10 司書の過去(3)
アデリアは黙り込んだ。
テーブルの上に何冊も積み上がっている絵物語を見つめ、元騎士の司書を見る。母親が次の婚約者に必須だと言っていた条件は何だったかと、しばらく真剣に考えた。
「……つまり、あなたは貴族の三男か四男なの?」
「北の貴族領主カルバン家の三男です」
「あなたは、もう戦場には出ない?」
「以前より動けるようになりましたが、体はこの状態です。私が戦場に出るなど、それこそその地の存続が危うくなった時くらいでしょう」
「それから……騎士になっている弟君とか、あなたが声をかけたら駆けつけるような騎士の仲間がいらっしゃったりする?」
「弟三人が全て騎士です。私は長く王国軍に属していましたから、領地を持たない騎士は友人に多いですね」
驚くほどポリアナが望んでいた条件を満たしていた。
もしかしたら、長期の滞在を許可した父バッシュにもそういう目的があったのだろうかと一瞬考えたが、元婚約者のフェリックが戦死したと伝わったのはたった一ヶ月前だったからそれはあり得ない。
心の中で父に謝りつつ、ぼさぼさ髮の司書を見つめながら少し首を傾げた。
思っていたよりずっと若いらしいことはわかった。では、いったい何歳なのだろう。どう若く見積もっても、アデリアに比べると圧倒的に年上のはずだ。
「その……あなたはいったい何歳なの?」
「三十一歳です」
「うん、そのくらいよね。とすると、私より十四歳も上なのね」
控えめに言っても、十分すぎるほど大人の年齢だ。若くして親になった人なら、アデリアとあまり年の変わらない子供がいる。そう言う年頃だ。
八歳上の長兄バラムより、さらに六歳も年が離れている。アデリアにとっては若いと思う年代ではない。もちろん、そのくらいの年齢差も珍しくないのが貴族の結婚ではある。だからアデリアは頭を軽く傾げたまま、ちらりと見上げた。
「政略結婚なら、十四歳差くらい別に珍しくはないとは思うわ。でも……もしかして資産家でいらっしゃる?」
「多少は功を立てていますし、陛下のお許しを得て王国軍を退役しましたので、それなりに恩賞はあります。しかし当然ですが、貴族の資産に比べればたいしたことはありません。弟を紹介しろと命じられるのならわかりますが、私のような若くない男を婿にしようという奥方様のお考えは……失礼ながら理解し難い」
「安心して。私にもお母様のお考えはよく理解できないから。あ、でも、あなたが嫌いというわけではないわよ」
アデリアは誤解を招かないように慌てて言いたしたが、エディークは全く気にしていないようだ。
それはそうだろう。
アデリアは貴族領主の娘だ。しかし美人というほどではない。どちらかと言えば、取り柄と言えるのは若さだけだ。持参金はあるし婿に入れば騎士領主の地位も期待できるが、かつて国境地帯と接していたぐらいだから不便な未開地が多い。
前線で功を上げてきた騎士なら、怪我の後遺症が和らいでくればもっと有力な貴族から声がかかるだろう。
国王と面識があるのなら、そういう繋がりは何にも勝る強みになる。そういう話は兄たちから聞いてきた。
しかし、だからこそ、このまま母親が引き下がるとは思えない。
あの母のことだ。必要以上に張り切っているのは間違いないだろう。長々とため息をついたアデリアは、お互いに損にならない道はないかとしばらく考え込んだ。
「……司書殿。あなたは、お母様の言葉を完全に拒絶できる?」
「奥方様だけならなんとか。しかしご領主様にも命じられれば、それを完全に拒否することはできません」
「そうよね。でも、このままでは私はもちろん、あなたも逃げ道がなくなるわ」
アデリアは書物室の中をぐるりと見回した。
座っている絵物語のある一画ではなく、もっと実用的な書物が並ぶ棚を見つめ、それからエディークに目を戻した。
「表向きだけでいいから、私との婚約に前向きになってくれないかしら?」
「お嬢様、さすがにそれは……」
「もちろん、表向きだけよ。本当に結婚しろとは言わないわ。ただね、お母様のあの様子では、あなたがだめなら次々に縁談を持って来ると思うのよ。あなたも、田舎の小領主の地位と妻を押し付けられても困るでしょう?」
エディーク・カルバンという人物のことは、アデリアはよくわからない。
話を聞いてわかったのは、元々の生まれは高く、退役してもなお国王から信頼されているらしいこと。上級騎士と言っていたから、その恩賞は欲に走らずにすむくらいの資産だろう。
わかったことは、たったこれだけだ。
しかし、書物室のボサボサ髪の司書としての人物なら、人柄はよく知っている。間違いなく信頼できる人だ。
