16 回復と手紙(2)
やがて、エディークは足を止めた。
「アデリアお嬢様。私の馬に乗ってみませんか?」
「え、でも……」
アデリアは戸惑いながら青い左目を見上げた。
エディークの馬は、馬に乗れるようになってから実家のカルバン家から呼び寄せた軍馬だ。アデリアの馬より体が大きく、重装備の騎士を乗せても疲れを知らないだろうというくらいの立派な馬だ。
今は大人しく手綱を引かれているが、非常に気の強そうな目をしている。
健康そうな艶やかな毛並みで、しっかりとした筋肉が美しい。
エディークは愛馬の首を撫でる。馬を見る目はとても優しかった。そんな目のまま、アデリアにも微笑みかけた。
「この馬は軍馬です。私が最後に戦場に出た時もともにいた、お嬢様のお言葉を借りるのなら本物の軍馬ですよ。乗ってみたいと思いませんか?」
「……それは乗ってみたいけれど、でも、本当にいいの?」
「もちろんです。気は荒い方ですが、彼はお嬢様のことをよく知っています。だから大丈夫ですよ」
アデリアはエディークの馬を見た。
そっと手を伸ばしても威嚇はしてこなかった。思い切って首に触れると、親愛を示すように鼻先をすり寄せてきた。
機嫌はいい。心を許してくれているようだ。
「では、乗せてもらおうかしら。でもやっぱりとても大きいのね。このままでは乗れないから、踏み台を……」
アデリアは折りたたみ式の踏み台を用意してもらおうと、後ろに控えている侍女を振り返った。
しかし侍女が用意するより早く、アデリアの体はふわりと浮いていた。
「えっ?」
「失礼します」
エディークはアデリアの腰を抱き上げ、軽々と馬の背に乗せた。
驚いて身動きもできなかったアデリアは、我に返って急いで鞍上に座り直した。
軍馬の背は思っていたより高かった。アデリアは思わず鞍にしがみついた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。落ち着いて、いつも通りに手綱をお取りください」
「え、ええ。わかったわ」
そううなずくものの、慣れない高さは予想以上に怖い。
エディークに引かれて、軍馬はゆったりと歩き出す。その揺れに身を任せながら手綱を握るが、緊張しているようで必要以上に手に力が入ってしまう。顔も硬くなってしまった。
その姿に、エディークは声をあげて笑った。
司書として接していた時には見たことのない、硬いほど礼儀正しかった姿からは遠いくつろいだ笑顔だ。こういう笑顔は最近よく見るようになった。笑い声も聞き慣れた。思っていたより大きな声で笑う人だった。
こんな風に笑っていると、十四歳も年上の人のようには見えない。
馬の上から見下ろしているせいか、今はあまり年齢の差を感じなかった。胸の奥がじわりと暖かくなる。
しかし同時に、笑い過ぎだと不満に思った。
「……もう、そんなに笑わないでよ!」
「申し訳ございません」
むくれ顏のアデリアに、エディークは真顔を作って恭しく詫びる。
しかしその顔はすぐに笑いで崩れた。
黒い眼帯をつけた恐ろしげな姿なのに、笑顔はとても柔らかく明るい。そんな顔を見下ろして、アデリアもいつの間にか笑っていた。
アデリアは緊張を忘れていた。笑ったおかげで緊張も解けた。
軽く咳払いをして背筋を伸ばすと、しっかりと手綱を持ち直す。それからようやく、馬上から周りを見回した。
高さが少し変わっただけなのに、全く異なる景色を見ているようだった。
「軍馬の上から見ると、こんな感じなのね」
「いかがですか?」
「楽しいわ。きっと走ると速いんでしょうね。もっと馬術を磨いていればよかったわ。そうすれば私でも操れたのに」
小柄なアデリアは、残念そうに馬のたてがみを撫でる。
エディークは馬上へ目を向けた。
群青色の目が、ほんのりと頬を紅潮させたアデリアを映す。何かを言おうとするように口を開きかけたが、途中で引き結ぶ。
そしてすぐに表情を改め、前方へと目を戻した。
「……兄君方に同乗をお願いしてはいかがですか? マイズ様なら乗せていただけるのでは?」
「どうかしら。バラムお兄様にいけないと言われたことがあるし……」
「それは幼い頃の話ではありませんか? お嬢様はもう無謀な子供ではありませんよ。立派なご婦人です。バラム様もお許しくださるでしょう」
「そうね、そうだといいわね。でもご存知でしょうけれど、マイズお兄様の馬術って荒っぽいのよ。メイリックお兄様がお戻りになったときにお願いした方が安全かもしれないわ」
アデリアはそう言って笑ったが、エディークは返事をしなかった。どうしたのかと見下ろすと、何事もなかったかのように微笑みを返してくれた。
しかし軍馬の高さに慣れた頃になっても、エディークの様子がいつもと違う気がした。急に口数が少なくなったようだ。
さり気なく、しかし絶えず周囲に目を配っているのはいつも通りだ。
でも、無口すぎる。
