15 回復と手紙(1)
ゆったりと馬を歩かせながら、アデリアは向こうの丘を見ていた。
デラウェス家の領主館の周囲は、見晴らしを保つために牧草地となっている。特に裏手側は向こうの丘まで草地が続いている。夏場なら美しい緑一色となり、点在する木は広く枝を伸ばしているところだ。
しかし今はすでに秋になっていて、風は少しずつ冬の気配が漂い始めている。周囲の草は下の方から枯れた色が増えつつあり、緑色の隙間でひっそりと揺れていた。
そんな向こうの丘から、冷えこむ空気を切り裂くように駆け下りてくる騎馬の一団があった。
デラウェス家の私兵軍の騎士たちだ。普段は軽装備の領軍だが、今日は重武装で訓練をしているらしい。そんな中に、一人だけ王国軍の装備を身につけた騎士がいる。そしてもう一人、軽装備の騎士がいた。
やがて丘を駆け下りた騎馬たちは、二手に分かれて草地を進む。円を描くように馬を駆けさせ、二つの集団はぐるりとまわって再び出会う。
その寸前に、騎乗した騎士たちは抜剣した。
すれ違いざまに、騎士たちは実戦さながらに剣を打ち合わせていく。
離れて馬を歩かせるアデリアにも、その激しい音がはっきりと聞こえた。アデリアの馬がびくりと耳を動かしたが、一緒に乗馬をしている帯剣した侍女の馬は平然としている。
訓練ではよく聞く音なのだろう。
だが、婦人用の大人しい馬は怯えていた。アデリアが馬からおりて、顔を見ながら首を撫でると馬は少し落ち着いたが、それでも剣を打ち合わせあう音が響くたびに耳がピクピクと動いていた。
もう一度首をなで、アデリアは風で絡まる髪をリボンで結び直しながら丘のふもとに目を戻した。
騎士たちはまだ馬を走らせている。軽装の騎馬も剣を打ち合わせている騎士たちに続いていた。重装の騎士は軽装の男にも剣を向けるようだ。丘を下った激しい勢いのまま、剣を持って馬をかけさせていく。
軽装の男は手綱から片手を離した。鞍上に固定している鞘から剣を抜き放ち、重装の騎士が振り下ろす剣に打ち合わせる。
ひときわ大きな音が響いた。
刃渡りの長い剣を片手で振るいながら、軽装の騎士はさらに重武装の騎士たちと剣を合わせていく。
その動きは、他の騎士たちの動きに比べるとどこか硬く不自然なところがあった。しかし決して他の騎士たちに劣るものはない。剣を振り抜く動きは誰よりも速く鋭い。しかも剣が合う直前にわずかに速さを抑えているようでもある。
やがて騎馬たちは、駆ける速さを落として止まった。騎乗しての訓練は、ひとまず終わったらしい。
隊長の印をつけた騎士が下馬したのを見て、アデリアは再び馬に乗って彼らのところへと行った。軍馬たちが踏み潰した草の青い匂いの中に、革と金属の匂いが混じっている。
「これはお嬢様」
隊長はすぐに気づいて、歩いて出迎えた。
他の騎士たちも、それに習って恭しい礼をする。しかし王国軍の騎士だけは陽気な仕草で手を振ってきた。
帰省中のデラウェス家三男マイズだ。アデリアも年齢の近い末兄に笑顔で手を振り返す。にやりと笑ったマイズは、大股でやってきた。そしてアデリアの前でわざとらしい真顔を作ると、貴婦人に対するような恭しい礼をした。
王国軍の上級騎士にふさわしい姿だ。しかし兄のことをよく知るアデリアにとっては、笑いを誘うものでしかない。
手を取って指先への口づけを企む兄の手から逃れて、くすくすと笑った。
「マイズお兄様ったら。私にそんなことをしても、全然似合いませんわよ」
「そんなに笑わないでくれ。せっかく格好つけているんだから、おまえもそれらしく受けてくれよ」
「はいはい。そうさせていただきます」
アデリアは笑いながら、右手を差し出す。
その手を気取った仕草で取り、マイズは背の高い体を少し窮屈そうに折り曲げて妹の手に恭しく口付けをした。
しかし、生真面目な顔はそこまでで、マイズ自身が大笑いをして全てを台無しにしてしまった。
他の領軍の騎士たちは、笑い転げる兄妹を見ながら口元を緩めていた。
そんな騒がしさの中、軽装の男も馬を降りた。
その動きは目立ってゆっくりとしたものだった。近くにいた騎士の一人が馬の手綱を持ち、別の一人が降りる体を支えている。
その様子をちらりと見やり、アデリアは末兄から離れて隊長に声をかけた。
「お邪魔をしてごめんなさい。エディークと話をしてもいいかしら?」
「もちろんでございます。しかし、エディーク殿は見事ですな。いつものことながら、剣の速さに押されてしまいます」
「そうなの?」
アデリアは目を動かして、鞍に固定していた剣を外して手に下げながら歩いてくる人物を見た。
一年前は、書物室に勤める見栄えのしない男だった。
今年の春先でも、アデリアが早足で歩く程度で負担がかかっていた。
しかし今のエディークは、馬上では他の騎士たちに見劣りしない。先ほどの訓練でもそれが明らかだ。
