少女のためのグランドピアノ
明日、姉のグランドピアノが処分される。
そのピアノは姉が生まれたときから家にあった。両親が子供には小さなときから音楽に触れさせておきたいと話合い、決して安くはない新品のグランドピアノを姉が生まれたその年に買ったらしい。両親ともに音楽に触れたことがないにも関わらず購入した。母親がその頃世を騒がせていた天才ピアノ奏者の少年を見て感銘を受けたという理由もあったようだ。そのせいか僕は「奏一」という音楽を奏でるがために生まれてきたような名を授けられた。
僕は姉より二年遅れて生まれたが、今でもお腹の中でピアノを聞いていたようなそんな感覚がする。この話を家族にすると、姉がピアノを弾き始めたのは四歳のときだったのでそれはありえないと笑われた。しかしそう錯覚するほどに、そのピアノの音色は家族と共にあり、僕に安らぎを与えてくれる存在だった。
そんなピアノが、明日処分される。
先月、僕は東京の私立大学に合格した。姉と同じ大学だ。合格祝いの席で父親が四月から配属先が埼玉に変わることになったこと、僕の大学進学も決まったので両親共に引っ越すことを告げた。元々勤務先が変わるかもしれないことは聞いていたので特に驚きはしなかった。あれこれ想像していた一人暮らしができないのは嫌だなという思いの方が強かった。
ただ先に単身で上京していた姉にはそんな話は初めてだったらしく、いささか驚いていた。姉は一人暮らしを続けたいと父親を説得した後、ソースを手に取りながら尋ねた。
「そういえば、ピアノはどうするの?」
両親は顔を見合わせた。ピアノは当然捨てる物として考えていたようだ。無理もない。姉は中学に入ってからは陸上競技に魅せられて、ピアノに触れる機会なんて数えるほどしかなかった。
ちなみに僕は小さな頃から音楽関係がからきし駄目で、天才ピアノ奏者とはかけ離れた野球少年に育っていた。無論ピアノに触れる機会などなく、姉のいない部屋でピアノが埃をかぶっていたって気にもしなかった。ピアノは処分するかなという母親の呟きにも寂しさを覚えながらも同意しておいた。
しかし姉にとっては思い出の品であることには変わりはない。あとで聞いた話では、両親はこのとき焦ったらしい。両親とも姉に捨ててもいいかと確認を取ることを忘れていたのだ。母親が捨てようと思っているがどうだろうかということをかなり婉曲に尋ねると、姉はコロッケを頬張りながら言った。
「まあそりゃそうだよね」
空気が緩み、それからしばらく家族とピアノの思い出話が続いた。母親のこんなことがあったという話に姉も懐かしそうに目を細めながら相槌を打っていた。しかし、会話が弾めば弾むほど寂しさも大きくなっていった。母親はしめっぽく「寂しくなるね」と呟く。その言葉に父親も僕も深く頷いた。
姉も当然そうだろうと思っていたのだが、姉は頷いてはいなかった。少し口元に笑みを浮かべたまま、どこか遠くを見つめていた。
姉が僕によく弾いてくれる曲があった。花いちもんめ。子供のころによく遊んだあの曲だ。初めて聞かせてくれたときはまだランドセルも背負ったことのない僕を後ろに立たせて弾いていた。
「か~ってうれしいはないちもんめっ」
そこまで歌いながら弾くと、一度手を止めてこちらを振り返る。何かを待つようにじっと見つめてきた。僕はどうしてよいか分からず恐る恐る「はないちもんめっ」と復唱した。
姉は満足とはいかなかったようだが、ピアノに向き直り次の章をリズムよく弾く。
「ま~けてうれしいはないちもんめっ」
再びピアノの音色が止まる。僕もまた「はないちもんめっ」と復唱する。
姉は黒鍵を数回撫でた後、また歌いながら弾いた。
「あのこがほしい、あのこじゃわからん、そうだんしましょ、そうしましょ」
そこから八拍子間、ちゃんちゃちゃんちゃと姉が独自に作りだしたリズムが流れる。お祭りで聞くような心弾む拍子に幼心の僕は思わず手を叩く。そして再び最初のリズムが紡がれる。か~ってうれしいはないちもんめっ。今度は姉が声に出すことはなかったが、僕が代りに歌っていた。二人は何がおかしいのか、けたけた笑いながら歌っていた。
そんな風にピアノで遊ぶ日が続いた。姉が他の曲を弾いていても幼い僕は花いちもんめを弾いてとせがんでいた。姉もそういうと嬉しそうに鍵盤を叩いて見せた。
ピアノを弾くことは楽しいと姉は言っていた。
「青空いっぱいのキャンパスに、虹色の絵を描きあげる感じなの」
姉はそう続けていた。
「楽しいから、弾いているの」
お下げ頭を揺らして僕に笑いかけていた。