味方になってくれれば、誰よりも心強いだろう。
あのポリアナを相手にするのだ。逃げ道のない状況に追い込まれるより、彼の協力を得ながらおとなしく囲いの中に入るふりをし、静かに逃げ出す機会を待つ方が賢明だろう。
アデリアは姿勢を正してから、身を乗り出して言葉を続けた。
「お互いの平安のために、お母様に対する盾になってくれないかしら?」
「恐れながら、婚約の先には結婚がありますよ」
「大丈夫。私の結婚運のなさは並大抵ではないのを忘れたの? でも一応、結婚までの時間稼ぎができる口実は欲しいわよね。例えば……あなたの怪我がもっと癒えてから結婚したい、とかはどうかしら?」
アデリアは言葉を切って、頭の中で自分の考えをもう一度まとめる。
しばらくは従順なふりをする。その間も逃げ道は確保。相手が痺れを切らすまで時間を稼いで、堂々と正面から退却する。歴史書にも似たような事が書いていたはずだ。
だから、あと少しだけ時間を作れるだけの風除けが欲しい。
「あのお母様のことだから、長くは待ちきれずに他の相手を探すはずよ。こちらから縁談を拒めば、あなたの汚点にはならない。もっと条件のいい別の方と結婚できると思うわ」
「……しかし、お嬢様はもう十七歳では? 一般的にはまだお若いとはいえ、貴族の中では十分な年齢と見なされます。そして私も次の夏を越えれば三十二歳になります。残念ながら、結婚の先送りは難しいのではないでしょうか」
静かに聞いていたエディークは、少し考えてから首を振った。しかし否定的なようで、不機嫌そうにはなっていない。
伸びた髪のせいで顔は見えないが、雰囲気は穏やかなままだ。
アデリアはそのことにほっとした。ついでに勢いづいて、たたみかけるように質問をした。
「エディークは馬に乗ることはできる?」
「現状では乗れません」
「それなら、馬に乗れるまで結婚には踏み込めない、という口実はどうかしら。この辺りでは、花嫁は花婿と一緒の馬に乗って新居に行く慣習があるから。お母様はもちろん、お父様も納得すると思うわ」
「なるほど。確かにしばらく、あるいは永遠に結婚できませんね」
「あの、ごめんなさい。こういうのは失礼よね。どちらにしろ、あなたには迷惑をかけてしまうとは思います。でもあなたがいてくれたら私は縁談に悩まされないわ。そういう雰囲気を匂わせていれば、あなたもお母様に追い立てられないと思うから……どうかしら?」
頭の中で考えながら話していた時の早口を改め、アデリアはおそるおそると問いかけた。
母が迷惑をかけただけでもとんでもないのに、元騎士という誇りを傷つける提案だったかもしれない。今さらながら気になった。
しかしぼさぼさ髪の司書エディークは、押し殺した笑い声を上げた。
「若いご令嬢に、このような求愛を頂いたのは初めてです。どうしても逃れられなくなったらその口実を使わせていただきましょう」
一通り笑ったエディークは、髪をかきあげた。
普段はあまり見えない顏がはっきりと見えた。痛々しい傷痕は恐ろしげだが、彼の笑顔は思ったより心地よい。目尻が少し垂れ気味だからかもしれない。アデリアは笑顔を返しながらそんなことを考えた。
アデリアは立ち上がってエディークの前へ行く。
慌てて立ち上がったエディークに、右手を差し出した。貴婦人の手の出し方ではなく、男たちが行う握手の形だ。
「これは契約のようなものよ。だからあなたは私の同盟者ね。よろしく」
「こちらこそ」
二人は握手をかわした。
アデリアは満足して手を離そうとしたが、エディークは手を持ったまますっと腰を屈めた。
そしてアデリアの指先に、エディークの唇が触れた。
「私の名はエディークですが、役柄は騎士の方を取りましょう。お嬢様の本当のお相手が現れるまで、私がおそばにお仕えします」
アデリアは貴族領主の末娘として生まれ育ったから、騎士に敬愛を捧げられたことはある。三番目の婚約者からは、誠意の欠片もなかったが、一応ひざまずいて愛を捧げられたこともあった。
なのに今までになかったくらい、なんだか落ち着かない気分だ。
元騎士の唇がかすめた肌が熱くなった気がした。ぼさぼさの髪の端が手に当たって、それがひどくくすぐったかった。
「あ、あなたはもう騎士ではないのでしょう? それなのに仕えるなんて言っていいの?」
「そう言えばそうですね。つい癖で言ってしまいました」
手を離したエディークは、ゆっくりと背を伸ばしながらまた笑った。
まっすぐに立ったエディークは、とても背が高い。
騎士だった頃はどれほど華やかな人だったのだろう。
ふとそんなことを考えて、その姿を見ることはもうできないのだと改めて思い至る。それはとても残念なことに思えた。