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14 散歩の日和(2)


 無知な自分が情けなくなって、アデリアは目をそらして馬用の水飲み場を見た。

 エディークの言葉通り、作業はほとんど終わっていたようだ。きれいに水気を取った棚はまたどこかへ運ばれ始めている。

 掛け声や指示が飛び交う。活気のある光景だ。

 だが一年と少し前は、この場所はもっと異質な熱気に満たされていた。

 ふと記憶を蘇らせたアデリアは、小さなため息をついた。


「エディークがデラウェスに来て、どのくらいだったかしら?」

「まだ一年経っていないくらいでしょうか」

「では、ここに軍馬に集まった光景は知らないわね」

「王国軍の騎士隊が立ち寄った時のことですか?」

「そうよ。今のデラウェス家は、何十騎もの騎士が集まることはないわ。昔は国境を任せられるくらいの貴族だったらしいけれど、今では領軍の騎士は少なくなったってメイリックお兄様がおっしゃっていたわ」


 棚はあっという間に運ばれていって、水飲み場には誰もいなくなった。

 人がいなくなると、周囲は急に静かになった。

 聞こえるのは周囲の木々から飛んで来る小鳥のさえずりだけだ。領主館のざわめきはここまでは届かない。もう少しすればまた人がやって来るかもしれないが、まだ昼には遠い時間の今はとても静かだ。

 あまりにも静かすぎて、ここに軍馬が並んだ一年余り前の光景も夢だったのではないかと思ってしまう。


「私、あんなに軍馬が集まったのは初めて見たの。とてもきれいだったわ。そして今は……デラウェスはとても平和だったんだと気づいたの」

「お嬢様」

「恋とかそういうものとは縁がない私だけど、フェリック様とはもう一度お会いしたかったわ。あの方の愛馬の話も伺ってみたかった。愚かな子供だと呆れられても、いろいろお手紙で伺っていればよかった。もっとお互いを知り合う努力をすればよかった。今になってそう思うようになったの」


 アデリアは目を伏せた。

 それから黙って水飲み場に背を向けて歩き出す。まだ部屋に戻る気にはなれなかったから、領主館の裏側の草地を歩いていった。その後を、エディークがゆっくりと追う。


「アデリアお嬢様。向こうに行ってみませんか?」


 それまで無言だったエディークの言葉に、アデリアは振り返った。

 金髪の司書は厩舎を指差していた。そちらを見てようやく顔を輝かせたが、アデリアははっとしてエディークに目を戻した。

 背の高い司書は、いつもより汗ばんでいるようだ。息も少し切れている。

 そう気付いて、アデリアははっとした。


「ごめんなさい。歩き方が少し早すぎたかしら」

「大丈夫です。それに私が勝手に歩いているだけですから」


 軽く汗を拭き、エディークはそう言って微笑んだ。

 アデリアは厩舎へ向かいながら、歩幅を少し狭くした。時々後ろを振り返り、エディークの顔色を確かめる。今度は負担はないようだ。どうせこの後に予定はないし、エディークも書物室にはしばらく戻れないのだ。始めからゆっくり歩けばよかった。ゆっくり歩くべきだった。

 ほっとしつつ反省していて、ふと長兄バラムのことを思い出した。


 バラムは書物室を一人で使いたいと言っていた。

 しかしそれは本当なのだろうか。アデリアに対してもゆっくりしろという言い方だったのは……もしかしてエディークとの時間を作らせようとしたのではないか。

 いや、あの厳格な兄がそんなことまで考えてくれるのだろうか。アデリアとエディークの間にあるのが、恋愛ではなく契約のようなものだと見抜かれているようだったのに。


 つい首を傾げていると、ちょうど厩舎にたどり着いたので入り口で足を止めた。

 厩舎には大柄の馬が並んでいた。

 どれもアデリアが乗るようなおとなしい馬ではない。領主軍に属する騎士たちのための馬だ。全部で十頭ほどだろうか。入り口から覗き込むと、馬たちもアデリアを見ていた。

 領主一族の誰かが来たと察して厩舎番が慌てて出てきたが、アデリアと一緒にいるのがエディークと見てとると笑顔になって少し離れていった。


「近くまで行ってみますか?」

「ここからでいいわ。……本当はこの厩舎には近づくなと言われているのよ」

「そうでしたか。私がお誘いしたのですから、お叱りは私が受けましょう」

「大丈夫。あなたが叱られることはないわ」


 アデリアは小さく笑ってエディークを見上げた。


「実はね、私、小さい時に馬に近づきすぎて皆を困らせたことがあるのよ。それで、軍馬には絶対に近づくなと言われたの」

「動物好きの子供にはよくあることですね。軍馬は気が荒いものもいますから、みだりに近づくなという指示は正しい」

「馬も迷惑だろうし、周りの人にも迷惑をかけてしまうでしょう? だから今でも近づかないようにしているのよ。こうして厩舎を覗くのは久しぶりだわ。何年ぶりかしら」

「そうですか」


 エディークは微笑んだ。

 しかし再び馬たちを見た顔からは、いつもの穏やかな笑みは少しずつ消えていった。軍馬たちの頑丈そうな首や脚をじっくりと見ている。その群青色の左目は、アデリアが知る司書の目ではないように見えた。

