18 令嬢の花飾り(1)
エディークは、翌朝に領主夫妻に国王からの誘いがあることを話したらしい。
アデリアがそのことを聞いたのは少し後で、知らない間に何度も話し合いが持たれていたようだ。
それらの詳細について、アデリアは何も知らない。
その間の書物室通いをやめていたから、エディークと顔を合わせていなかった。侍女たちが何か言いたそうにしていても、敢えて様子を聞くこともしなかった。
仮にも婚約者とみなされていた人物だ。
婚約破棄に近いことになるのだから、しばらく会わない方がいいだろう。そう思ったのだ。
だから、近衛隊の騎士が訪れた三日後の朝、突然部屋にやってきた次兄メイリックに告げられた内容に驚いた。
「……エディークが、今日、王都へ向けて出発するの?」
「ふん、やはり何も知らされていなかったか。本当はアデリアには告げずに行くという話だったんだ。それを兄上と一緒に説得して、今朝の出発になったのだよ」
メイリックは領軍の制服姿だった。
暗色系の制服は、母譲りの美貌を引き立てている。
しかし華やかなのは外見だけで、中身は泥臭いほど血気盛んな武人だ。今も苛立ちを隠さずに赤みの強い髪を乱暴にかき乱していた。
「エディーク殿は恐ろしく強情だな。兄上が脅すように説得しても、否と言い続けていたぞ。アデリアを泣かせる気かと言って、やっと留められた。アデリアの涙でも引き止められないなら、その場で叩き斬ってやろうかと思ったよ。彼の腕であろうと、戻ってきているマイズと二人掛かりなら……それで足りなければ兄上にも手を貸していただいて、三人がかりで機動力を封じてしまえば……!」
「私は泣きません。都に行くことになるだろうとは思っていましたから。でも今日とは思いませんでした」
「間もなく父上方に挨拶をして、出発することになっている。あの男の決意を揺らがせるために、精一杯きれいに着飾って、思いっきり泣くんだ」
「……メイリックお兄様ったら。そんな無茶なことはおっしゃらないでください」
アデリアは強張りかけた顔をついほころばせた。
次兄は真面目なのか、笑わせようとしているのか、時々判断に困ることがある。こういうところは母ポリアナとそっくりだ。
エディークの前で泣くなど、アデリアにできるわけがない。
強い女ではないが、泣き崩れながらすがりつくほどかよわい女ではない。アデリアは自分のことをそう評価している。
しかし、例え物語にあるような儚げな令嬢であったとしても、エディークを引き止めるために泣きたくはない。
行けと言ったのは、アデリア自身なのだ。
「エディークを引き止めてくださって、本当にありがとうございます。一番きれいな姿で、笑顔で見送りたいですからね。それとも、お兄様がおっしゃるように涙を浮かべるくらいがいいのかしら? 悲劇の令嬢っぽくて、近衛隊の方々に同情してもらえたら、いろいろ話を広めてもらえるかもしれませんわね」
アデリアはにっこりと笑い、そのまま立ち上がって侍女たちに目を向ける。
強張った表情の若い侍女たちに、まるで舞踏会の準備を始める時のように楽しそうに笑いかけた。
「さあ、急いで準備をしましょう。さり気なくて、でも美しくて、殿方の心に残るような衣装ってどれかしら?」
「お嬢様……」
「絵物語なら、こういう時には贈られた物を身につけるのでしょうけれど、エディークから何ももらっていないから無理ね。私からお花をお送りする方がいいかしら? でもこれから旅立つ人に、生花は処分に困るかもしれないわね」
「……あの、よい花が庭に咲いていますから、髪に飾られてはいかがでしょうか。アデリアお嬢様には絶対にお似合いになりますよ!」
「さすがネリアね。ではドレスはできるだけシンプルにしましょう。エディーク様が似合っているとおっしゃったドレスはどれだったかしら!」
気持ちを切り替えたのだろう。二人の侍女たちは慌ただしく準備に走っていく。
それを笑顔で見送るアデリアを、メイリックは不機嫌そうに顔をしかめたまま見ていた。
デラウェス領から王都までは遠い。
騎士なら馬で向かうのが普通だ。しかしエディークは馬車を使うらしい。彼の愛馬は他の騎士に引かれて併走するようだ。
馬車を使うということで、他の荷物も積み込まれていく。
アデリアが玄関に降りてきたのは、そういう準備が終わりかけた時だった。
王国軍の制服姿のマイズと並んで立っていたメイリックは、振り返って妹を見ると目を大きくした。マイズも目を丸くしている。
