
「アデリアは、彼から手紙などを受け取っていないか?」
「いいえ、何も。……その、エディークはまだデラウェスにいらっしゃいますよね?」
「もちろんだ。しばらく滞在したいと言っていたゆえな。まさか、何も聞いていなかったのか?」
「……はい」
半ば呆然としつつ、アデリアは小さな声でつぶやいた。
アデリアから視線を受けたバラムはわずかに眉を動かした。しかしポリアナはニコニコ微笑んでいる。
ポリアナの笑顔は、全てを承知しているかのようだ。
本当に全てお見通しなのならば、せめてエディークが滞在中ということだけでも教えてくれればよかったのに。アデリアは心の中で母への不満をつぶやいた。
この五日間、ずっと気になっていた。
旅装のまま突然私室まで来た、エディークの意図とか。
ずっと顔を見せてくれないのは、体調が悪化したからではないかとか。
……もしかしたら、エディークはもうデラウェスを出ていて、王都に戻ったのではないか、とか。
いろいろ不安で、彼のことが心配で、かすかな希望にすがって期待していいのか、ただの思い上がりなのかと気持ちが揺れていた。眠ろうとしても眠れないくらい、どうしようもなかった。
妹の表情に気づいたのだろう。珍しくバラムが慰めるように割って入った。
「エディークの体調は、一時的に良くなかったようだ。顔には出さなかったが、杖をついていたからな。だが彼は騎士だ。体は頑強だから、後を引くものではないと聞いている」
「本当に……そうなのでしょうか」
では、なぜ五日も会いに来てくれなかったのだろう。
不安の消えないアデリアをなだめるように、頭に手を置いたバラムはそっとささやいた。
「大丈夫だ。エディークは待っていたようだから」
「……何を待っていたのでしょう?」
「さて。だが、その待ち人は今朝方に到着したようだ。だから、もうすぐだ」
よくわからない。何を待っていたというのだろう。
アデリアはそっと兄を見上げた。同じ色合いの薄い水色の目は、ほんのりと優しかった。
だから、アデリアはそっと息を吐いた。
バラムが何を言おうとしているのか、よくわからない。でも長兄が大丈夫だと言うのなら、きっとそうなのだ。今までずっとそうだったから、今度も大丈夫なのだろう。
いつの間にか固くなっていた肩から力を抜いたとき、扉を叩く音がした。
入って来たのは家令だった。
普通の使用人ではない。領主の代理も務め、デラウェス一族の政治担当者をまとめるのが家令と言う地位だ。そんな家令が領主の私室に来たと言うことは、尋常ではない。
バッシュは父親の顔から厳しい領主の顔になった。
「何事だ?」
「お待ちかねのお方がお見えになりました。たぶん、そう言うことなのだろうと思われます」
「もしかして、エディーク?」
アデリアは立ち上がった。
驚いたように振り返ったバッシュの視線も、眉を顰めるバラムの視線も、まあと小さく声を漏らしたポリアナのことも気にならなかった。
身を乗り出してくる領主の末娘の眼差しを受けて、いつもは厳格に仕事をさばく家令がにっこりと笑った。
「エディーク・カルバン様ですよ。アデリア様」
「ありがとう!」
アデリアは両親や兄への挨拶も忘れて、早足で部屋を出た。
背後から誰かの声が聞こえたが、足を止めない。侍女たちも慌てて後を追うが、すぐには追いつけなかった。
階段を下りて行く途中で、鮮やかな金髪の人物が見えた。
どうやら応接室に案内されているらしい。そう見てとったアデリアは、階段を一気に駆け下りた。
「エディーク!」
「これは、アデリアお嬢様」
名を呼ぶと、その人物は足を止めてゆっくりと振り返った。
顔の右半分をほとんど覆い尽くす黒い眼帯が見えた。濃い青色の目も見えた。わずかに垂れた目元と口は、微笑んだようだった。顔色は悪くない。体調は良さそうだ。
そのことにほっとしたアデリアは、笑い返しながらそばへ行こうとして、そのまま立ちすくんだ。
そこに立っているのはエディークだ。なのに、まるで見知らぬ人のようだ。
五日前に訪れたときと同様に、腰に剣を帯びている。
しかし、その他の衣装がまるで違う。
きっちりと櫛を入れた金髪は、華やかな飾り紐で束ねられていて、貴族の証である耳飾りがはっきりと見えている。着ている服は貴族領主の子弟の正装で、肩から胸を飾る金の装飾品にはカルバン家の紋章が輝いていた。
書物室を整える司書官には見えない。
王国軍の上級騎士だった人物と言うより、北の領主貴族カルバン家の三男というべき洗練された貴族の姿があった。目尻に薄くシワが生じる穏やかな微笑みはいつも通りなのに、アデリアは気楽に声をかけるのをためらってしまった。
「やっと追いついたぞ。アデリア」
「……バラムお兄様」