ただし、今でも背はまっすぐではないし、ゆっくりとした歩調は足を引きずりながらのものだ。馬の乗り降りには、誰かの介助を必要としている。
それでも、剣を持つ姿は体の不自由さを忘れさせるような威圧感がある。それにゆっくりとした歩き方なのに、不思議なほど華やかさを感じさせる。
「王国軍に入ったマイズ様の休暇に合わせての訓練ですから、盛り上がるだろうと予想はしていましたが。エディーク殿も参加していただいているので、若い連中の士気は高まるばかりです」
「マイズお兄様がいると皆が張り切るのは分かるわ。お兄様も誰よりも張り切りますからね。でも、どうしてエディークまで関係してくるの?」
「お嬢様。エディーク殿は王国軍の上級騎士隊長だった方ですよ。あの剣技を目の当たりにすれば、張り切るなと言う方が無理です。しかし……」
隊長は言葉を切った。
その目がアデリアから離れた。こちらへ歩いてくるエディークへと向かい、ため息をついた。
少し離れて立つマイズも同じ方向を見ていた。
「以前のエディーク殿を知っている身としては、ただ驚愕するばかりです。あの体であれほどですから、現役時代はどれほどのものだったのでしょうな。実に惜しい」
「……本当にそうね。でも現役の騎士だったら、デラウェス家に来ることはなかったと思うわ」
「ふむ。それもそうですか。エディーク殿にはお気の毒だが、デラウェスにとっては幸いでありましたな」
「そうかもしれないわね。でも本当によかったわ。また馬に乗れるようになればいいな、というくらいだったのに、あんなに動けるようになったんですもの」
アデリアは嬉しそうに微笑んだ。
ゆっくりと歩くだけで精一杯だった男が、乗馬ができるようになったのは二ヶ月前からだ。早馬のような疾走はできないが、馬に乗っていれば現役の騎士に劣らない攻撃力を発揮する。
どれほどの努力を続けた結果だろう。アデリアとの散歩だけではなかったはずだ。
再び前線の騎士になることは無理だとしても、もっと穏やかな仕事ならこなせるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、アデリアはやってきたエディークに笑いかけた。
「エディーク。領主館までご一緒していただける?」
「私でよければ、喜んで」
半年以上続いている恒例となったやりとりだ。
エディークは指笛を鳴らして愛馬を呼ぶ。おとなしく待っていた馬は、その音にすぐに主の元へ来た。
その手綱を取り、剣を再び鞍に取り付けると、やはり馬を引くアデリアの横に並んで歩き始めた。
わずかに足を引きずるものの、エディークの歩みに危うさはない。
むしろ、アデリアの歩幅に合わせて歩いている。エディークが作る心地よい速さに合わせながら、アデリアは隣の背の高い男を見上げた。
鮮やかな金髪はすっきりと束ねていた。傷のある右目には、黒い眼帯をつけている。広めに覆われているので、額から頬にかけての傷もそれほど目立たない。
この姿になったのは、馬に乗るようになってからだった。
「訓練の様子を見ていたわ。すっかり騎士に戻ってきたわね」
「恐れ入ります。さすがに以前のようには動けませんが、これ以上は望みすぎでしょう」
ゆったりと歩きながら、エディークは静かに笑った。
その姿は見るからに立派な騎士だ。やはりこの人は剣を持ち、馬を駆り、まっすぐに未来を見据えていく生き方が似合うのだ。
体を少しでも回復させるという目的は、もう十分すぎるほど達成した。次は、デラウェスに居続けさせるのではなく、もっと華々しい場へと送り出さなければならない。それが契約に似た関係を強いるアデリアの義務だ。
そんなことを考えると、胸がずきりと痛む。最近多くなったその痛みを無理矢理振り払い、アデリアはそっと周りを見た。
騎士たちは訓練を再開していた。アデリア付きの侍女はアデリアたちから少し遅れて馬を引いて歩いている。
領主館の近くには警備の人々がいる。それにおそらく、領主館の部屋の中からは母ポリアナが見ているだろう。
「お嬢様のおかげで、体を動かす時間を取れました。奥方様をはじめとしたご領主一族からの……その、婚約者待遇のおかげです」
「そうね、お母様の思い込みも、あなたのお役に立ててよかったわ。カルバン家のお兄様には、もう報告しているの?」
「はい。喜んでくれているのはいいのですが、どうやらまた皆に言い回っているようで。二番目の兄は頭を抱えているようです」
「それだけ喜んでくださっているのね。でも、私も嬉しいわよ。今のあなたは、書物室の冴えない司書だった頃を思い出せないくらいですもの。昨日もね、久しぶりにお見えになった西の大叔父様が驚いていたわよ。いつも難しいお顔の大叔父様のあの驚いた顔は、思い出すと笑ってしまうわ」
一人で笑ったアデリアは、歩きながらエディークを見上げる。片目の男は一瞬アデリアを見つめた。しかしすぐに前方へと目を戻す。騎士たちの訓練の音が聞こえる中、二人はのんびりと歩いた。