しかし、僕が小学校に入学し、姉も本格的にピアノのレッスンを受け始めると、そういうピアノ遊びの時間は無くなっていった。僕が「花いちもんめがいい」と言っても、姉はもっといい曲があると中世ヨーロッパの偉大な曲を弾いて見せるのだ。なるほどそれは心落ち着かせるいい曲なのだが、小学生の僕には間延びした曲にしか聞こえず、姉が一生懸命に弾く少し後ろで不貞腐れていた。
火曜日と金曜日は先生の家でのピアノのレッスンの日だった。母親が探してきたそのピアノ教室は上達が早くなると評判になっていた分、生徒に対してはそこそこ厳しかった。先生は眼鏡をかけたおばさんだった。姉を迎えに来た際に、外で一人ボールを蹴って遊んでいると、二階の窓がぴしゃりと開き、「静かになさいっ!」と怒られたことを覚えている。その経験もあって僕はその先生がどうも嫌いだった。
「厳しいけどね、上手くなったら凄く褒めてくれる」
姉は夕食の席でそう言った。
その先生の教え方は間違っていなかったらしく、数回の発表会をこなした後は、いくつものコンクールで姉の演奏は評価を受けた。金賞やらトロフィーやら形は違えど、姉の努力の証だった。賞状を掲げて、ホールに鳴り響く拍手を一身に受ける姉の姿に尊敬と羨望を抱いていた。
家に飾られた賞を両親は大層喜び、姉にエールを送っていた。姉はあいまいに微笑みながら、小さく頷いた。
姉と疎遠になり始めたのは、姉が小学五年生になってからだ。その年から部屋が一人一部屋に割り振られたせいもあるが、それ以上に僕が姉を避けていた。ともすれば親よりも身近な存在であるにもかかわらず、僕から一番遠い存在に思えたのだ。
とある日のことだ。僕が友人と遊んで帰り、ばたばたと靴を脱いでいると、ピアノ部屋の方から悲しい音色が耳に届いた。僕は扉の隙間から少し覗き見ると、姉がこちらに背を向けてピアノにを奏でていた。その時に聞いていた曲は物悲しく、それでいて聞く者を圧倒するような音色だった。僕は姉の揺れ動く小さな背中を見ながら、その華奢な体から紡ぎだされている深い音色に不気味さを感じていた。息が苦しく、心臓の鼓動が大きくなっていったことを覚えている。
やがて曲を弾き終わり、姉は肩を撫でおろした。しばらくそのまま静止した後、楽譜を持って立ち上がり、こちらを振り返った。その時に初めて僕の存在に気付いた様子だった。姉はきょとんとした顔を見せた後、こちらに笑いかけた。
「帰っていたのなら、声をかけてくれればよかったのに」
僕はそこでようやく大きく息をすることができた。曲が終わった後、姉が僕のことを忘れてしまっているのではないかと、僕はそれを恐れていたのだ。
姉がピアノから離れ始めたのは中学生に入ってすぐだ。元々走るのが速いと言われていたこともあって、陸上部に勧誘されたのだ。姉は部活という集団に属してみたいと考えていたらしく、陸上部に入ると両親に告げた。両親も賛同して、姉の陸上の中距離走者としての人生が始まった。
しかし陸上競技の練習はハードで、ピアノを練習する時間がどんどん無くなっていった。両親はやりたいことを優先させてあげたいという気持ちがあったらしく、無理してピアノをする必要はないと姉に告げていた。事実、ピアノ教室は陸上部入部と同時に辞めていた。しかし当の姉が両方することを止めなかった。夕方遅くまで走り込み、九時までの間はピアノに向かっていた。疲れ果てた様子でピアノに向かう姉の顔に笑顔はなかった。
ある晩、家に苦情が来た。僕がリビングでテレビを見ていたとき、近所の中年男が家を訪れたのだ。夜にピアノを鳴らすとは何事だ、こっちは早く寝なくちゃいけないんだよ、と。母親は頭を下げ、姉に夜はピアノを弾かないようにと注意した。
すると姉は平坦な口調でこう言った。
「じゃあいつピアノを弾けばいいの?」
それに母親が答える。
「休みの日の空いた時間とか」
そしてこう続けた。
「でも本当にもう無理しなくてもいいんだよ。やりたいことをやりなさい」
そこで父親が帰ってきた。母親はぱたぱたと廊下を小走りし、玄関前で父親を出迎える。居間に残された僕は立ちつくす姉の小さな声を聞いた。
「別に、無理なんか――」
その先は、テレビ番組の笑い声にかき消された。
その週の土曜日、姉は陸上部を休んだ。
父親は休日出勤しており、母親も買い物に出かけていた。僕はというと、熱を出して寝込んでいた。休日に寝込むなんてついていないと思いながらうつらうつらとしていた。
すると懐かしい音色が聞こえた。平坦ながら踊りたくなるようなリズム。僕はその音色につられてベッドから降りる。自分の部屋の扉を開き、廊下に出ると、音はより大きく聞こえてきた。より鮮明になる方へと歩いて行き、ピアノの置いてある部屋の前まで来た。僕はそれが当然のことのように扉を少し開けて、覗き見することにした。
