20 春を告げる風(1)
まだ冷え込みが厳しい中、光だけは一足早く春を告げていた。そんな明るい日差しが差し込むデラウェスの領主の館の一室で、奥方ポリアナが何かを書き続けている。
時折手を止めて、窓の外を見ながら真剣に考え込んでいたが、すぐにまたペンを持って細かな文字を綴っていく。
大きな紙は、すぐに文字で埋め尽くされて新しいものへとかわっていた。
執務室から戻って来たバッシュは、真面目そのものの表情で机に向かっていたかと思えば、急に笑顔になって手紙を読み返す妻を無言で見ていた。しばらく声をかけるべきかと悩んでいたが、ついに不審を抑えきれずに声をかけた。
「ポリアナ。ずいぶんと深刻そうなのに、なぜかとても楽しそうだな。いったい何を書いているのだ?」
「何って、もちろん手紙ですわ、あなた」
「手紙をそんなに真剣に……というより楽しそうに書いている姿は初めて見るぞ」
「そうでしょうね。あなたへの恋文でも、ここまで真面目に書かなかったし、こんなに心が踊らなかったと思いますもの」
そう言うと、ポリアナはくすくすと笑う。
その間も手は動き続けていた。
バッシュが妻の後ろから覗き込んでいるうちに、ついに書き上がったようだ。末尾の結びの文章をさらりと書いて手を止めた。
そして座る位置を変えて、夫が覗き込みやすいように移動した。
「どうかしら?」
「どうと言われても、これと言って特には……いや待て。これはもしや……」
バッシュは数枚に及ぶ手紙を手にとった。
改めて読み直して、その内容に困惑を隠せない。白髪が目立つ黒い髪を撫でつけつつ、首を傾げた。
「ポリアナ。よく書けていると思うが、しかしこの手紙の意図はどこにあるのだ?」
「それはもちろん、大切なアデリアのためですわ」
ポリアナは笑みを消して、ほうっとため息をついた。
しかし夫を振り返った顔は、目尻がつり上がって見えるほど強い意思がにじんでいた。
「かわいそうなアデリアのために、母親として最後の賭けに出てみようと思いますのよ」
「うむ。……しかしだな。この手紙を読むと、まるでアデリアが……」
「もちろん、そう誤解してくれなければ困ります。これを受け取ったあの人は、どう受け取ってくれるかしら?」
「それは、アデリアをよく知る者なら間違いなく……とは思うが。うむ、しかしだな……」
真剣な表情の妻に押され、領主であるバッシュは言葉を濁しつつ唸る。何度も口を開き、何かを言いかけるがうまくいかないらしい。やがて諦めたように妻に手紙を返した。
心中が複雑そうな夫を見上げ、ポリアナは表情を緩めてにっこりと笑った。
◇ ◇ ◇
小卓用のテーブルクロスが完成した。
これで八枚目だ。どんな模様がいいか迷った挙句、結局練習のような小さな作品を幾つか作ってみることにした。
あくまで、とりあえずの練習のつもりだった。
なのにアデリアの手は、今までにないくらいによく動いてくれた。気がつけば、テーブルクロスが次々に完成している。
「……これは、逃避かしら」
完成した小ぶりなテーブルクロスを八枚並べ、アデリアはふうっとため息をついた。
刺繍をしている間、ただ手を動かすことだけを心がけていた。ぼんやりしないように、つまらないことを考え始めないように、とにかく刺繍の模様だけに集中した。
おかげで作業は早く進み、仕上がりは上々だ。これから大きなテーブルクロスにかかるとしても、今まで完成させた物も贈り物に加えても大丈夫だと刺繍の先生は太鼓判を押してくれた。
もっと複雑な模様を、広い範囲に描き出してもいいかもしれない。
おしゃべりしながらの作業は得意ではないし、集中しないと綺麗に仕上がらない腕前だ。余計なことを考えないように、もっともっと刺繍を続けたい。そう考えながら、刺繍糸も並べて色合いを考える。
領主館の内部が急に騒がしくなったのは、そんな時だった。
開け放った窓から、複数の馬の鳴き声が聞こえた気がしたのは間違いではなかったようだ。
「今日は特に予定はなかったはずだけど、もしかして急なお客様かしら?」
「見てまいります」
明るい窓辺にいたアデリアが顔を上げると、控えていたオリガが様子を探るために素早く部屋を出ていった。もう一人のネリアは、いつ人前に出てもいいように、長く垂らしているアデリアの髪を軽く整え始めた。
出来上がったテーブルクロスを見ていただけなのに、癖のある長い髪はもうふわふわと広がっている。春の風は悪戯好きらしい。
ついでに肩掛けを用意してもらおうかと考えていると、廊下で慌ただしい足音がして、扉が乱暴に開いた。