何かを考え込んでいるようだ。もしかして、アデリアが何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。一瞬そう考えるが、エディークなら領主の末娘の失言など子供の戯言と聞き流すだろうと思い直す。
なんとなく馬上で首を傾げていると、エディークがわずかに表情を改めたのに気づいた。何かを見つけたように一点を凝視している。
「エディーク、どうかしたの?」
「……いえ、あれを」
エディークは足を止めて指差す。
足を止めた馬の上で、アデリアはエディークの指差した先に目を凝らした。
かすかな土煙が見える。領主館へと続く遠くの道を、見慣れない服装の騎馬たちが駆けてきていた。
早馬ではない。整然とした走り方で進んでいる。
「ずいぶん立派な服装ね。でも急ぎの使者の印はつけていないわ。何かあったのかしら」
「ご安心を。彼らが動いているのなら、物騒なことではありません」
アデリアが馬上で首を傾げると、エディークは穏やかに答えた。
しかし、声がいつもより硬いようだ。不審に思ってそっと顔を見る。金髪と黒い眼帯に覆われた顔から、表情が消えていた。危険に対する警戒ではないようだ。だが、緊張に近いものがあるような気がした。
エディークは馬の手綱を引いて歩き始めた。軍馬は大人しく従ったが、飼い主の変化を感じ取ったのか耳を動かしている。
「エディーク、あの方たちのことを知っているの?」
「はい」
エディークの返答は短い。さらに言葉が続くだろうと待っていても、エディークは口を硬く引き結んでいる。その間に領主館が近づいてきた。
見慣れない一団は、すでに領主館の前について馬を止めていた。
彼らの迎えに出てきたのは家令だった。そしてすぐに中へと案内して行く。そのことにアデリアは驚いた。
やがてアデリアたちも領主館までたどり着き、エディークは馬を止めた。
「エディーク、あの方たちはどういう人なのかしら?」
「彼らは王都から来たはずです。一人は友人でした。……あの服装は近衛隊です」
エディークはため息をついた。
友人ということは、デラウェスに来る前の友人なのだろう。長く会っていない相手だろうに、それほど嬉しそうには見えない。それに、あのため息はいったいどういう意味があるのだろう。
不思議に思っていると、エディークが馬上のアデリアを見上げた。
「失礼します」
大きな手が伸びて来て、アデリアの体に触れる。
あらかじめ声をかけてもらったから、今度は驚かなかった。
ふわりと体が浮いて馬から離れた。完全に宙に浮いたのが落ち着かず、アデリアは無意識に支えを求めて手を伸ばしていた。その指先に鮮やかな金髪の毛先が触れた。
驚いて手を動かすと、エディークの肩にあたった。
女性の柔らかな肌とは全く違う固い体だった。地面に足が降り立つと、なぜかほっとした。
しかし同時に、心地よい時間が終わってしまったことがとても残念だった。
突然の来客に、デラウェスの領主館は慌ただしくなっていた。
自室に戻ったアデリアも、何があってもいいように着替えを済ませた。
国王の身辺警護を担当する近衛隊の騎士が、制服のままやってきたのだ。私的な休暇を利用して旧友であるエディークに会いに来た、などというはずがない。
しかし、どうやらお家の存続に関わるような物騒な用件でも、領主令嬢を同席させるような用件でもなかったようだ。
すぐに呼び出しがかからないということは、緊張するような用件ではないのだろう。
そのことにほっとしつつ、アデリアは詳細を知らされるのを待った。
日が傾き始める頃、様子を見に行ったネリアが戻って来た。
「どうだった?」
「近衛隊の騎士様方は、国王様からの親書を持ってきたようです」
「お父様宛てかしら」
「はい。それと、エディーク様宛も」
アデリアは首を傾げた。
もしかしたら、エディークは手紙のことを予測していたのだろうか。実際にやってきた近衛隊を見て、国王からと言うことで緊張したのかもしれない。
エディークの実家では回復ぶりは知れ渡っているはずだ。国王からの手紙ということは……もしかしたら……。
アデリアが考え込んでいると、領主館の外が少し騒がしくなった。
窓辺へ行くと、近衛隊の騎士たちが馬に乗ってどこかへ向かうのが見えた。
「あの方々は領主館に泊まっていかれないの?」
「はい。しばらくデラウェスには滞在するそうですが、領軍の兵舎に泊まるようです」
一族出身の騎士であっても、領主館では気が抜けないからと兵舎に滞在することは多い。国王からの親書を届けた近衛隊の騎士も、きっと気楽な方がいいのだろう。
近衛隊の騎士たちを見送って、アデリアは窓に背を向けた。
「……エディークは書物室にいるかしら?」
「少し前に戻って行かれました」
「そう、ありがとう」
抜かりのない情報を労うと、ネリアはにっこりと笑う。
アデリアはすぐに書物室へと向かった。