前に覗き見たときと同じように、姉がピアノを弾いていた。違うのは、姉の髪の毛が短くなったこと、僕の視線が高くなったこと、そして、弾いている曲。
花いちもんめ。
姉の音色は幼き頃とちっとも変っていなかった。軽やかで、テンポよいリズム。僕は熱で寝込んでいたことも忘れ、曲の邪魔をしないように扉を静かに開いて、部屋の中にゆっくりと入る。
そのときだった。
だんっ、と床を叩く音がした。
僕は自分が何か物を落としたのだと思い首をすくめた。しかし辺りを見渡しても何も落とした様子はない。前を見ると姉は聞こえていなかったのか、曲を弾き続けている。
だんっ。
また音がした。今度は一度ではなかった。続けてだんっ、だんっとボールを壁当てするような乱暴な音が聞こえてくる。僕はその音の正体が分かって息を呑む。
姉が、足で地面を踏みつけていたのだ。右足で地面を鳴らしている。そこに床があるのが許せないかのように強く強く足を打ちつける。その様は、苦しい時にスパートをかけるランナーのようだった。それを分かった瞬間から、穏やかだった曲調も変わっていく。
今まで優しく撫でていた鍵盤を力強く叩き、丁寧に並べられていた一音一音に違う音をねじ込み始めた。投げ捨てるように奏でられる音は、しかし確かに花いちもんめを作りだしていた。主音を外さずに、それに負けない音を曲に組み込んでいる。音と音とが競争をするようにリズムがどんどん速くなる。だんと足を踏み鳴らし、体を大きく揺れ動かす様は、一度見たことがある。
この一週間ほど前の夕暮れ時に、母親と一緒に姉の中学へ向かったことがあった。母親の先生への挨拶ついでに、運動場で走っている姉の姿を見たのだ。運動場に白線で引かれたトラックを数人の学生が走っている。先生のラスト三周の言葉に、いち早く集団を抜け出す影があった。短い髪を揺らしながら、必死に前を見据えるその姉の姿は、初めて見るものだった。顔は歪み、汗を絞り出しているにもかかわらず、姉はいきいきとしており、どこか楽しそうだった。
結局スパートが早すぎたのか、姉はラスト一周で追い抜かされ、二着でゴールした。息を切らしながら一着の人に悔しそうに何か言っているその笑顔は、昔、花いちもんめを弾いて聞かせてくれたあのときの笑顔と重なった。
姉は、ピアノを弾きながら走っていたのだ。一体何故走っていたのだろう。幼き頃の自分を追い掛けていたのだろうか。それとも、そんな自分を突き放していたのだろうか。僕にはいまだに分からない。
あのこがほしい、あのこじゃわからん、そうだんしましょ、そうしましょ。
姉は、誰かと相談出来たのだろうか。
結局その後どうなったのかは覚えていない。気付いたらベッドで眠りこけていた。姉が僕の顔を覗きこみ、大丈夫かと優しく聞いてきた。僕は目を合わせることができず、小さく頷くと布団で顔を覆い隠した。
それから姉がピアノを弾いている姿は見たことがない。姉は陸上選手としては優勝などは出来なかったが、高校を卒業するまで続けた。東京の私立大学生になってからは、文学系のサークルに属し、ゼミにバイトに大忙しの日々を送っていたらしい。
明日にはピアノが処分されるという日、僕は姉に呼ばれてピアノの部屋に行った。
「久しぶりに私のピアノを聞かせてあげるよ」
ちょっと聞きたいという気持ちはあったがそれを表だって言うのは恥ずかしく、「言いよそんなの聞かせなくても」と言いながらも、姉の一歩後ろの定位置についた。姉はそんな僕の様子を見て、うんうんと頷く。
姉は鍵盤を叩いて音の調子を確認する。さすがにガタがきているのかところどころ音が出なかったり、押した鍵盤が元に戻らなかったりした。
「これじゃあ弾ける曲は一つしかないね」
姉はそう言うと、約十年ぶりにあの曲を弾いてくれた。少ない音階で弾くことができる曲。子供のころから聞いていたあの曲。
「か~ってうれしいはないちもんめっ」
そこまで言って姉は僕の方を振り向いた。「いや、言わないよ」という僕に口をとがらせたが、どこか嬉しそうだった。続きをスラスラと奏でていく。随分と気分が乗っているようだ。ここまで嬉しそうな姉の姿も珍しい。僕が「楽しそうだね」と言うと、姉が答えた。
「久々に弾くと楽しいもんだね」
でも、と姉は続ける。
「楽しいって、その時々によって変わるものだから」
姉はチャンと音を鳴らして曲を締めくくり、僕に「大学生活、楽しみなよ」と告げる。それからもう一度ピアノに向き直り、今度は違う音楽を弾き始めた。しかしところどころ音がずれてしまう調子はずれの曲になってしまい、「何だよ、これ~」と姉が笑った。
姉に動かされてきた古ぼけたピアノは、最後の別れ際に、もう一度姉に笑顔を届けていた。