つい先ほど、様子を見に行ったばかりのオリガだった。
「お嬢様! すぐにいらしてください! もちろん、危険なことではありません。でもお急ぎください。お客様をすぐにお迎えに行きましょう! ああ、でもここで待っていた方がいいのかしら?」
「オリガ、落ち着いて。私がお客様のお迎えに行く方がいいの? 普段着のこの格好で失礼にならない方なの?」
足音を立てて廊下を走ることも、扉を乱暴に開くことも、興奮したようにアデリアを急き立てることも、全て行儀のいいオリガらしからぬ振る舞いだ。
珍しいこともあると思わず微笑みながら立ち上がった時、部屋の扉を叩く音がした。
「誰かしら」
アデリアは扉を振り返る。しかし入室を許す前に、オリガが扉へと走っていた。そして扉に耳をつけるようにして外の音に耳を澄ましたようだった。
初めて見るオリガの様子に、アデリアは呆気にとられた。しかしオリガは満面の笑顔のまま主人の意思を無視して、扉を一気に開けた。
「どうぞお入りくださいませ、お客様!」
「……これは、侍女殿」
扉の向こうにいた客は、いきなり大きく開いた扉に驚いたようだ。しかしアデリアはその低いつぶやきに身を固くした。
聞き覚えのある声だった。
恐る恐る目を向けると、意気揚々と扉の前から退くオリガの向こうに背の高い男が見えた。腰には剣があり、右の目元は眼帯で隠れている。
廊下の窓から吹き込む風が、明るい色の金髪を揺らしていた。
アデリアは瞬きをした。幻を見ているのかと疑ったが、そこに立っているのは間違いなくエディークだった。
目が合うとエディークは、なぜか驚いたように群青色の目を見開いた。探るようにアデリアを見つめ、それから一歩足を踏み入れて戸口に手をかけながら室内をぐるりと見る。
明るい室内の隅々に目を向けていたが、テーブルの上に広げられている華やかなテーブルクロスの数々に一瞬目を止めた。
やがてアデリアに目を戻し、わずかに笑みを浮かべて姿勢を正した。
「さあ、お嬢様」
アデリアに肩掛けを掛けたネリアは、そっと促す。
その声でようやくアデリアは我に返った。
突然訪れたエディークの方へと歩いていく。エディークは扉口のところで立ったままだった。
こっそりと深呼吸をし、アデリアは笑顔を作った。
「驚いたわ。お久しぶりね、エディーク。いつ、こちらへいらっしゃったの?」
できるだけ以前と同じ対応になるよう、アデリアは敢えて砕けた口調で話しかける。
エディークは少し離れたところで足を止めた令嬢をじっと見ていたが、ちらりと口元に苦笑を浮かべて恭しい礼をした。
「先ほど到着したばかりです。……恐れながら、アデリアお嬢様はお元気そうに見えますが……」
「この通り、とても元気よ」
少しおどけて、踊りのようにその場でくるりと回る。
長く垂らしたままの髪がふわりと広がり、アデリアの視界を妨げる。一回りして髪が肩や背中に戻った時、正面に立つ男の隻眼にまだ見つめられていることに気づいて、なぜか動揺した。
心臓が激しく動く。
急に逃げ出したい衝動に襲われたが、それを押し殺して微笑んだ。
「今日は普段着のままなの。あまり見ないでくれる?」
「失礼しました。ただ……やはりお元気にしか見えないと思っていました」
「さっきも言ったとおり、私はとても元気よ? お父様もお母様もお元気ですし……」
そう言いかけて、アデリアは口を閉じる。
目をそらしたエディークは困ったような顔をしていた。突然デラウェスに戻って来たのも驚いたが、よく考えたらエディークがアデリアの私室まで来たのは初めてだ。
それに、こういう顔も初めて見る気がした。
デラウェスはおおむね平和だったが、王都の方では大変なことがあったのだろうか。アデリアは眉をひそめた。
「あの、何かあったの?」
「いいえ。そういえば私も、アデリアお嬢様を訪問する姿ではありませんでしたね。旅装のままで大変失礼しました」
そう言われてみれば、エディークは旅装だった。
それも、かなり土埃で汚れている。
「構わないわ。それだけ、デラウェスに戻ってきてからすぐに来てくれたのでしょう? ……それにしても、びっくりしたわ。エディークにこんなにすぐお会いできるとは思わなかったんですもの。ああ、でもすぐと言っても、もう春ですものね。あれから何ヶ月も経っているから……」
「アデリアお嬢様」
エディークはあからさまに言葉を遮った。
司書として対応していた時には絶対にしなかったことだ。アデリアが驚いて口を閉じると、まだ扉口に立っていたエディークは、ゆっくりと室内に入る。