階段を早足で駆け下りてきたバラムはため息をつき、困惑しながら見上げる妹に素早くささやいた。
「家令はエディーク・カルバンと言っただろう? つまりはそういうことなのだよ」
「……そう言えば……」
「それを教えておくつもりだったのに、そなたは思っていた以上にお転婆だな」
「申し訳ありません……」
ややしょんぼりとしてしまったアデリアに、エディークは微笑みながら話しかけた。
「お嬢様。先日は突然の訪問の上、見苦しい姿を見せてしまい失礼しました」
「そ、それは構わないわ。それよりお体の調子は? とても疲れが出ているようだったから心配したわ」
「万全ではありませんが、特に問題はありません」
「本当に?」
「この通り、今日は支えなしで歩いていますよ」
そう言うと、エディークはアデリアの前へと移動して、恭しくその手を取って軽く口づけした。
わずかに足の引きずり方が大きい気はしたが、動きに不自然さはない。手を取った動きは滑らかで、近くで見上げても顔色や表情におかしなところはなかった。目元がくぼんで見えたりはしていないし、年齢以上に老けて見えることもない。
アデリアはほっとして微笑んでいた。
その横で、バラムが軽く咳払いをした。
アデリアははっとふりかえり、手を急いで引っ込める。あっという間に離れてしまった手を目で追ったエディークは、わずかに苦笑していた。しかしすぐに真顔に戻ると、バラムにも礼をする。
それに軽いうなずきを返し、もう一度咳払いをした。
「ここでの立ち話は少し冷える。アデリア、応接室へご案内を」
「は、はい」
やや上ずった声で返事をし、アデリアは応接室まで先に立って案内をした。
途中でちらりと振り返ったが、後を歩くエディークの様子に変化はない。体調は本当に大丈夫なのだと安心し、しかしバラムの視線を感じると慌ててまた前を向いた。
応接室に入って間もなく、領主夫妻も現れた。
エディークからの挨拶に、バッシュは威厳たっぷりに、ポリアナは笑顔で応える。一通り型通りの会話が進んで行くが、その間アデリアはずっと目を伏せていた。
目を上げると、見慣れない姿のエディークが見えてしまうからだ。
しかし、なぜ忘れていたのだろうか。
エディークはカルバン家の三男と言っていたではないか。
デラウェス家で言えば、末兄マイズと同じだ。いや、カルバン家ではエディークの長兄が領主の地位を継いでいるようだから、より地位が高い。
しかも、カルバン家は大領主の中でも広大な領地を持っている。名高い商都を抱えているとも聞いたことがある。家格は同等でも、王宮から見ればデラウェスより上位にあるはずだ。
そんな人だから、王国軍の騎士であることはあっても、他家の領主館で司書をやっていたことがおかしかったのだ。あまりにも自然に馴染んで、小娘にもかしずいてくれたから、アデリアは忘れていた。
そっと目を上げると、バッシュと話をするエディークが見える。
見栄えがしないと思った過去が嘘のようだ。今日のエディークは貴族そのものだ。かつて戦士階級だった名残を色濃く持った、猛々しくも優美な貴族以外の何物でもなかった。
ふとエディークの左目が動き、アデリアへと向いた。
アデリアはすぐに目を伏せたが、エディークが驚いたような顔をしたのを見てしまった。
拗ねた子供のような顔をしていたのだろう。それが無性に恥ずかしかった。
「さて、前置きはここまでとしよう。……本題を聞こうか」
ごく気楽な口調を装い、バッシュがそう切り出した。
ポリアナが軽く座り直してスカートの裾を整えるふりをする。
アデリアはぎゅっと手を握りしめた。
「まずはご報告を。……王都でいただいた士官の職は、返上しました」
「えっ? いったいどういうことなの? 国王様のお声がかりの仕事を辞めるなんて、そんなことあり得ないわ!」
「アデリア、落ち着きなさい」
冷ややかなバラムの声に、アデリアは少し落ち着く。そして唇を噛み締めてエディークの言葉を待った。
「いただいていた恩賞を返上する覚悟でいました」
「そんな、エディーク!」
「まあまあ、話は最後まで聞こうではないか。エディーク殿の用件は、それを我らに報告するだけではないのだろう?」
思わずアデリアは悲鳴のような声を上げてしまったのに、他の人はそれほど驚いていなかった。
さすがにバッシュは目を大きくしていたが、娘をたしなめる余裕はあった。その様は領主と言うよりただの父親だ。バラムは眉をわずかに動かしただけだし、ポリアナに至っては、ますます笑顔を深くしていた。
エディークはゆっくりと立ち上がった。そして椅子から離れ、領主の家族から少し離れた場所で恭しく深い礼をした。
「アデリアお嬢様への求婚を、お許しいただきたい」