 当然だ。エディークはかなり長い年月を騎士として過ごしてたのだ。軍馬を見る目も単純に鑑賞するだけのアデリアとは違うだろう。


「エディーク」

「はい、何でしょうか」

「今日はあなたに頼みたいことがあったの。今日……いいえ明日から、毎日、私の散歩に付き合ってくれる?」

「毎日、ですか?」


 アデリアを見下ろしたエディークは、わずかに目を大きく見開いていた。

 その少し戸惑ったような顔を見ながら、アデリアはすまし顏を作って続けた。


「私と毎日散歩をするという口実で体を動かすのよ。あ、でも体調が悪い時は無理しなくていいわ。そして最終目標は、私と一緒に乗馬で散歩すること。できればあなたは軍馬でね。私、昔から間近で軍馬を見てみたいと思っていたの。あなたが軍馬に乗れるようになれば、私もすぐそばまで行けるでしょう? だから協力するわ」


 アデリアは笑いそうになる口元をぎゅっと引き結んで返事を待つ。

 そんなアデリアの水色の目から目をそらし、エディークは指先で顎に触れた。丁寧にヒゲを剃った頬に触れ、金色の髪に隠れた傷跡をたどるように指を動かす。その目は軍馬たちを見ていた。

 やがて手を下ろし、厩舎の天井を見上げた。


「……正直に言いまして、私にはありがたいお誘いです。しかしお嬢様には何の益もありません」

「あら、私は軍馬をそばで見たいだけよ。それにもっと壮大な下心もあるわ。あなたが出世した時にいいことがあると思っているんですからね」

「それでいいのですか?」

「出世したら、デラウェス家の宣伝をたくさんしてもらうわよ」

「そんな未来があればいいのですが。しかし、宣伝などでいいのなら容易いことです」


 エディークは姿勢を正した。

 改めてアデリアに向き直ると、少し腰を屈めて手を差し出す。その上にアデリアが右手を乗せると、それを恭しく押しいただき、細い指先に口を軽くかすめさせた。


「アデリアお嬢様。このご恩は必ずお返しすることを誓いましょう」

「契約成立ね」


 アデリアは笑う。

 笑いながら右手を引こうとしたが、思ったよりしっかりとらえられていて動かない。もう一度手を引こうと力を入れるが、逆に両手で包み込まれてしまった。


「あの、エディーク?」

「エディーク・カルバンの名において、我が敬愛の全てを捧げます」


 両手で握りこんだアデリアの手を、もう一度口元へと近づける。

 高い位置に持ち上げられ、アデリアは引っ張られたわけでもないのに思わず半歩前に足を動かした。たった半歩近づいただけなのに、ぶかぶかの司書の制服が目の前全体に広がった。まるで体ごと包み込んでくるように錯覚する。

 体温まで感じる気がして、アデリアは体を強張らせた。

 そんなアデリアに気付いていないように、目を伏せたままのエディークはアデリアの小さな手の甲に唇を押し当てた。

 アデリアの肌に柔らかなものが当たった。

 唇だと思い当たったとき、なぜか急に頬が熱くなった。

 両親や兄たちからの口付けとは比べ物にならない、なんだか生々しい感触だった。


 すぐにエディークの唇は離れる。呆然と見上げていると、濃い青色の目と視線が合った。

 鮮やかな金髪の向こうで、エディークは笑ったようだった。とても優しい目と笑顔で、それを見た途端に心臓がどくりと大きく打つ。

 アデリアの手を包み込んでいた大きな手は、ゆっくりと離れていった。


 急に寒くなった気がして、慌てて目をそらした。

 何事もなかったように手を引っ込めたアデリアは、領主館へと歩き出した。

 背後の少し引きずる足音を聞きながら、エディークに口付けされた手の甲をもう一方の手でそっと覆った。そこだけは肌が熱い気がする。鼓動もなんだかうるさい。


 歩調がだんだん早くなる。その度にエディークの足音で我に返るが、緩めた歩調はまたすぐに早くなってしまう。それを何度も繰り返しながら、時折そっと振り返る。しかし明るく輝く金髪が目に入ると、心臓が飛び上がるように早く打ち始めるので諦めた。

 何度目かに振り返って、エディークと目があった。落ち着かない歩調の令嬢が面白いのか、エディークは微笑んでいた。飾り気がなく、表情を作ることもない。たぶん気を許した相手にだけ見せるような、素顔のままの笑顔だ。

 思わず見入ってしまいそうになり、アデリアは慌てて前を向いた。エディークの笑顔を見ていたのは実際には一瞬だっただろう。それでもしっかりと脳裏に焼きついている。彼の笑顔は兄たちの笑顔とどこか似ているような気がした。


 兄たちからの優しい笑顔は、肉親ゆえの特権だと思っている。

 どうやらエディークも、アデリアにはそれなりに親しみを持ってくれているらしい。愚痴をこぼしたり自分本位に盾にしたりするおかしな領主の娘なのに、なんて優しい人だろう。彼には弟が何人もいるらしいから、それと同じようなつもりなのかもしれない。

 あの笑顔を向けられるのは、とても嬉しい。

 もう一人、優しい兄ができたようだ。

 いや、もしかしたら、エディークとしては父親になった気分なのかもしれない。

 彼の年齢ならあり得る話だ。そのくらい大人の男性で、アデリアは彼から見ればとても若いらしい。口に出しては言わないが、十七歳は子供だと思っているようなのは時々感じていた。


 ……急に心が重くなった。

 早くなりがちだった歩調も、がっくりと重くゆっくりとしたものになった。そしてなぜか、胸がちくりと痛んだ。

 


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