近づくにつれて、衣服の汚れもはっきりと見えるようになった。馬車での旅でこんなに汚れるものだろうか。思わず首を傾げるが、目を合わせようとすると自然と少し上向きになった。
やはり背が高い。
改めてそう思う横で、侍女たちは気配を消して素早く壁際へと移動していた。
「……実は先日、王都で手紙を受け取りました」
「手紙?」
唐突な言葉に、アデリアは戸惑う。
しかしエディークはわずかに微笑み、言葉を続けた。
「デラウェスの奥方様からの手紙です。内容はごく普通の季節の挨拶から始まって、デラウェスでの出来事が実に細やかに書かれていました」
「もうお母様ったら、またどうでもいいお手紙を出していたのね」
「確かになんでもないことばかりと言えば、その通りですね。でも……懐かしい気分になりました。私が離れている間のこちらの様子が目に浮かぶような、とても楽しい手紙でした」
エディークは土埃で汚れた手袋を外し、アデリアの手を取った。
わずかに腰を屈め、アデリアの目を覗き込むように見つめながら指先に口付けをする。唇が触れた瞬間にアデリアの手が震えても、決して目をそらさなかった。
「その手紙の最後に、お嬢様のことにも触れていました。冷える日が続いたせいか、自室から出られないようだ、と」
「……え? 確かにお部屋にいる日が多かったけれど、それは刺繍をしていたからだわ。病気は何もしていないわよ?」
「そのようですね。つまり私は、奥方様の計略に引っかかったようです」
「お母様の計略?」
手を取られていることを一瞬忘れ、目を見開く。
そんなアデリアに微笑みかけ、エディークは両手で細い手を包み込んだ。
「今思えば、あなたが病気とは一言も書いていませんでした。他の出来事は詳しく書かれているのに、あなたに関しては短く触れただけだった。領内で悪い風邪が流行っている地区がある、と書いていただけです。それを、私が勝手に誤解した。……もちろん奥方様は、誤解させようとしたのでしょう」
「……ごめんなさい。お母様が紛らわしいことを書いてしまったのね」
「奥方様は悪くありませんよ。私が勝手に誤解し、あなたのことが気になって戻って来たのですから」
「……えっ……?」
戸惑うアデリアの手に、もう一度口付ける。
先ほどと同じ指先に、今度は長く触れていた。
軽く吸い上げられた気がして、アデリアはひどく混乱した。しかし取り乱す前に、エディークは手を離してくれた。
ふうっと息をついたエディークは、壁に手をついて寄りかかった。
よく見ると、とても疲れているようだ。顔色も良くない。そう気付いて、アデリアは侍女を振り返る。オリガはすぐに椅子を運んだ。
「ありがとうございます。……さすがに無理をしてしまったか」
崩れるように椅子に座ったエディークは、長々と吐息をついて目を伏せた。
うつむいて膝や太腿のあたりをさすり、さらに何度か深い息をついた。しばらくそのままでいたが、やがて心配して立ち尽くすアデリアを見上げた。
「大丈夫かしら? そんなに無理をしなければいけないようなことがあったの?」
「いいえ、何もありません。今、何もなかったとわかりました。冷静になれずに騙された私は愚か者だが、あなたがお元気だったのならそれでいい。……本当によかった」
もう一度足をさすり、エディークはゆっくりと立ち上がった。
顔色は良くないが、立ち上がるとやはり威圧感がある。アデリアに恭しく頭を垂れる姿もとても美しかった。
「突然押しかけてしまい、大変失礼しました。また日を改めてご挨拶に伺います」
「……あの、エディークはいつまでデラウェスに滞在できるの?」
「それは、お嬢様がお望みのままに」
エディークは微笑んだ。
そして、恭しい礼をして部屋を出た。
その足取りは以前より重いように見えた。歩調もゆっくりだ。廊下に出るとすぐに旅装の従者風の男が駆け寄ってきて、肩を貸すようにして体を支えた。その従者の旅装も土埃で汚れていた。
アデリアは動揺しながら見送っていた。
知り合った頃のエディークは確かにゆっくりとしか動かなかったが、それでも一人で歩いていた。歩くときに支えられる姿は初めて見た。
呆然と二人の後ろ姿を見ていて、足を引きずる音の中に軽い金属音が混じっていることに気が付いた。
水をはねた跡のある汚れた長靴に目を落とすと、踵に金具がついていた。驚いて目を凝らしている間に、二人の姿は階段へと向かって見えなくなった。
「……あれは拍車だわ。もしかして、エディークは馬に乗って来たの……?」
誰もいなくなった廊下に立ち尽くしながら、アデリアはつぶやいた。