しかしメイリックはすぐに笑顔になって、恭しく手を差し出した。
「麗しき我が妹よ。どうぞ、お手を」
「ありがとうございます。メイリックお兄様」
あいかわらず、メイリックはふざけているのか真剣なのか、わかりにくい。しかも、こういう態度がよく似合う美しく優しそうな容姿なのが判断をさらに難しくする。末兄マイズなら笑いが込み上げるだけなのに、次兄であることを忘れてしまえば見惚れてしまいそうだ。
こっそり笑いを噛み殺し、アデリアは次兄の手に手を重ねた。
メイリックは妹を馬車の方へと導いて行く。
領主バッシュと奥方ポリアナが振り返り、お互いの顔を見合わせて道を開けた。その向こうから近衛隊の制服が現れる。
そして、明るい金髪が見えた。
「エディーク」
次兄の手から離れて名を呼ぶと、その人物はゆっくりと振り返った。
わずかに丸まった背中。
剣を下げた大きな手。
すっきりと束ねた長めの金髪と、顔の半分近くを覆う黒い眼帯。
左側だけの群青色の目は、アデリアに気づいてわずかに大きく見開いた。
「薄情な人ね。お見送りくらいさせてくださいな」
「……申し訳ございませんでした」
エディークは目を伏せて頭を垂れる。
その仕草は、とても美しい。
この人はやはり騎士なのだと、改めて思った。
胸がちくりと痛む。
そのことは敢えて無視をして、アデリアはにっこりと笑った。
「国王様のお誘い通り、仕官するのでしょう?」
「……はい。お許しください」
「勘違いしないで。私は喜んでいますから。でも、王都ではきちんとデラウェスのことを話してちょうだいね。デラウェス家の国王様への忠誠心とか、領内の平和さとか、お兄様方のよいところとか。お兄様方によい縁談が来ればもっといいわね」
「お嬢様」
エディークは何か言いたそうにしていた。しかしアデリアはそれに気づかないふりをして、ひたすら早口で喋り続けた。
「もちろん、私のこともたくさん宣伝してね。美人とは言えないけれど、あなたの回復を助けた健気な妹分だって。でも今さら他領へ嫁ぐのは面倒だから、できれば婿に来てくれる騎士を見繕ってくれると嬉しいわ。東の小領地は平和な田舎だけど、万が一のことがあるから兄弟で来てくれるような騎士が望ましいかしら。そう言えば、あなたがいなくなった後に新しい司書の方はいらっしゃるの? 司書長殿はかなりご高齢だから、この本を探してくださいとは言いにくいのよね。あの方はとても優しい方だからお願いすれば何でもしてくれるでしょうけれど、亡くなったお祖父様に少し似ていらっしゃるのよね。だから私がお手伝いをしなければいけない気分になってしまって……」
「アデリアお嬢様」
無理に話し続けるアデリアをたしなめるように、一歩進み出たエディークは口を開いた。
「お嬢様には感謝をしています。もう一度馬に乗れるようになったのは、お嬢様のおかげです」
「そうよ、私のおかげよ。それを忘れないで」
アデリアは軽く言って、右手を差し出す。
かつて交わした握手ではなく、貴婦人としての形だ。
エディークも騎士として恭しく触れて、指先にそっと唇をつける。口付けはほんの一瞬で離れたのに、肌にいつまでも熱が残る気がした。
手が震えそうだ。
それを隠すために、アデリアは手を引こうとした。
しかしエディークは手を離さなかった。少し腰を屈め、細い手を口元まで押し頂いたまま、アデリアの顔を見ていた。深い青色の目は髪を飾る生花を見つめ、薄い水色の目を覗き込んだ。それからいつもより少し大きく開いた首元に目を落とし、青いリボンで縁取りをした淡く優しい色合いの黄色いドレスへと目を動かした。
再びアデリアの顔に目を戻したとき、エディークは少しまぶしそうな顔をしていた。
「今日の装いは、とてもよくお似合いです」
「少しは美人に見えるかしら?」
「はい。とてもお美しい」
つぶやくように答え、エディークは微笑んだ。
それからようやくアデリアの手を離した。
できるだけ平然と手を下ろしたが、アデリアの心臓はうるさいほど早く打っている。だから目をそらして少し離れたいのに、隻眼の男は微笑みながらも目をそらしてくれなかった。
眼差しは優しいのに、同時にとても強い。
まるで絡め取られたように、目をそらせなくなった。
「一つだけ、わがままを言ってもいいでしょうか?」
「あなたがわがまま? なんだか怖いわね。私にできることなら聞いて差し上げるわよ」
「では、恐れながら。お嬢様が身につけている物を、一つ頂きたい」